平日、仕事している日の昼食には、会社の近所に多くある飲食店のうち、何軒かを順繰りに使っている。
最近の私は、袖
その日も、いつもおなじみのそのチェーン店にお昼を食べに行った。もし以下の話の関係者がこのブログを偶然見て、トラブルになったりしてもいけないので、なんという店かはここでは伏せたい。
店はいつも繁盛していて、昼どきは店の周りにぐるりと列が
そんな中に、たまに若い男女の店員が交じる。その日も、この店の店員さんには珍しく、注文を聞く係は先日から見かけるようになった健康そうで明るく若い娘さんであった。アルバイトなのだろう。
5分ほど並んだ後、次の次に注文するのは私の番、というところに来た。
アルバイトらしい娘さんは、私の直前の客に「次のお客様、ご注文をどうぞ」とニコッと笑いかける。
私の直前の客は、ただでさえ色の悪い
注文を聞かれたその男は、
「9−j.,w#$/z/%f」
……と、
「……あの、申し訳ありません、よく聞こえませんでした、ご注文をもう一度お願いします」
そりゃそうだろう、すぐ後ろに並んでいる私にだって、この渋皮面の出す雑音みたいなものが食べ物を注文する言葉には聞こえなかった。ましてや、カウンターの内側には様々な厨房機器が所狭しと置かれて音を立てており、
「9−j.,w#$/z/%fッ!」
「あ、あのう、すみません、◯✕(注)を、何でしょうか?」
「9−j.,w#$/z/%ッf!!!」
まだ何を言っているのかわからない。ひょっとして、喉や神経器官、あるいは知能など、体に何らかの障害を抱えた人か、ひょっとすると外国人なのかもしれないと私は思った。それならやむを得ない。体が悪いのなら気の毒なことだし、外国人なら言葉が分かりづらいのはあたりまえのことだから、後ろに並んでいる者は多少待たされたとしても、寛容をもって静かに待つのが当節流の
「すみませんもう一度お願いします」
渋皮面の雑音男はスマホから目を離し、カッと顔を上げると、
「『◯✕の大盛りに△□をトッピングで』ッ、て言ったんだよ!!何だお前は!!」
と、店中にハッキリ聞こえるような大きさの、これまた店中の人が明瞭に聞き分けられるような発音で
「かしこまりました、『◯✕の大盛りに△□をトッピングで』ですね、少々お待ち下さい」
「なんなんだこの店は! こんなことは初めてだ!! お前は日本人か?! 日本人なのか? 名札を見せてみろ!」
アルバイトの娘さんは申し訳なさそうな顔をして名札を示し、
「ハイ、日本人です」
と答えた。
「なんだ、それでも日本人なのか?! 耳が詰まってるんじゃないのか! 耳掃除ぐらいしろよ!!」
それへの娘さんの答えはなかなか秀逸と言えた。
「はい、耳鼻科へ行って
渋皮面雑音男はまだ何か言いかけたが、ちょうどそこへ、注文した料理が届いた。渋皮面雑音男はそれを乱暴にカウンターから引ったくり、ドンと自分のトレイに乗せた。料理が飛び散ってトレイやそこらが汚れた。
「見ろよ! トレイが汚れちまったじゃないか! 換えろ!」
渋皮面雑音男はまるで投げつけるように娘さんに汚れたトレイを押し付けた。
私は真後ろで無関係に見ていただけだったが、積み上げられた新しいトレイのすぐそばにいたので、渋皮面雑音男のためにトレイを一つ取って渡してやった。
渋皮面雑音男は、礼も言わず奪うように私が渡したトレイを取り、何やらブツブツと文句を言いながらレジへ向かった。
私は真後ろにいたから、渋皮面雑音男が勘定を済ませる様子を、見たくもないのに見ることになった。奴が出しているチケットには「株主優待券」の文字が見えた。渋皮面雑音男はそれに加えて何か他のポイントカードなども使い、その支払いはレジの大刀自殿に「20円でございます」と読み上げられた。
なんと
だいたい、大声で「お前は日本人か」とはなんて言い草だ。場所柄で、店の客には中国人や韓国人、欧米らしい黒人や白人もたくさんいる。そんな場所で「お前は日本人か」など、娘さんばかりか、大勢いる外国人客に対しても失礼以外のなにものでもない。
聞こえない雑音みたいな音を
私は男の目線がこちらに少し向いたときに睨みつけてやりはした。しかし、因縁をつけたり暴力を振るったりはしなかった。社会人なのだから、想像はしても、我慢するに決まっている。
それにしても、アルバイトの娘さんの対応は見事と言えた。娘さんに落ち度はない。渋皮面雑音男が悪い。それはそばで見ていた私が保証しうるし、その場にいた誰もがそう思うはずだ。そしてなお、娘さんは怒るでもなく朗らかでしかも丁寧な対応に終止し、その直後でも明るく接客を続けていた。これがもし私なら、怒りや不機嫌が態度に出てしまい、無関係の他のお客さんに嫌な思いをさせた挙句、自分自身はガッカリと落ち込んでしまうだろう。だが、娘さんはそうではなかった。
しかしそうは言うものの、外面的には客を怒らせてしまったことに違いはないから、ひょっとすると、後で娘さんは店長に注意されるかもしれない。
食べ終わって店を出、会社への帰り道を歩きながら考えた。あの渋皮面雑音男に絡んで懲らしめることなんか想像するより、アルバイトの娘さんを褒めてあげよう。そのほうがずっといい。そう思った。
アルバイトの娘さんは毎日出勤ではないらしく、また、私も毎日その店で食事をするわけではないから、一週間ほど娘さんを見なかった。一週間経ってようやくカウンターの向こうの調理場に娘さんを見つけた。私の注文を聞いた娘さんは、にこにこしながら私がいつも注文する無料のものを出して、「今日もこちらでよろしいでしょうか」と愛想よくしてくれた。
彼女を褒めてあげるのはここだ、と私は思った。
「あなたは、偉いねえ。先週の、ほら、なんだか変なお客さんがいたでしょう、あなたのあしらい方は立派なもんでしたよ」
「あっそうか、お客様、あの時後ろにおられたんでしたよね。覚えていてくださったんですね」
「覚えていますとも、いや、あなたこそ私をよく覚えていてくださいましたね。あなたは、あんな嫌な客に、落ち着いて立派に対応してました、あなたは偉い、私がこのとおり褒めてあげます」
私がそう言うと、娘さんは照れて顔が赤くなり、少し目が潤んで「ありがとうございます」と言ってくれた。
以上のことは
そうして春になった。
今日もその娘さんが調理場にいた。私の顔を見て注文をとると、娘さんは、
「お客様、もうお会いできないかと思ってましたけど、お会いできました」
と切り出した。続けて、
「今日、私、このお店は最後の日なので……」
と言ったものだ。
「おっ、そうですか、今日最後ですか……。そうするとつまり、春ですから、この、何か……? めでたいこと?」
「はい、私、大学4年生なんです。卒業したものですから」
「おお、それはそれは、おめでとうございます。……そうすると、あなたは私の次女と同い年でしょうね。ウチも卒業でしてね」
「あ、そうなんですね」
「なにしろ、おめでとうございます。おめでとう、おめでとう」
今度も、レジに向かう間の短いやり取りだから、そんなことぐらいしか言えなかった。もう少し、あなたならどこで働いても活躍できますよ、頑張ってね、とか、どうかお体を大事にしてね、お元気でね、とか、何か少しお
いずれにせよ、私とアルバイトの娘さんとの間には、こうした心の通い合いがあった。その心の通い合いによって、あの嫌な渋皮面雑音男の存在は、娘さんの心の中でも私の心の中でも超越され、どうでもよいことになった。ざまあみやがれ、いい歳こいて、無視同様に超越される意味しかないんだ、貴様なぞ。
私は、どこの誰とも知れない、名前も定かに覚えていない、またこれから会うこともないであろうその娘さんの健康と幸福と活躍を祈っている。