梅雨も半ば、雨が盛んである。繰り返し強く降っており、梅雨明けはまだまだ先のようである。
引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの電車の中で、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、ひとつ目の「基督教の起源」(波多野精一著)を読み終わった。
著者の波多野精一博士は戦前に活躍した宗教哲学者で、東大・京大で教鞭を執ってきた研究者である。本著作は戦前の東大・京大で行われた講義ノートを整理して出版したもので、いかにも戦前の実直誠実な研究者らしい硬質の文語体で全文が記されている。
序文には昭和16年(1941)出版とあり、日米開戦の年だ。読者としては、この頃でもきちんと欧米の文化を洞察・研究する努力が続けられていたのだな、と感じるところ大である。
前巻の「聖書物語」を読んだ後なので、理解もより深まるという感じがするのはさすが古書らしく、
気になった箇所
他の<blockquote>タグ同じ。
p.25より
さて新約全書に載つた福音書は四ある。そのうち第四の、通常ヨハネ福音書と呼ばるゝものは他の三と甚しく内容を異にする。
言葉
霄壤も啻ならぬ逕庭
これで「
「霄壤」とは「霄」が空、「壤」が地面のことである。要するに「天と地」だ。「逕庭」とは「へだたり」のことをいう。つまり、「天と地ほどの差」ということを格調高く書けば「霄壤も啻ならぬ逕庭」ということになるのである。
本文中では下の引用例の通り、更に
これをかのいかなる者もその前には一様に罪人たる神の絶対的神聖と、しかも
義 しき人にあらず罪人をあはれみ救ふ神の絶対的の愛とを合せて有するパウロの福音と比較せば、誰か両者の精神に於て霄壤も啻ならぬ逕庭を否むことが出来よう。
氷炭相容れぬ
訓みは普通に「
- 氷炭相容れず(コトバンク)
かくの如く超自然出生は比較的新しく発生した伝説でしかも古き伝説に於て保存せられた正確なる事実と氷炭相容れぬ。
苟合
音読みで「
- 苟合(goo辞書)
イエスは苟合妥協をよき事と思ふ人でない。
譏
「
専門宗教家より瀆神罪の譏を受くるをも顧みず、彼は悩める者に「汝の罪赦されたり」との宣告を与へた(マルコ二の五)。
遑
「
尤も世の終が目の前に迫つたといふ考は勢ひ要求を極度に高め、時としては社会の具体的関係を顧みる遑なからしめた。
雙少き
まことに難読であるが、「
彼等のうなだれた首をもたげ、彼等の失望落胆を何物をも恐れず凡てを献ぐる喜ばしき確信と雙少き勇気とに変じたものは何であるか、――イエスの復活の信仰である。
儕輩
読みは「
- 儕輩(せいはい) の意味(goo辞書)
彼は渾身の力を父祖の宗教に捧げ熱心に於て
遥 に儕輩を抜出 た。
恠しむ
「
彼自身
猶太 人であつたを思ひ、また律法のうちに風俗習慣の瓦石に蔽はれて美しきけだかき宗教及 道徳の玉のひそめるを思へば、彼のこの見解は別に恠しむに足らぬ。
深邃なる
「
- 「邃」の画数・部首・書き順・読み方・意味まとめ(モジナビ)
この世界観は宗教の方面に於て種々の観念(例へば霊魂の死後の存続の如き)を産出したが其最大功績は幾多の深邃なる宗教家思想家を動かした神秘説の土台をなし準備をなした事である。
うつばり
家屋の
本文中では次のように用いられている。
己が眼のうつばりを忘れて他人の目の塵に留意する専門宗教家もあれば、彼等よりは罪人よ愚民よと蔑まれつゝ神の国の義を
饑渇 ける如く慕ふ下層の民もある。
少し難しいのはこの用いられ方だ。これは聖書に通暁していないとわかりにくい。「目のうつばり」というのは聖書に出て来る有名な一節で、イエス得意の
文語訳聖書では、マタイ伝福音書に
とある。
この一節、「目のうつばりの喩え」は、日本のキリスト教徒でもとりわけ熱心な人にはよく知られるところだと思われる。しかし、クリスマスに酩酊して騒ぐくらいしか能のない、いい加減な「なんちゃってキリスト教徒」には、翻訳のやまとことば「うつばり」も、英語の「Beam」も、いわんやギリシャ語の「ドコス」も、何を言っているのかさっぱりわからないことだろう。
「塵」と「梁」は実は対句である。この対句は理解しにくい。理解するにはこの言葉が唱えられた背景に目を向ける必要がある。
その背景とは、キリストことナザレのイエスの生業が大工であったということだ。すなわち、和訳では「塵」となっているが、原語「カルフォス」には「おが屑」の意味があるのだ。これは大工特有の
つまり、2000年前の
そういう事情を理解して聖書のこの部分を読めば、
「お前は『アンタの目にはおが屑が入ってるよ』と同輩に注意しているが、笑わせンな、そう言うお前の目には角材が入ってるワイ」
……と言っている、本業が大工のイエスらしい、絶妙な喩え話がよくわかるというものである。
次
次は二つ目、「キリストの生涯」(J・M・マリー著 中橋一夫訳)である。