読書

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 梅雨も深くなり、雨がよく降る。しかし、そんなに蒸し暑くはない日々である。時々晴れ間もあって、そんな時は素晴らしい青空が広がる。

 約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第8巻「論語物語/聖書物語」のうち、二つ目の「聖書物語」(H.ルーン Hendrik Willem Van Loon著)を読み終わった。

 期待していた通り、本来は少年向けに書かれた読み物だけあって読みやすく、聖書の世界をわかりやすく解説しており、何より物語としてとても面白かった。私はキリスト教は嫌いであるが、ところが聖書そのものは旧約・新約とも若い頃からの愛読書なのである。

 ナザレのイエスをはじめ、(さかのぼ)ってアブラハム、モーゼ、アロン、ダビデ、ソロモン、ヨブ、バプテスマのヨハネ、聖母マリア、マグダラのマリア、イスカリオテのユダなど、魅力的な登場人物のオンパレードだ。一方、本物の聖書のほうの全体を読み通していると、つい「ダレ場」になってしまって読み飛ばしてしまい、あまり印象に残らない人物があり、それがこの「聖書物語」では生き生きと立ち上がっている。改めて「こんな人物譚があったのか」と感銘を覚えた。例えば姑ナオミと嫁ルツ、預言者のエリヤ、弟子のエリシャ、マッタチアスとその息子マカベたち、モルデカイとエステル、……等々。

 また、味のある挿絵がふんだんに盛り込まれているが、巻末「解説」によると、すべて原著者ヴァン・ルーンの手になるものなのだという。

 付録があり、同じ味わいの絵柄で「生きた年表」と題して聖書の年代をいわば「漫画年表」のような味わいで展開してある。まことに味わい深いものがある。

 但し、世界教養全集シリーズのこの巻までの他の巻に見られる丁寧な校正と異なり、誤字・脱字・誤句・誤用が多かったのは実に残念なことであった。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第8巻「論語物語/聖書物語」のうち、「聖書物語」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.162(まえがき)より

 『旧約聖書』のことを書くのは、わりあいとやさしいだろう。それは砂漠の民のある部族が、多年のさすらいの後に最後に西アジアの一隅を征服しそこに住みついて自分たちの国を建てた物語だ。つぎには『新約聖書』がくる。これは非常にむずかしい仕事になりそうだ。『新約』は、ただ一人の人物を中心にしている。それは人生に何物をも求めないで、すべてを与えたナザレの大工の物語だ。世間にはイエスの物語よりももっと面白いものがあるかもしれないが、わたしはまだ、そういうものを一つも読んだことがない。そこでわたしは彼の生涯を、わたしの見るままに、ごく単純に述べるとしよう――一語も加えず、一語も減らさずに。というのは、このように語られるのを、きっとその人は喜ばれるものと思われるから。

p.163より

 ピラミッドが造られてから一千年もたっていた。バビロンとニネベが大帝国の中心になっていた。

 ナイルの谷と広いユーフラテス川とチグリス川の谷が、忙しく立ち働く人々の群れで埋ずまったころ、砂漠の漂泊者のなかの一小部族が、なにか自分たちの理由で、アラビア砂漠の荒れ果てた故郷を見捨てる決心をした。そしてもっと肥えた土地を捜しに北へ向かって旅立った。

 やがてこれらの漂泊者はユダヤ人として知られることになる。

 幾世紀かの後に、彼らはすべての書物のうちのいちばん重要なもの、すなわち聖書をわれわれに与えることになる。

 もうすこし後には、彼らの女の一人が、あらゆる教師のうち、もっとも情けぶかく、もっとも偉大な人を生むことになる。

 それなのにおかしな話だが、われわれは、このふしぎな民族の起源については、何事も知らないのだ。そればかりではない。彼らはどこからともなく出てきて、人類に課せられた役割のうちいちばん大きい役割を演じながら、ある時期を境として歴史の舞台を去り、世界の諸民族のなかでの亡命者になっているのだ。

p.181より

 海岸地帯には遠いクレタ(クリート)の島から来た民族が住んでいた。彼らの首都のクノッソスは、アブラハム時代の千年前に、ある未知の敵によって破壊されていた。のがれた人々はエジプトに足場を得ようとしたが、パロの軍隊に追い払われた。そこで彼らは東に航海したが、カナン人よりもずっとよく武装していたので、この大きな海に沿った細長い土地だけは、なんとか領有することができたのであった。

 エジプト人がこの民をフィリスチン(ペリシテ)と呼んだので、彼らの方でも自分の国をフィリスチアと呼んだ。すなわち、われわれが今日いうパレスチナである。

 ペリシテ人はたえず隣人たちのすべてと戦っていた。ことにユダヤ人とは、ローマ人がやってきて彼らの独立にとどめをさすまで、争いをやめることがなかった。彼らの祖先は、ユダヤ人がまだ粗野なヒツジ飼いだった時に、西方世界でもっとも開けた国民だった。メソポタミアの百姓が棍棒や石の斧でたがいに殺し合っている時に、彼らはもはや鉄の刀を造ることを知っていた。なぜ少数のペリシテ人があんなに多くの世紀のあいだ、何千何万のカナン人やユダヤ人に対して自分たちの土地を守ることができたかを、このことは君たちに十分説明するだろう。

p.289より

 要するに、モーゼやヨシュアやダビデが拝んでいたあの残忍で執念ぶかいエホバは、西アジアの忘れられた片隅に住んでいた農民やヒツジ飼いの小さな社会における単なる部族神にすぎなかった。

 それが、亡命の予言者たちの勇気と瞑想とによって、この古いヘブライ人の神は、やがて、近代世界の人々が心理と愛との最高表現として受け入れているあの普遍的で永遠な観念「神聖なる霊」にまで発展したのであった。

p.311より

 なぜなら、この世のどんなことも、いまだかつて殺人によって成就したためしはないのだから。

p.348より

 「空の空なるかな、すべて空なり」

 これは旧約「傳道之書」冒頭からの引用で、旧約聖書の文語訳では「傳道者(でんだうしや)(いは)く (くう)(くう) (くう)(くう)なる(かな) (すべ)(くう)なり」となっている。

p.353より

 エルサレムは忘れ去られていた。だが、忘れ去られることこそ、まさしく、信心ぶかいユダヤ人がそうあれかし、と祈っていたことでもあったのだ。

p.354より

 だが、この世界にはけっしてそれで終りということのありようはずはない。そこには、つねに、永遠に「次の章」がある。

p.407より

 ともかくヨハネはすべてを「否!」という形で説いた。

 イエスは同じように熱心に「然り!」という形でこれに答えた。

言葉
よくせき

 あまり使われない、平易な言葉なのに古い言葉である。「よくよくのこと」「ほかにどうしようもやむを得ない様子」を言う。

下線太字は佐藤俊夫による。p.169より

だが、よくしたもので、人は、よくせき思案にあまると自分にわかりもしないことにもっともらしい説明をする。

おのがじし

 それぞれ、おのおの、めいめい、というような意味である。

p.433より

 弟子たちは驚いて立ち上がり、彼の周りにつめよった。そして、めいめいが、おのがじし、自分たちの潔白を誓うのだった。

 平凡社世界教養全集、ようやく第9巻に読み進む。

 第9巻は「基督教の起源」(波多野精一著)「キリストの生涯」(J.マリー著・中橋一夫訳)「キリスト者の自由」(M.ルター著・田中理夫訳)「信仰への苦悶」(P.クローデル・J.リヴィエール著・木村太郎訳)「後世への最大遺物」(内村鑑三著)である。多くの評論だ。

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 通勤路の(はな)皐月(さつき)が盛りだ。キュッと締まった(つぼみ)も赤々と(ほころ)びた花も美しい。歩くと初夏らしく汗ばむ。紫陽花(あじさい)はまだ盛りではないが、少し雨模様の日が増えつつあって、そろそろ梅雨かな、という感じもしてきた今日この頃である。

 蒸し暑く感じることが多くなり、冷たいものや酸っぱいものがしみじみと旨い。読書しつつ、冷酒を胡瓜(きゅうり)和布(わかめ)の酢の物でやっつけるのなど、大人の男の至福と言わずして他にどう言えようか。

 引き続き読み進めつつある約60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第8巻、2作収載のうち1作目の「論語物語」(下村湖人(こじん)著)を往路の通勤電車内で読み終わる。

 論語を題材にした二次創作、フィクションと言えば言えるが、基底にある論語は著者によってありのままに理解され、わかりやすく組み立て直されていながら、論語の魂は損なわれることなく見事な輝きを放っている。

 著者下村湖人は名作「次郎物語」の著者でもある。下村湖人の代表作はどれかと(ひと)()わば、「次郎物語」か、この「論語物語」かと論を二分するそうで、読者の幅広さで言えば「次郎物語」に、読者の深さに着眼すればこの「論語物語」に、それぞれ軍配が挙がるように感じられる。

 次は「聖書物語」(H.ヴァン・ルーン著)である。私は聖書については子供の頃から何度も読み、味わってきている。その聖書を、さながら前読「論語物語」のように噛み砕き、組み立て直したものと思えば多分間違いではあるまい。

 著者ヴァン・ルーン本人による「まえがき」をたった今読んだところであるが、ハナっから、なにかもう、ゾクッとするものを覚える。