引き続き世界教養全集を読む。
第28巻二つめ「ある心の自叙伝」(長谷川如是閑著)を読み終わった。以前、この全集の第6巻「日本的性格」で長谷川如是閑の評論に接したことがある。
読了に随分かかった。もともと読書には通勤電車内などを充てていたが、前の職場(自衛隊)をやめて会社勤めになったため始業が遅くなり、乗車時刻の変化から、電車のあまりの混雑のために車内で本を拡げることが難しくなったということが理由の一つとしてある。
にもせよ、日常、少しずつ少しずつ読み進めたものだ。
著者長谷川如是閑は、草創期の朝日新聞記者として名高い。とりわけ、現在も続く「天声人語」の創始者である。選抜高校野球の創案者の一人でもあるという。
気になった箇所
明治時代の都会の文化人
p.215より
そのような、何事をも茶化したがる都会人的遁避主義のお陰で、明治時代になっても、都会の江戸っ子は、時代の歴史の当面に立つことを避けて、――というよりは立ち得ないで――ただ横合いから、批判的の白眼で時代を睨んでいるのにとどまったのである。だから明治時代に幅を利かしていたものは、みな地方出の人々で、いわゆる「田舎もの」ばかりだった。江戸っ子で世に聞こえていたものは、今いうインテリと小説家だけだった。ことに小説家は江戸生まれに独占されていた。それは小説にはかならずなくてはならぬ会話の直写が「田舎もの」にはどうにもならないからであった。明治末までは、地方出の文士は、まず先輩の文士の家に寄食して、東京語に馴れるのを待つほかはなかった。坪内逍遥などは、美濃の産で、十八の歳に東京に出たが、大学を出るころには、すっかりあの猛烈な名古屋訛りを克服して、立派な東京弁を話すようになって、ようやく小説を書き出したのであった。
赤子の頃の記憶
私の生まれたころの時代
私は自分の生まれた頃の時代をふりかえって見るたびに、赤子の私が、かなりはっきりした意識で、その時代はおろか、生まれる前の時代をさえ、見ていたかのような錯覚に陥る。人はよく、聞いたり読んだりしたことを、直接に経験したように話すが、それは意識的の嘘であるよりは、無意識に、自分の錯覚のまま語っているのであろう。
封建制の残滓
そういうわけで、せっかく棄て去ろうとして棄てきれなかった、封建制の核心をもって動いたのが、明治日本の生命体の「命の歴史」だった。そのような生命体の生理的・心理的性格を、もっと近代的のそれにつくりかえようとする「思想の歴史」が、いつしか消えてなくなった所以もそこにあった。
欧化、近代化、昭和封建主義
上層の「欧化主義」は「舞台芸」だったが、下層のそれは生地の生活の動きだったので、「思想の歴史」もそれに抱かれて、生命体の歴史に孵化されたのである。そうしてそれが明治の「近代的国家主義」の成功を、ことに生活の能率の上から助けたのであった。大正のデモクラシーは、そういう生活そのものへの食い込みがどれほどあったか。盛んに脳漿を波立たせたが、五体には、ぴりとも感じなかったのではなかったか。かくて昭和の「封建化時代」が、そこから生まれて、育って、それによって潰えたのではなかったか。
女の飲酒
昔は、女の酒を飲むのはあたりまえのことになっていたが、私の祖母は、度外れの酒呑みで、女だてらに、一升酒を飲むのだった。若いころ、大名奉公に出たが、その殿様は、そのころの殿様の誰もがしたように、蓮酒というのを女中たちに飲ませて遊ぶのであった。大きなハスの葉の茎を管のように通して、その先を女中の口に含ませて、そのハスの葉に酒を注ぐのであった。たいていの女中は、すぐに参ってしまって、倒れたりするが、祖母はいくら注いでも平気で飲んでいるので、注ぐ方が気味悪がってやめてしまうという話を、祖母自ら自慢に話すのだった。
保守主義と先進性
イギリスの保守主義の国といわれる所以もそこにあるのであろうが、むやみに新しがる国民に、かえって近代的心理も実践も欠けていて、イギリスのような古臭い国が、近代政治や近代科学の発祥地となるということは、考慮に値する問題であろう。
お雪さん
婦人は、生徒たちに「御新造さん」と呼ばれていた小先生の夫人と、小先生と松造先生との中の、大先生の一人娘と言っても、その頃はもう四十に近い未婚婦人だけだった。小先生の夫人は静かな優しい女性で、生徒たちに裁縫と諸礼を教えていた。令嬢は生徒から「お雪さん」といわれて、珍しく肥えた健康そのもののような恰好をした婦人だったが、先生たちの世話や塾生の世話からおさんどんの仕事まで、女中もおかずに一人で切り廻して学校の受付から小使いまでかねて、ひるんだような顔もみせない、一種の女丈夫だった。ときどき学校に私を見舞いに来ていた私の祖母が、私が休みに家に帰るたびに、口をきわめてこの婦人のことを賞めるので、子供の私もその婦人を尊敬することを知っていたが、塾生たちは、世話を焼かれれば焼かれるほど、皆で蔭口をいうのだった。ところが偶然のことから、その風習がぴったりやんでしまったのである。
ある晩、何かのことから年嵩の塾生たちは床にはいってから、そのお雪さんの悪口をいい出して、口々にいいたい放題をいっているのを、婦人に立聞きされて、さすがの女丈夫もその時ばかりは、泣いてそれを小先生に訴えたので、小先生が現れて、悪口をいった生徒を一人一人引きずり起こして、蚊帳の外に坐らせて、夏だったので、肌ぬぎにさせて、その背中に酒を吹きかけて蚊責めにさせたのだった。ふだん先生に殴りとばされても泣かないようなのまで、その時は大声をあげて泣くので、私たち兄弟といま一人悪口の仲間にはいらないで引きずり起こされなかったものも、それらが許されるまで寝られなかった。私の従兄で、神田っ子の敗け嫌いの、侮蔑されると年嵩のものにでも腕力を振るうのが、その晩は特に大声で泣いたので、あくる日私がそれを笑ったら、まったく悪かったと思って泣いたのだといったが、それはおそらくみんなの心もちだったのであろう。それきりお雪さんの蔭口をきくものがなくなったのである。
明治初めの頃の街風景
この三丁目に「本郷の牡丹餅屋」で通った、牡丹餅を食べさせる有名な店があったが、そこの肥えた主人が店先に小豆餡、白餡、胡麻、黄粉などのはいった臼を一列に並べて、炊いた餅を左の掌にぎゅっと握って、指のあいだからはみ出す餅の四つの塊を、右の掌でさらって投げると四つの臼にうまくはいってゆく。それをつづけざまに鞠の曲芸のようにやるので、店先は食い手よりは見手で人山を築いた。
封建時代は、食べ物を売る店でも、今のように食べ物の見本を並べて直接に食欲をそそることはしないで、芸術的に食欲をそそるのだった。たとえば飴屋の店で、飴を練るのに、両手で丸めたりのばしたり、輪にして首を軸に回転させたり、襷がけにしたりして見せ、またブッキリ飴を切るにしても、大俎に二人並んで、大小の庖丁の音で、複雑な二部合奏をかなでたりするのだった。兼康の並びに江戸時代からの、江戸で何軒という、名は忘れたがウナギ屋があって、お寺参りの帰りに祖母につれられて、そこでウナギを食べたが、客をみてウナギを割くので、おそろしく長く待たされて、ようやく火を煽ぐ団扇の音が聞こえ出すが、それが一種のリズムをもって、高く低くひびくので、ウナギを焼くにおいよりも、その音に食欲をそそられたことを覚えている。
そういえば、そのころは、魚屋がイワシを数えるのに、バリトン声で音楽的の調子で数を唱えたし、豆腐売りの呼び声はバスだが、やはり声楽的で、やがて売り子に声楽家が得られなくなって、無風流なラッパに代えられてしまった。夜の「鍋焼き饂飩」も、その長く引いた呼び声によって食欲をそそるのだった。食べ物ばかりではない。江戸名物の一つだった、初夏の街の新内張りの苗売りの呼び声は、どうかすると今も聞かれる。本郷の辻占売りの「淡路島通う千鳥の恋の辻占」という艶声は高山樗牛の美感に触れ、盲目声の、鼻にかかった「按摩上下五百文」さえ、ラフカジオ・ハーンの詩情をそそったのである。
田辺花圃女史の小説の会話文
『藪の鶯』は会話中心の構成で、当時の女学生や山の手の夫人連の生活が写実的に描かれているので、その頃の若い男女の風俗が窺われる。その書出しも、『書生気質』や『浮雲』のような院本からきた前書きはなくて、いきなり鹿鳴館の夜会における会話で
男「アハ……。此 ツー、レデースは、パアトナア計 お好で僕なんぞとおどつては。夜会にきたやうな心持が遊ばさぬといふのだから」といった調子である。当時の男女の会話はむやみに英語を挿んだもので、『書生気質』もそうだが、この本でも、
「だつてサブスタンスを見ないでは。斎藤さんはライヤアだから」などと、女学生がいっているのである。
逍遥先生がこの作に手を入れたのはおもに会話だったが、前にあげたような車夫や馬丁の言葉は、家に車夫や馬丁がいた故か、先生よりは女史のほうがうまい。
車夫「どうしたつてかうしたつて。お前のめへだがの。おめへのところのおはねさんがの。例の後家の内へきゃァがつて。今きてゐる山中といふやツをさそひ出して。向島までおしのびといふ寸法で。一所に出掛けたと思ひねへ。初手はおいら正直だからきていに思うた。後家とおつだといふ噂があるのに。敵手がちがつてゐるのはへんだなと思つてゐるとの。花時分たぁちがつて人通もすくねへだらう。スルト野郎め。おはねさんの車へ相乗と出かけて。テケレッパだらうぢやねへか。……」
長谷川如是閑が読んでいたダビデの話やポカホンタスの話
パーレーの万国史で読んだことはほとんど忘れたうちに、小さいデヴィッドと大男のゴライアスの一騎打ちと、目を抉られたサムソンの怪力で大殿堂を揺り崩した話とだけが記憶されている。そのほかに「アジア人はアイドレーターである」という一句が、妙に頭にこびりついている。
カッケンボスの米国史も私を引きつけた。この米国史にはいろいろの忘れられないような事件や文句があった。開拓時代のアメリカに渡るイギリス人は「ことごとくブロークンーダウンーゼントルメンだった」という文句などもその一つだ。はじめて満州にいって、ハルビンの日本人街を歩いた時に、私はその文句を思い浮かべた。アメリカ・インディアンに火薬と偽ってネギの種を売ったりしたが、それを怒っていた酋長が、キャプテン・スミスを囚えて、木の根にスミスの頭をのせてクラブで打ち砕こうとした時に、酋長の娘のポカホンタスが出てきて、父にスミスの命乞いをして助ける。そこの粗末な挿画がある。寝かされているスミスの身体の上に蔽いかぶさったポカホンタスが片手をあげて、父に嘆願している図が今もはっきり私の瞼に残っている。
英国の列車が時間に正確になった理由
それから汽車や電車に乗ってときどき思い出すのは、アンソンの契約法で、汽車の時間表は鉄道会社と旅客との間の契約だから、その列車の不発や故障の場合、――たとえばそれがため商取引を仕損じたもののあったときなど――鉄道会社は莫大の損害賠償をとられることがあるのを知った。それがイギリスの鉄道の時間がすこぶる正確になった一つの理由だと聞いて、いつも汽車の故障に逢うたびに、そんな法律は日本にこそあっていいなどと考えた。
日本の封建主義的資本主義
資本主義そのものさえ、日本では、封建性をもって発展してきたので、帝国主義も、封建的領土主義に近い形式をとろうとしていた。それにはかならずしも資本主義末期の帝国主義を待つまでもなく、スペインの制覇時代のそれを学んで、コルテス「大王」がメキシコに臨んだような中世的侵略を夢みることもできたのだった。武力に資本のバックのない、明治の帝国主義は、当時の、まだ産業革命の完了しない段階における明治日本の社会主義と同じく、頭の裡の「主義」にとどまっていた。
人間は誇大狂に陥る
最近、進化論の故丘浅次郎博士の『生物・人生・哲学』という書物が再刊されて送られたのを見ると、明治三十七年に博士が書いた「人類の誇大狂」という一文がその冒頭にある。それは宇宙における人間の価値は、ゾウの身体についたシラミよりも憐れなもので、人間は、無機物から進化した無数の生物の一つで、「他の動物と全く同一の自然の法則に沿い、全く同一の進化の原理に基いて発達してきたもので、今日もなお変遷の途中にある」もので、その人間を宇宙のことは何でも知っている、「現にある人間以上の有力な神聖なもの」と思い込むのは、誇大妄想である。「今日の哲学、論理、教育、宗教などの書物を見ると、ほとんど一冊として、誇大狂の徴候を現わしていぬものはない」「先年ある少年が宇宙の解くべからざることを苦に病んで華厳の滝に飛び込んだとて世間大評判であつたが、もしそれが真の原因であつたとしたならば、此等は誇大狂の極端に達したものだろう」といっている。これは明治初期に育った科学者の心理で率直にものをいっているのである。博士はその心理を科学に得たと思うが、私は、それに似た明治人的心理を、自分の闘病生活に得たのであった。
青年期の如是閑
明治人であったためとはいえ、このような私の、青年に似合わしくない乾燥した心理は、ついにその後の私を占領して、私を極端の合理主義者にし、実証主義者にし、経験主義者にしたが、それらの主義も、私においては、「哲学的」に、論理の形をとった「イズム」であってはならないので、いわゆる「素朴的現実観」から一歩も出ないものでなければならないのである。
キリスト教学校
はるばるアメリカから渡ってきて、こんな話をするために、莫大な金を使っている意味が私には呑み込めなかった。『クリスティアン・エヴィデンス』という本も読んでみたが、近代科学の攻撃に答えて、「科学的」に神の存在を証拠立てるという、その論理のすこぶるたわいもないものなのに驚いた。そんなものよりもバイブルよりも、私は初老の牧師が、張合いもない、少数の日本の青年を相手にして、倦まずたゆまず、うけ容れられそうにも思われないことを、諄々として説いている態度に敬服するほかはなかった。
今でいう「ヒキコモリ」だった如是閑
私の静養時代はついに足掛け六年に及び、明治も三十六年となり、私は二十九歳になった。約束の命の年限も余すところ一年しかないが、私はもうそんなことは忘れたようになっていた。
言葉
ダンブクロ(洋服)
幕末の洋式歩兵が履いていたブカブカのズボンのことを「ダンブクロ」というそうな。
- ダンブクロ(コトバンク)
それは当時、衣冠束帯とダンブクロ(洋服)とが、同じ公の席にいならんでいたのと似ていた。
クライブ、へスティング、セシル・ローズ
どれも19世紀後半の英国の侵略的植民地政策推進者である。
そのような「倭寇」会社のすべてが解消される時代もきたのである。そんな時代さえもう過去となった時分に、クライブ、ヘスティング、セシル・ローズの仮装行列で押し出したら、丑三つに出遅れた幽霊が夜明けに現れたようなもので、誰に退治されるまでもなく、おのずと消えてなくならざるを得ないであろう。
俑
これで「ひとがた」と訓む。
- 俑(漢字ペディア)
国民皆兵主義に伴う教育の軍隊化の
俑 を作ったのも彼で、兵式体操を学課に入れたり、寄宿舎を軍隊式にしたり
金売り吉次
昔は講談などによく出た人物で、主人公を守る義人である。
- 金売り吉次(Wikipedia)
そのような、士人階級と平民階級との共同は、武門時代の初めからのことで、平安末期に、あの金売り吉次が源氏の御曹司をバックしたなどもそれであった。
杉浦重剛の称好塾
杉浦重剛は幕末から明治にかけて称好塾という私塾をひらき、青少年を指導した人であるという。
- 杉浦重剛(寅の読書室)
そのうちには、杉浦重剛の称好塾のように、昔ながらの家塾の形で大正の初めころまで残ったのもあった。
該撤
これで「シーザー」と読む。そう、ジュリアス・シーザーのことである。シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」の翻訳邦題は「該撤奇談
先生が、シェクスピーアの『ジュリアス・シーザー』を訳して公にしたのは、私の入塾する前年で、小野梓の経営していた東洋館の出版だった。「該撤奇談」と題書きして、『自由太刀余波鋭鋒』と題して、これを「自由のたち名残の切れあぢ」と読ませたのである。
生人形
- 生人形(Wikipedia)
そうかと思うと、身の丈十数尺、首だけが四尺という乾漆の人形で、五条の橋の義経と弁慶や静御前などの生人形をつくって、園内で縦覧させた。
バリストル
「Barrister」 弁護士のことである。
東京法学院は、前にもちょっと記したが、イギリス留学のバリストル増島六一郎、同じくバリストルの土方寧、アメリカ留学の菊池武夫、
- 況して(コトバンク)
覘う
「うかがう」と訓む。
政治家、裁判官、弁護士、実業家、官吏、新聞記者といったような、はっきりした目標をもっているものが多く、純法学者とか法学教授とか、そんなものを覘っている人は、私の知る範囲では、一人も無かった。
ボアソナード民法
明治時代にフランス人ボアソナード氏によって案出されたが、採用されなかった幻の民法である。
- ボアソナード民法典論争(山口県文書館、PDF)
先生も生徒側と同じように、いろいろのタイプがあった。刑法専門だった弁護士の江木衷先生は、ボアソナード民法に反対するために民法学者にもなって、物権法の大冊を著わしていたが、その講義も徹頭徹尾ボアソナード民法の攻撃だった。
鳥の子の罫紙
鳥の子紙というものがあり、これは
鳥の子の罫紙に、初めに上奏の文言があって、各大臣が署名して、そのあとに、将官から兵卒に至るまでの勲記を書いた名を書くのだが、将官の場合は、上官の控えている麝香の間にとくに呼ばれて、そこで書くので、書いた内容はいっさい極秘といい渡される。
殷鑑遠からず
手本は手近にある、という故事成語である。
- 殷鑑遠からず(コトバンク)
アメリカのフィリッピン併合は、日本人には前世紀式帝国主義の週末とは受け取られないで「殷鑑遠からず」の思いをなさしめた。
ビヘヴィオリズム、ラディカル・エンペリシズム
「ビヘヴィオリズム Behaviorism」は心理学用語で、「行動主義心理学」と訳される。
- 行動主義心理学(Behaviorism)(Wikipedhia)
「ラディカル・エンペリシズム Radical empiricism」は哲学用語で、「根本的経験論」と訳される。
- 根本的経験論(Radical empiricism)(コトバンク)
青年の私は、元良勇次郎博士が、アメリカから帰って、日本で初めてプラグマティズムの公演を大学や教育会でしたのを、貪るように聞いて廻って、「イズム」もこれならいいと思ったりした。やがてワトソンのビヘヴィオリズムやジェームスのラディカル・エンペリシズムに引きつけられたが、しかしそこでも、ビヘヴィオリズムが「哲学化」された、ディーイやミードには、全的には承服し得なかった。
スコット乳菓
滋養食品ということで、明治時代に輸入されて売られていたらしい。
- スコット乳菓(ジャパン・アーカイブズ)
父が、私の泰然と構えているのを大目にみていたのも、健康を気づかっていたからであった。私たちの子供のうちから、かつて物など買ってきてくれたことのない父だったが、ある日相当高価な薬で、スコット乳菓という肝油剤をを私のために買ってきてくれた。
莫斯科
これで「モスクワ」と読む。
- 莫斯科(コトバンク)
余の家族は全体で僅かに八人、時に十人内外に増すこともあるが、夫れで莫斯科の邸宅には僕が五十人、田舎の別荘にも数十人という多勢である。が、是れでまだ〳〵多い方とは言はれぬのである。
囂々
大変難しい字だが、「ごうごう」と読む。
- 囂囂(コトバンク)
真率を粧ふ徒は却つて此際世俗と伍して囂々たる声を競ふことを避くるに至りしも一奇といふべし。
渉猟攷索
- 攷(コトバンク)
聴く、坪内博士深く軽佻なる世論の鳴動するを憂へ、数旬の間、想を斯の問題に潜め、渉猟攷索至らざる所なしと。
稚郎子
「いらつこ」と読む。ここでは日本書紀に登場する
- 菟道稚郎子(Wikipedia)
最近の新聞記事にあった、弟に家督を譲ろうとして自殺した長男も、古代朝廷の稚郎子も、その時処を問わず肯定されるのみならず、賞揚さるべき自殺となる。
丁汝昌
日清戦争の敵提督である。
- 丁汝昌(Wikipedia)
人類や国家のための自殺といわれているものでも、その動機は複雑で、正成だって丁汝昌だって、敗けて捕虜になるのがいやで死んだか、博士のいう「進化発展」の勇気が欠乏して死んだか、容易に断ずることはできない。
賄い征伐
昔の旧制高校の寄宿学生などは、気に入らないことがあると調理場の料理人なんかをいじめたり食堂で暴れたりして鬱憤を晴らしたものだそうで、これを「賄い征伐」と言ったものだそうだ。しかし、賄い方はたまったものではなかったろう。
- 賄征伐(Wikipedia)
陸羯南とは司法省の法律学校の同窓だが、原敬などを頭に、その頃の学校で流行した「賄い征伐」をやって、原をはじめ福本日南ら十数名といっしょに放校された仲間だった。
次
次は同じ第28巻の「わが精神の遍歴」(亀井勝一郎著)を読む。長谷川如是閑のものと同じく、亀井勝一郎の著作は、この全集の第6巻に収載されている。「大和古寺風物詩」である。自伝の方は、さて、どんな感じなのだろうか。