訃報
橋田壽賀子氏、亡くなったという。
- 脚本家の橋田壽賀子さん死去「おしん」など手がける 95歳(NHK、令和3年(2021)04月05日(月)18時47分)
昭和を代表する脚本家と言えた。95歳。
また昭和の残照が消えた。哀惜。
オッサンは生きている。
橋田壽賀子氏、亡くなったという。
昭和を代表する脚本家と言えた。95歳。
また昭和の残照が消えた。哀惜。
あまりテレビを見ない方なのだが、NHKの朝の連続テレビ小説「おちょやん」は面白いと思うので見ている。かつて大阪で活躍した女優、浪花千栄子の一生をモデルにしたドラマだ。
筋書きはもちろん面白く、泣きあり笑いありで私好みである。何より、大阪出身の私にとって、主演女優杉咲花氏の大阪弁の演技がよくできていることには感心させられるところ大である。助演陣の大阪弁はそれほどでもなく、イントネーションなどに変なところが時々あるが、主演の大阪弁は、私などの親以上の世代の老人の、昔の言葉を聞くように自然であり、「ああ、昔の女の人は、こういう
女主人の昔の思い人に主人公が
「さいだんな、……お二人はほんまに仲ようしてはりまっさかい、あんたさんが入り込むような隙はあらしまへん」(『そうですね、……お二人は本当に仲良くしていらっしゃいますので、あなた様が入り込むような隙はございません』……とでもいったところで、丁寧かつ親愛に言っているのである。)
……と伝えるシーンなど、大阪の女性でも現代の人ではこうはいくまいという程の、素晴らしい女言葉であった。
ただ、「人称」に、やや気になるところがある。
今の私たちも、無論日本人だけでなくジェンダー平等を標榜する欧米人も、人称や敬称には性差がある。すなわち、日本では「僕」「俺」「私・あたし」、欧米では「ミスター」「ミセス」「サー」「マム」「ヒー」「シー」などである。欧米では更に女性の敬称に身分差が厳然として残り、「ミセス」「ミス」と使い分ける。「ミズ」という語はごく近代になってから使われるようになったもので、むしろ呼び分け方をややこしくしている。
さておき、時代を
「おちょやん」でも、主人公が主家の娘に「アンタ」と呼び掛けて「『アンタ』やない。『いとはん』や!」と言葉
こうした点が非常によく出来たドラマだと思うのだが、反面、「やや気になるところ」があると思うのは、一人称だ。
堺の刃物商の娘であった私の母(現在85歳)がかつて私に語ったところによると、
……ものだそうである。
「わて」という一人称は、へりくだった謙譲の語であったようだ。
ただ、これは私が体験的に耳で聞いて知ったことに過ぎず、文献などに明確にそのような記載があるわけではない。文献上はだいたい下の引用リンクのようなことである。
「おちょやん」では、芝居茶屋の主人一家も、誰に対してもみな自分のことを「わて」と称しており、この点は多少検討の余地がなくはないのではないか。使用人に対しては「うち」、茶屋の客に対しては「わて」とするのが自然な昔の大阪の一人称であるように私には思われる。
他に、昔の大阪では男の一人称に「わし」が良く使われていたことも一考してみたいところである。これは、男の子も勢を張るような時にはそう自称したものだ。「おちょやん」ではあまり「わし」は使われていない。ヒロインの相手役、天海一平の一人称で「この場面は『オレ』やのうて『わし』やろ」などと思うようなところもある。
重ねて言う通り、この意見には明確な研究や根拠があるわけではない。実地に関西で生きた一老人から、一個人が耳でそう伝え聞いた、というだけのことに過ぎない。この点、人によって見解に差があり、正解もなかろう。今後、各種ドラマ等製作陣、
NHKの朝の連ドラ「おちょやん」を見るともなしに見ている。往年、「オロナイン」の
見ているうち、「お
私は大阪出身ではあるが、大阪と言っても堺市の生まれ育ちで、子供の頃までしか大阪に住んでおらず、そのため、実は大阪の寄席や芝居小屋へなど一度も行ったことがない。だから「お茶子さん」という言葉は、知らない言葉ではないにもせよ、それほど親しみ深く懐かしいものでもない。しかしそんな私にすら、忘れられかけた古い大阪の情緒を思い起こさせる言葉ではある。
「お茶子」というのは、芝居小屋で客にお茶を出したり
見ているうち、次のようなことをふと思い出した。
落語会では、咄家と咄家の合い間に座ぶとんを裏返す女の子が登場する。ついでに
上 手 にある演者名を墨書きした紙をめくっていく。これが「お茶子」だ。ところで、淡路島では女性器および性行為のことを「ちゃこ」という。
ある日、橋鶴事務所に一人面接の女の子がきた。ブルドッグ顔で面接に出たのがうちの師匠だった。
「あの、どんな仕事をすればいいんでしょうか」
女の子が尋ねた。橋鶴師匠は耳の穴をほじりながら、
「そうやなあ。とりあえずお茶子でもしてもろうて」
「……。私、帰らせていただきますっ」
女の子はすっ飛んで逃げたそうだ。ちゃこが淡路島でのそういう言葉だと師匠が知ったのは、それからずいぶんたってからのことだそうだ。
フランク永井の「夜霧に消えたチャコ」、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」が
流行 ったときにも、淡路島ではたいへんな騒動になったらしい。
……それにしてもこの件、実際に淡路島出身の人に
実のところ、私には淡路島出身の知り合いがただ一人だけいるのだが、その人は女性なので、こんなことはとても訊けず、年来そのままとなってしまっている。
そう言えば、中島らもも、亡くなってもう20年近く経つんだなあ……。
今日はNHKの人気ドラマ「エール」の最終回の放映があった。
ドラマそのものは昨日で終わりであり、今日はNHKホールから、俳優陣総出演でドラマ中の名曲を披露するというすばらしい趣向であった。
出演者のほとんどは歌がうまく、歌手が本業でない、二階堂ふみ氏らまでもがすばらしい歌声で、聞き惚れた。
ただ一点、惜しむらくは、古関裕而の真骨頂と言える軍歌ないし戦時歌謡が、一曲も披露されなかったことであろうか。これだけが実に惜しかった。
歴史は歴史、芸術は芸術、作品は作品、成功は成功、失敗は失敗、戦争は戦争、戦勝は戦勝、敗戦は敗戦、それはそれ、これはこれ、ではなかろうか。だから、淡々と軍歌や戦時歌謡も取り上げればよかったと思う。
ただ、そうは言っても、このことのみをもってNHKを責めるわけにもいくまい。世の人々の気持ちや感情に寄り添うことも必要である、ということは、私も否定しない。
かえすがえすも、その一点のみ、番組が素晴らしい出来であっただけに、実に残念ではあった。
2×4材らしい高価ではなさそうな材料を、正確に、シンプルに指していく。その感じが、見ていて気持ち良い。そして、これは素人には真似の出来ない事である。
かわいい中国人の少女が弓と矢を作成して森へ射撃に行く動画である。
こういう中国の娘のことを、かつては「
この小芊枫(小芊楓、XiaoQianFeng、シャオ・チェンフォン、しょう・せんふう)という人は、ほかの動画もこんな調子だ。いろいろなものを工作している。
あまりテレビは見ない方だが、たまたま耳や目に入ってきた番組などに注目してしまうこともある。今NHKで放映中の朝の連続テレビ小説「エール」もそうだ。
朝はテレビを見ている時間などないが、職場の昼休み、弁当など使いながらテレビを見る人が他にいるので、なんとなく一緒に見るようになった。昼には朝の連続テレビ小説の再放送がある。これを見るともなしに眺めていると、なかなかいいドラマだなと感じるようになった。
稀代の名作曲家・古関裕而をモデルにした物語である。戦中戦後、明るく、時には苦しみながらも音楽家同志の夫婦でそれを乗り越えていく。なかなか温かく、多少ナニワ節も交じり、かつ軽妙さも心地よく、泣かせるところもあるドラマだ。
主題歌の「星影のエール」はGReeeeNというバンドが手掛けている。このバンドはよく知らないし、曲も聞いたことがない。たしか、
しかし、この主題歌も毎日聴いているうち、なかなか胸を打ついい曲だと感じるようになった。
動画などあるのかな、と思って検索してみると、これが左のような動画である。
これはいい、と思った。
NHKのドラマの内容とは全く関係なく作られたミュージックビデオである。数分のうちに、いろいろと想像してしまうようなドラマが詰め込まれている。
もし、この動画に本編映画のようなものがあるのなら、見てみたいものだと思った。
九段下の「昭和館」で見た、戦前の「聴取無線電話施設許可書」を思い出してしまった。戦前は、ラジオを聴くためには政府の許可が必要だったわけである。家々の軒先には「受信章」が掲示されたものだという。これはつい最近まで「NHKマーク」のシールなどがあったから、それほど違和感はないが、戦前は郵便局に「放送聴取許可願い」を届け出て、許可を押し頂いてラジオを聴いたものだそうな。
私はNHKの受信料をきちんと全額、支払っており、なんらやましいこともなく、また、現行のNHKの運営は妥当なところだと思っており、文句はない。
しかし、いくらなんでも、身銭で買ってきた自分のテレビについて、「設置届」を提出て、おかしいだろ。これが例えば、自動車などであればわかる。自動車は便利だが、使い方を誤れば危険なものであるし、日本の狭少な街々では、駐車についてルールを設けなければ邪魔になり、公共の利益を害する恐れがあるから、免許や車庫証明が必要なのである。
だが、テレビが何か人に殴りかかったりするのかね。むしろ、公共の電波を使用した放送に、俗悪破廉恥番組であったり嘘ニュースであったり、そういうものが混じっていることの方が問題である。まして、「設置を届け出て、カネを払って見る放送」である。
こういうことは、技術で解決してほしい。金を払っていなければ、物理的に見られない、スカパーなどでとうの昔に実現されている、スクランブルなどの制御をすればよろしい。
「ノストラダムスの大予言」で大ヒットした文筆家、五島勉氏が死去したそうである。
私などは当時小学生であったが、「立ち読み」が庶民の公然の娯楽であった頃でもあり、ゾクゾクしながらタダでこの本を読み
私が最近読み耽っている平凡社の世界教養全集は、父から貰い受けたものだが、これも、父が街の書店との持ちつ持たれつの付き合いで買い込んだものではなかったろうか。
欧米土人に納豆のような高度な食品が食えるわけはあるまい。ハナッから笑止千万である。
納豆は日本人のように高度な味覚を持つ選民によって賞玩されるものであって、毛唐にその価値を評論されるなど、不愉快そのものである。
驚くべきその耐久性。驚愕。
な~にバカにしたようなこと書いてんのさ。数万の票を投じた有権者の多くは、毎日新聞の上得意客、購読者様だろうがってのよ。よくこんな取り澄ましたようなこと書いてトボけておれるよ。ネトウヨ煽ってんじゃないよ糞新聞が。
結果から言えば、日本政府の生ぬるくていい加減な「緊急事態風な国民の皆様へのお願い」と、諸外国が行った強制的で武力をも実際に国民に向けた「ロックダウン」との間には、それこそ
だが油断してはならぬ。夏休みに開放感に浸り、いい気になってあちこち出掛けたりなんかすれば、たちどころに数万人の感染者を生じて死者を出し、「日本人はやはり劣等で愚かな未開有色人であった」などと米英仏独伊の欧米土人どもから嘲笑の的になるばかりでなく、厳しく病気を制御しつつあるアジア諸国からも「ハハッ、やっぱり日本人など『半欧米土人』に過ぎなかった(笑)」と
オリンピックは中止されたが、そのかわりに、新コロによって思わぬ国威レースがスタートされたと言ってよい。また、私に言わせれば、欧米土人は核開発とその実戦使用、すなわち広島、長崎の惨劇が咎となり、彼らが信じる神の罰を受けて死につつあるのだ。歓喜のうちに罰を受け止めるがいい。
更に書けば、神罰を神によるものならしめるのは人間の精神に他ならぬ。「精」に「神」と書いて「精神」という言葉は成る。日本人の神仏は文字通り人間の精髄にあるが、欧米人の神は人間の精髄にはない。その結果をこそ見ざらめや、というほどの気概を持ちたい。
「外国政府による『公式人
な、ななな、何事……!
つまり、アレか、「人のセックスを笑うな!」みたいなことか?
これを理解しよう。私は寛容なのだ。
忘れてたヨ。
まあ、パイロットを処分、ってのは、手厳しいかなァ。悪いのはゴーン
これを冷笑していたら駄目である。右翼ぶってこれを
油断をすれば多くの人が死ぬ。そして欧米のように国際的な評価を失墜させ、ひいては、昔のように日本人であるというだけで劣等の国民として差別されるようになる。
他山の石、という言葉もある。
パチ屋が問題になっている。
しかし、パチ屋に行かないと生きていけない人というのは、どうしてもパチをやらないと気が済まない、馬鹿であって阿呆であって、そして病気なのである。それを責めようがどうしようが、どうしてもなんとあっても、彼らはパチ屋に行くのだ。
それで、面白いことを思い付いた。我ながらグッドアイデアだと思う。
パチ屋は店を閉める。そのかわりに無関係が建前の景品交換窓口で、景品を売るがよい。ライターの種石やら文鎮なんぞを、いつもの買取値段の10%引きの大サービスで売るのだ。ただ、いつもとは少しだけ違う色の、例えば赤い種石や文鎮にするといいだろう。
言うなれば、これはパチンコマニアの先入金である。
パチ屋の店先には、
「営業再開できた暁には、景品をお持ち下されば、10%サービスで余分に玉貸しいたします」
と書き添えておくがいい。そう、嘘でいいのだ。
実際に出玉なんか返す必要は、ない。取りっぱなしでよい。営業を再開したら、その日のうちに全部スらせるのだ。そもそもパチンコなんてそんなものだ。だいたい、全部トータルすると、パチ屋なんて取りっぱなしなんである。しかし、馬鹿は喜々としてライターの種石を買うだろう。そして、営業再開できる日まで店は閉めたままでよく、よって従業員に時給を払う必要すらない。
直接景品交換窓口にライターの種石を持ち込む阿呆もいるだろうが、「この色の種石は一度パチ屋の方へ持っていって出玉で遊んでください。一割増で多く玉を借りることができますよ」と断るとよい。パチ屋の方では球を直接交換しないよう、しっかり見ておればよかろう。
しっかり見ておくのが面倒くさければ、変な色のライターの種石を売るだけ売って、あとは七里
こうすれば、普段よりかえって儲かるだろう。客もカネの払い甲斐があって満足するのではないか?なぜなら喜々として北朝鮮に貯金するような馬鹿だから、そんなさまざまな理屈など到底わかるまい。
技術立国日本の国民として、暗証番号やパスワードがわからぬようになるような者など、いまや生きる権利すら脅かされるのだということを深刻に思い知るがいい。愚かだからこんなことになるのだ。3時間4時間待たされるのは、罰だと思って我慢するべきだ。
よくよく反省し、「マイナンバーは命のナンバー」だと再認識して、二度と期限を失効したりパスワードを忘れたりしないようにすることだ。年寄りだとか難しいとか、言い訳は通用しない。マイナンバーごとき、こんな簡単なことも弁じ得ぬような者が役所からカネを引き出そうなど、おこがましいというものである。まして窓口の吏員を怒鳴りつけるなど。
米国政府が国民の怒りの矛先をなんとかして中国に向けようとしているのが透けて見え、まったく、阿呆らしくて屁も出ない。
現状からみると、ウイルスの出所がどこであろうとナニ国であろうと、それを培養・蔓延させたのは間違いなく米国ないし欧州であると言える。これは、先日から日本の国立感染症研究所の調査により赤裸々になっていることである。
マァ、この調査が話題になったこと自体、中共政府が鬼の首でも取ったようにこれを取り上げたことが発端になっているのがちょっとムズ
あ~あ~、言っちまったよなァ(笑)。
しかしまあ、所詮は高学歴揃いの政治家センセイ連中だからねえ。悪意はまったくなく、つい口をついてこういう言葉が出たわけだ。それらしく謝罪なんかしているが、多分、悪いことを言ってしまったとか全然思ってないよコイツら。口先だけ謝って、それで相変わらず、普通ぅ~に、高卒をバカにしてんのさ。自分たちが大学なんぞでノホホンと机と鉛筆を相手にしている間に、額に汗して労働していた同学年の人々の苦労などまったく思いみることなく、やがてその上に君臨し、それが当然だと無意識に肯定したまま、何も気にしてなんかいないのだ。
だから何を言われようと永久に、蓮舫の、この小ヅラ憎い高慢さは変わりゃしないよ。
私ですか?ああ、私は中卒のオッサンですけどもね。何かあります?
本当に愚かである。世界的な悪疫の
ただ、亡くなった方は不運によって若くして亡くなったのであり、悲惨な死であった。25歳というから、かわいそうである。外国のこととはいえ、
私自身の子供たちは下が大学でもう学齢期とは言えなくなっているから、以下のことは自分自身の問題ではない。しかしやはり、この新型コロナウイルス蔓延による小学校中学校の全国的な休校で、学齢のお子さんを抱えたお宅では、養育の面倒以上に「学習が滞る」のが心配であるようだ。
日本の小中学校は文部省によってカリキュラムが全国一律にビシッと決められている。体育などは地域によってスキーが多い地域や水泳が多い地域など多少の地域差があるかもしれないが、国語算数理科社会については基本的に地域差などはないはずだ。しかも、学校の授業など必ずしも「インタラクティブ」とは言えない。学校の授業では、教師から児童への一方的な働きかけはあっても、児童の側から教師に働きかけられることはほとんどないからだ。
ならば、「放送大学」のように、NHK教育テレビで一日中小中学校の授業をやってはどうか。高い受信料とってるんだから、……とそこまで考えて、いやいや、教育テレビのチャンネル一つでは小中学校合計9年分クラス×5教科には到底足りない、とすぐに気が付く。
NHKが先日から始めた自前の動画配信システムや、YouTubeなどのサービスに、NHK持ち前の放送局クオリティで小中学校の授業を放流すればよい。そうすると、「先生、今のところがわかりません、もう一回」なんて個々の子供たちの要求にも応えられるというものだ。子供が納得するまで繰り返し何度でも見ることができる理屈である。
自分の子供たちが小さかった頃のことを思うと、学校の授業そのまんまなんてつまらない動画を子供が喜々として見てくれるとも思えないが、しかしこれで、行政の側としては「いや、出来得るサービスは既に提供しているわけですから」と言い訳することはできる。
何より、新型コロナウイルスがなくたって、今は不登校の子が増えている。動画の授業はそうした面でも役立つのではなかろうか。
誰だよこんな馬鹿みたいな質問する記者は。
だからブン屋なんか嫌いなんだ。今はどういう時期か考えて質問しろ。今はそういうことを検討したり整理したりする時なのか?悪疫
ま、「やめちまえ」なんて、かつて北朝鮮国立銀行に随分預金して、
ただ、やめたらやめたで、また別の、違うパチンコが出て来るのさ。ネットゲームのガチャなんかだって、カネにもならないのに没頭するアホが沢山いたわけだし。競馬だって競艇だって競輪だって、市中のマージャンだって、賭け将棋、賭け囲碁だって、全部同じこと。知性の香りがそこはかとなくするかどうかなんて、全然関係ない。全部中毒、病気。同じ病気なら庭の土でも掘り起こしてトマトか茄子でも植えて、それの面倒を阿呆のように見た方がいいよ。つまり園芸中毒。食えるだけ百倍もマシ。……って、私は園芸もやりませんけどね。