それ〴〵に骨張る傘と
軒深く
ぶつ〴〵と文句の傘や夏芝居
傘の咲く
本日6月11日は、「傘の日」。
ということで、今回のお題は漢字一字「傘」の詠みこみ
です。季節は自由です。それでは、レッツじたばた! #jtbt
— いかちゃん (@okapie1018) June 11, 2022
「夏雲システム」で関谷氏が運営しておられる「じたばた句会」に投句したものです。
オッサンは生きている。
本日6月11日は、「傘の日」。
ということで、今回のお題は漢字一字「傘」の詠みこみ
です。季節は自由です。それでは、レッツじたばた! #jtbt
— いかちゃん (@okapie1018) June 11, 2022
「夏雲システム」で関谷氏が運営しておられる「じたばた句会」に投句したものです。
だが、そうは言うものの、いかにも梅雨らしく豊かに降る、とでも言えば季節を愛でようという気にもなる。ふと気づくと近所の家々の庭の
盛夏の予感がする。
引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの通勤電車の中で、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、三つ目の「キリスト者の自由」(M・ルター Martin Luther 著、田中
マルティン・ルターの名前は誰もが学校で習うので知っている。学校では「ルター、カルビン」などと、フランスのカルビンと一組で習う。しかし、そのルターが何を言ったのかは、学校では少ししか習わないから、その所説を知っている人は少ない。
もちろん私もそうであったが、この読書によってなるほどと膝を打つこと大であった。
本書はルターの代表的論説で、誤解を恐れずザックリと内容を要約すると、
「物質的な形から入るのは誤りである。まず初めに精神がなくてはならぬ。精神から形はおのずと現れる。だがしかし、精神が成ったのち、それが物質的形となって慈愛とともに溢れ出さなければ、精神もまた誤りであったということになる。」
……ということとなろうか。ルターはこれを、「免罪符を買う」とか「ひざまずいて祈る」とかいう「形」が、「キリスト教信仰」という精神なしに横行していることを憂えて言っているのである。
これはしかし、実に考え込まされることだ。キリスト教信仰だけでなく、例えば日本人の日常生活での「礼儀」などにも投げかけるものがあるからだ。つまり、内心では相手を蔑み、馬鹿にしているのに、態度は慇懃丁寧に相手を思いやり、いたわって見せる、というようなことに意味があるか、という問いに通じる。
その一方で、「形は心を作り、心は形を導く」という説もある。例えば、日本ではその昔、吉田兼好法師が
「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥 を学ぶは驥の類ひ 、舜 を学ぶは舜の徒 なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」
……と言っている。形から入って、それを無心になぞるうち、精神も自然に導かれ、導かれた精神は更に形を磨いていく、ということが日本では一般に肯定されていると思う。
ここで、しかし、ルターの所説を曲解してはならない。ルターは「形など永久に棄却されるべし」などとは少しも言っていないのである。
すなわち、本書は大きく分けて2部から構成されている。第1部では「まず精神あるべし」、つまり、信仰心のない外面だけの宗教ごっこを徹底的に攻撃する。ところが、第2部では「精神成ったのち、徹底的に物心両面、利他に徹すべし。利他の功による神の救いなど求むべからず」と、一見第一部の真逆に見える事を説いてやまないのである。
これは、単に、形と心のサイクルの、スタートをどこに持ってきているかという些細な点が違うだけで、やはり形も大事なのである、……ルターは言外にそう言っているように私には感じられる。
また他に、ルターは非キリスト教徒にはわかりにくい「旧約聖書」と「新約聖書」の違いを誠に明快に一刀両断している。すなわち、「人を絶望させる神の厳しい『掟』、つまり『罪に対する罰』を述べたものが旧約であり、その絶望からすべての人が救われる『
「罪と罰」による悲哀と絶望が極限に達して
そしてまた聖書全体は、おきて、すなわち神の戒めと、契約、すなわち約束と言う二つの言葉に分けられるということを知らなければなりません。おきては、私たちにさまざまの善行を教え、規定していますが、それによって善行は生じません。なるほど、おきては指示しますが、助けはしません。おきては人間のなすべきことを教えますが、それを実行するための何らの力をも与えません。したがって、おきてが定められているのは、ただそれによって人間が善をなすのに無力であることを悟り、自分自身に絶望することを学ぶためだけです。ですから、それは『旧約』と呼ばれ、すべてのおきては、『旧約』に属しております。
さて、人間がおきてによってその無力を学び、自覚するようになりますと、どうしておきてを満たすことができるかと不安になってきます。おきては満たされなければならず、さもなければ罪に定められるからです。そのとき、人間は、ほんとうに謙虚になり、自分の目に無となり、自分のうちに義とされる何ものも見出さなくなります。そのときはじめて、ほかの言葉、すなわち神の約束と契約がきたって、次のように語ります。
「おまえがおきての強要するとおりに、おまえの悪い欲望や罪から解放されたいと思うなら、キリストを信ぜよ、キリストにおいてわたしはおまえにすべての恵みと義と平和と自由を約束する。おまえが信ずるなら得られるが、信じないならえられない。おきてのあらゆる行い――それは当然多くあるが、しかも一つとして役にたたない――をもってしても、おまえにできないことが、信仰によって容易になり、簡単になる。なぜなら、わたしは信仰のうちにすべてを要約しておいたからである。したがって、信仰をもつ者は、すべてをもち、そして救われ、信仰をもたない者は、何ももつことはできない」
このように神の約束は、おきてが要求するものを与え、おきてが命ずるものを成就します。このようにして、おきても、その成就も、すべてが神のものとなるためです。
神のみが命じ、神のみが成就されます。したがって神の約束は、『新約』の言葉であり、『新約』に属しています。
次は四つ目、「信仰への苦悶」(J・リヴィエール Jacques Rivière 、P・クローデル Paul Claudel 著、木村太郎訳)である。
ぐずつく天気、なかなかスッキリとはしない日々である。今日も一日降ったり止んだりしたが、なに、季節らしいと思えば逆に美しくもある。
引き続き通勤電車の中で、約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの通勤電車を降りる直前に、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、二つ目の「キリストの生涯」(J・M・マリー John Middleton Murry 著、中橋一夫訳)を読み終わった。
文字通りキリストことナザレのイエスの出生、ヨハネによる洗礼、修行、病者治療の奇跡、因習ユダヤ教への抵抗、布教、マグダラのマリアとのこと、最後の晩餐、磔刑、復活、そしてその後に至るまでを、年月を追って丹念に記述したものだ。共観福音書、すなわちマタイ
大正15年(1926)にイギリスで出版され、日本では昭和16年(1941)に翻訳出版されている。よい翻訳で、読みやすく平易簡潔な文体となっている。
正義の神の奉仕者たるパリサイ人は、愛する神の子たるイエスをどうしても理解できなかったし、愛する神の子は正義の神の奉仕者をどうしても理解できなかった。しかし神の名において一方は人を殺し、一方は人を赦した。そこに相違がある。
イエスの如き人物にとって重要なことは、想像力の序列と性質だけであって、想像力の扱う事柄ではない。彼は高等批評家がしばしば考えるような高等批評家ではなかった。彼は最高の人間――詩人、予言者、英雄であった。実際、最高の人間性を示す言葉で彼にあてはまらない言葉はないとおもう。これはイスラエルのことを語っているのか、メシヤの事を語っているのかという質問のような地上的な下らない疑惑が、イエスのような人の心にはいってくるはずはなかった。イエスはみずから予言者ではなかったのか、いな、予言者以上のものであった。予言者の言葉の意味は文字にあるのではなく、そこに輝いている神への認識にあったことをイエスが知らないはずがあろうか。「なんじゃもんじゃ教授」が読むようにイエスがイザヤ書第五三章を読んだのだろうか、そんなことはあるまい。神の計画の深奥な秘義として徹底的な敗北からの勝利、イザヤ書第五三章はイエスにはそういう意味なのであった。
われらが
宣 るところを信ぜしものは誰 ぞや ヱホバの手はたれにあらはれしや かれは主 のまへに芽 えのごとく燥 きたる土よりいづる樹株 のごとくそだちたり われらが見るべきうるはしき容 なく うつくしき貌 はなく われらがしたふべき艶色 なし かれは侮られて人にすてられ悲哀 の人にして病患 をしれり また面 をおほひて避 ることをせらるる者のごとく侮られたり われらも彼をたふとまざりきまことに彼はわれらの病患をおひ
我儕 のかなしみを擔 へり然 るにわれら思へらく彼はせめられ神にうたれ苦しめらるるなりと 彼はわれらの愆 のために傷 けられ われらの不義のために碎 かれ みづから懲罰 をうけてわれらに平安 をあたふ そのうたれし痍 によりてわれらは癒 されたり われらはみな羊のごとく迷ひておのおの己が道にむかひゆけり 然るにヱホバはわれら凡 てのものの不義をかれのうへに置 たまへり彼はくるしめらるれどもみづから
謙 だりて口をひらかず屠場 にひかるる羔羊 の如く毛をきる者のまへにもだす羊の如くしてその口をひらかざりき かれは虐待 と審判 とによりて取去 れたり その代 の人のうち誰 か彼が活 るものの地より絶 れしことを思ひたりしや 彼はわが民のとがの爲にうたれしなり その墓はあしき者とともに設けられたれど死 るときは富 るものとともになれり かれは暴 をおこなはずその口には虚僞 なかりきされどヱホバはかれを碎くことをよろこびて
之 をなやましたまへり斯 てかれの靈魂 とがの献物 をなすにいたらば彼その末をみるを得その日は永からん かつヱホバの悦 び給 ふことは彼の手によりて榮 ゆべし かれは己がたましひの煩勞 をみて心 たらはん わが義 しき僕 はその知識によりておほく の人を義とし又かれらの不義をおはん このゆゑに我かれをして大 なるものとともに物をわかち取 しめん かれは強きものとともに掠物 をわかちとるべし 彼はおのが靈魂をかたぶけて死にいたらしめ愆 あるものとともに數 へられたればなり 彼はおほくの人の罪をおひ愆あるものの爲にとりなしをなせり
イエスの教えの多くのかつ重大な誤解は、イエスが心と魂の変化をもとめたのにたいして、「悔い改め」をもとめたと考えることから起った。「悔い改め」ということは、要するに極端な罪の意識に主として基礎をおいている観念である。この「悔い改め」という言葉や特にこの言葉の背後にある意識は、イエスの思想や教えのなかにはじつは存在しなかった。
愛というものはそれ自体、追及の対象となるものではない。事実、愛を追及などすれば、かならず虚偽がはいってくる。
「
「翹」には「もたげる」「挙げる」というような意味がある。
どういう危険を冒しても、もう一度、家を見て、できれば町の人の心に訴えようという翹望であった。
上の引用箇所は、生地ガリラヤ地方で民衆からそっぽを向かれてしまったイエスが、もう一度自分の生家付近を訪れようとしたところの描写である。
次は三つ目、「キリスト者の自由」(M・ルター Martin Luther 著、田中理夫訳)である。
暑い。
今日などさながら梅雨明けだとでもいうような晴れ空にむくむくと大きな入道雲が育って天を囲み、はて、このぶんだと午後は夕立ちになるのでは、と思わしめるものがあった。しかし、今年の梅雨明けはまだまだ、来週以降の予想だそうで、今日は夕立ちにはならなかった。
庭の砂利敷き小径を手入れし、防草シートを敷き込む。猫の額ほどの庭にもかかわらず、ようやっと四半分ほど。家の東側の防草シートは先々週からとりかかってやっとこさ全部終わった。南の一番端に設置してあるエアコンの室外機の下に敷き込むのが一番の難渋で、あれこれと工夫して敷き込んだ。砂利の嵩が減ったので、ホームセンターで20kgばかり買い込んで足す。
腰が痛くなった。
時疫は収まらず、東京の感染者は未だ200人を超す。しかし新コロの死者は全国通算でも0人~2人程度で推移している。検査を受ける者が増えていると言うだけのことだから都内だけでも200人を超すのだ。東京では感染者に給付金を出すなどと言う区も現れたと仄聞するが、そういうカラクリであれば、我も我もと検査に手を挙げるのは自然の流路とも言える。有象無象のあさましさに憫笑すら漏れる始末だが、責めるわけにもいくまい。
風呂に入る。肌脱ぎになって冷凍庫の氷の塊を割ってたっぷりカチワリを作り、それでウィスキーを一杯。涼味が
たとえ沈滞していても、そんな生活の楽しみだって、ある。
梅雨も半ば、雨が盛んである。繰り返し強く降っており、梅雨明けはまだまだ先のようである。
引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの電車の中で、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、ひとつ目の「基督教の起源」(波多野精一著)を読み終わった。
著者の波多野精一博士は戦前に活躍した宗教哲学者で、東大・京大で教鞭を執ってきた研究者である。本著作は戦前の東大・京大で行われた講義ノートを整理して出版したもので、いかにも戦前の実直誠実な研究者らしい硬質の文語体で全文が記されている。
序文には昭和16年(1941)出版とあり、日米開戦の年だ。読者としては、この頃でもきちんと欧米の文化を洞察・研究する努力が続けられていたのだな、と感じるところ大である。
前巻の「聖書物語」を読んだ後なので、理解もより深まるという感じがするのはさすが古書らしく、
さて新約全書に載つた福音書は四ある。そのうち第四の、通常ヨハネ福音書と呼ばるゝものは他の三と甚しく内容を異にする。
これで「
「霄壤」とは「霄」が空、「壤」が地面のことである。要するに「天と地」だ。「逕庭」とは「へだたり」のことをいう。つまり、「天と地ほどの差」ということを格調高く書けば「霄壤も啻ならぬ逕庭」ということになるのである。
本文中では下の引用例の通り、更に
これをかのいかなる者もその前には一様に罪人たる神の絶対的神聖と、しかも
義 しき人にあらず罪人をあはれみ救ふ神の絶対的の愛とを合せて有するパウロの福音と比較せば、誰か両者の精神に於て霄壤も啻ならぬ逕庭を否むことが出来よう。
訓みは普通に「
かくの如く超自然出生は比較的新しく発生した伝説でしかも古き伝説に於て保存せられた正確なる事実と氷炭相容れぬ。
音読みで「
イエスは苟合妥協をよき事と思ふ人でない。
「
専門宗教家より瀆神罪の譏を受くるをも顧みず、彼は悩める者に「汝の罪赦されたり」との宣告を与へた(マルコ二の五)。
「
尤も世の終が目の前に迫つたといふ考は勢ひ要求を極度に高め、時としては社会の具体的関係を顧みる遑なからしめた。
まことに難読であるが、「
彼等のうなだれた首をもたげ、彼等の失望落胆を何物をも恐れず凡てを献ぐる喜ばしき確信と雙少き勇気とに変じたものは何であるか、――イエスの復活の信仰である。
読みは「
彼は渾身の力を父祖の宗教に捧げ熱心に於て
遥 に儕輩を抜出 た。
「
彼自身
猶太 人であつたを思ひ、また律法のうちに風俗習慣の瓦石に蔽はれて美しきけだかき宗教及 道徳の玉のひそめるを思へば、彼のこの見解は別に恠しむに足らぬ。
「
この世界観は宗教の方面に於て種々の観念(例へば霊魂の死後の存続の如き)を産出したが其最大功績は幾多の深邃なる宗教家思想家を動かした神秘説の土台をなし準備をなした事である。
家屋の
本文中では次のように用いられている。
己が眼のうつばりを忘れて他人の目の塵に留意する専門宗教家もあれば、彼等よりは罪人よ愚民よと蔑まれつゝ神の国の義を
饑渇 ける如く慕ふ下層の民もある。
少し難しいのはこの用いられ方だ。これは聖書に通暁していないとわかりにくい。「目のうつばり」というのは聖書に出て来る有名な一節で、イエス得意の
文語訳聖書では、マタイ伝福音書に
とある。
この一節、「目のうつばりの喩え」は、日本のキリスト教徒でもとりわけ熱心な人にはよく知られるところだと思われる。しかし、クリスマスに酩酊して騒ぐくらいしか能のない、いい加減な「なんちゃってキリスト教徒」には、翻訳のやまとことば「うつばり」も、英語の「Beam」も、いわんやギリシャ語の「ドコス」も、何を言っているのかさっぱりわからないことだろう。
「塵」と「梁」は実は対句である。この対句は理解しにくい。理解するにはこの言葉が唱えられた背景に目を向ける必要がある。
その背景とは、キリストことナザレのイエスの生業が大工であったということだ。すなわち、和訳では「塵」となっているが、原語「カルフォス」には「おが屑」の意味があるのだ。これは大工特有の
つまり、2000年前の
そういう事情を理解して聖書のこの部分を読めば、
「お前は『アンタの目にはおが屑が入ってるよ』と同輩に注意しているが、笑わせンな、そう言うお前の目には角材が入ってるワイ」
……と言っている、本業が大工のイエスらしい、絶妙な喩え話がよくわかるというものである。
次は二つ目、「キリストの生涯」(J・M・マリー著 中橋一夫訳)である。
梅雨も深くなり、雨がよく降る。しかし、そんなに蒸し暑くはない日々である。時々晴れ間もあって、そんな時は素晴らしい青空が広がる。
約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第8巻「論語物語/聖書物語」のうち、二つ目の「聖書物語」(H.ルーン Hendrik Willem Van Loon著)を読み終わった。
期待していた通り、本来は少年向けに書かれた読み物だけあって読みやすく、聖書の世界をわかりやすく解説しており、何より物語としてとても面白かった。私はキリスト教は嫌いであるが、ところが聖書そのものは旧約・新約とも若い頃からの愛読書なのである。
ナザレのイエスをはじめ、
また、味のある挿絵がふんだんに盛り込まれているが、巻末「解説」によると、すべて原著者ヴァン・ルーンの手になるものなのだという。
付録があり、同じ味わいの絵柄で「生きた年表」と題して聖書の年代をいわば「漫画年表」のような味わいで展開してある。まことに味わい深いものがある。
但し、世界教養全集シリーズのこの巻までの他の巻に見られる丁寧な校正と異なり、誤字・脱字・誤句・誤用が多かったのは実に残念なことであった。
『旧約聖書』のことを書くのは、わりあいとやさしいだろう。それは砂漠の民のある部族が、多年のさすらいの後に最後に西アジアの一隅を征服しそこに住みついて自分たちの国を建てた物語だ。つぎには『新約聖書』がくる。これは非常にむずかしい仕事になりそうだ。『新約』は、ただ一人の人物を中心にしている。それは人生に何物をも求めないで、すべてを与えたナザレの大工の物語だ。世間にはイエスの物語よりももっと面白いものがあるかもしれないが、わたしはまだ、そういうものを一つも読んだことがない。そこでわたしは彼の生涯を、わたしの見るままに、ごく単純に述べるとしよう――一語も加えず、一語も減らさずに。というのは、このように語られるのを、きっとその人は喜ばれるものと思われるから。
ピラミッドが造られてから一千年もたっていた。バビロンとニネベが大帝国の中心になっていた。
ナイルの谷と広いユーフラテス川とチグリス川の谷が、忙しく立ち働く人々の群れで埋ずまったころ、砂漠の漂泊者のなかの一小部族が、なにか自分たちの理由で、アラビア砂漠の荒れ果てた故郷を見捨てる決心をした。そしてもっと肥えた土地を捜しに北へ向かって旅立った。
やがてこれらの漂泊者はユダヤ人として知られることになる。
幾世紀かの後に、彼らはすべての書物のうちのいちばん重要なもの、すなわち聖書をわれわれに与えることになる。
もうすこし後には、彼らの女の一人が、あらゆる教師のうち、もっとも情けぶかく、もっとも偉大な人を生むことになる。
それなのにおかしな話だが、われわれは、このふしぎな民族の起源については、何事も知らないのだ。そればかりではない。彼らはどこからともなく出てきて、人類に課せられた役割のうちいちばん大きい役割を演じながら、ある時期を境として歴史の舞台を去り、世界の諸民族のなかでの亡命者になっているのだ。
海岸地帯には遠いクレタ(クリート)の島から来た民族が住んでいた。彼らの首都のクノッソスは、アブラハム時代の千年前に、ある未知の敵によって破壊されていた。のがれた人々はエジプトに足場を得ようとしたが、パロの軍隊に追い払われた。そこで彼らは東に航海したが、カナン人よりもずっとよく武装していたので、この大きな海に沿った細長い土地だけは、なんとか領有することができたのであった。
エジプト人がこの民をフィリスチン(ペリシテ)と呼んだので、彼らの方でも自分の国をフィリスチアと呼んだ。すなわち、われわれが今日いうパレスチナである。
ペリシテ人はたえず隣人たちのすべてと戦っていた。ことにユダヤ人とは、ローマ人がやってきて彼らの独立にとどめをさすまで、争いをやめることがなかった。彼らの祖先は、ユダヤ人がまだ粗野なヒツジ飼いだった時に、西方世界でもっとも開けた国民だった。メソポタミアの百姓が棍棒や石の斧でたがいに殺し合っている時に、彼らはもはや鉄の刀を造ることを知っていた。なぜ少数のペリシテ人があんなに多くの世紀のあいだ、何千何万のカナン人やユダヤ人に対して自分たちの土地を守ることができたかを、このことは君たちに十分説明するだろう。
要するに、モーゼやヨシュアやダビデが拝んでいたあの残忍で執念ぶかいエホバは、西アジアの忘れられた片隅に住んでいた農民やヒツジ飼いの小さな社会における単なる部族神にすぎなかった。
それが、亡命の予言者たちの勇気と瞑想とによって、この古いヘブライ人の神は、やがて、近代世界の人々が心理と愛との最高表現として受け入れているあの普遍的で永遠な観念「神聖なる霊」にまで発展したのであった。
なぜなら、この世のどんなことも、いまだかつて殺人によって成就したためしはないのだから。
「空の空なるかな、すべて空なり」
これは旧約「傳道之書」冒頭からの引用で、旧約聖書の文語訳では「
エルサレムは忘れ去られていた。だが、忘れ去られることこそ、まさしく、信心ぶかいユダヤ人がそうあれかし、と祈っていたことでもあったのだ。
だが、この世界にはけっしてそれで終りということのありようはずはない。そこには、つねに、永遠に「次の章」がある。
ともかくヨハネはすべてを「否!」という形で説いた。
イエスは同じように熱心に「然り!」という形でこれに答えた。
あまり使われない、平易な言葉なのに古い言葉である。「よくよくのこと」「ほかにどうしようもやむを得ない様子」を言う。
だが、よくしたもので、人は、よくせき思案にあまると自分にわかりもしないことにもっともらしい説明をする。
それぞれ、おのおの、めいめい、というような意味である。
弟子たちは驚いて立ち上がり、彼の周りにつめよった。そして、めいめいが、おのがじし、自分たちの潔白を誓うのだった。
平凡社世界教養全集、ようやく第9巻に読み進む。
第9巻は「基督教の起源」(波多野精一著)「キリストの生涯」(J.マリー著・中橋一夫訳)「キリスト者の自由」(M.ルター著・田中理夫訳)「信仰への苦悶」(P.クローデル・J.リヴィエール著・木村太郎訳)「後世への最大遺物」(内村鑑三著)である。多くの評論だ。
通勤路の
蒸し暑く感じることが多くなり、冷たいものや酸っぱいものがしみじみと旨い。読書しつつ、冷酒を
引き続き読み進めつつある約60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第8巻、2作収載のうち1作目の「論語物語」(下村
論語を題材にした二次創作、フィクションと言えば言えるが、基底にある論語は著者によってありのままに理解され、わかりやすく組み立て直されていながら、論語の魂は損なわれることなく見事な輝きを放っている。
著者下村湖人は名作「次郎物語」の著者でもある。下村湖人の代表作はどれかと
次は「聖書物語」(H.ヴァン・ルーン著)である。私は聖書については子供の頃から何度も読み、味わってきている。その聖書を、さながら前読「論語物語」のように噛み砕き、組み立て直したものと思えば多分間違いではあるまい。
著者ヴァン・ルーン本人による「まえがき」をたった今読んだところであるが、ハナっから、なにかもう、ゾクッとするものを覚える。
梅雨までのわずかな期間、初夏の風が薫る心地のする候となった。爽やかだ。
しかし世相は依然
これを見れば、いまや欧米諸国人が疫病蔓延の元凶であることは明らかである。ところが、数か月前、「中国人を入国させるな」などと
おかしい。
これは、テレビや新聞が悪い。検察官の定年なんぞで扇動なんかしていやがって、木っ端役人の1年や2年の
仕事をしろよ仕事を>ブン屋どもめ
違うな。
中国を責める前に、「米国大統領は力及ばず、国内で新型コロナウイルスを培養・蔓延させ、数多くの自国民を病死させてしまったばかりか、これを欧州その他世界へ再びばら
迷惑だよ。
だいたい、今日現在、8万5千にも及ぶ死人を出してるんだぜ米国は。よろしいか、感染者じゃないぞ。死人だぞ、死人。もはや亡くなった人々を哀しみ
中国なんぞに因縁つける前に、もっとしっかり、国民が政治をせい。
……。
こんなニュースを見るにつけ、いつも感じるのだが、そもそも、北朝鮮なんかより、米、露、中、仏、英なんかのほうが、よっぽど怖くねえか?核とかICBMとか核原潜とかそういう危険なアレやコレやが常態化しちゃってるってだけであって。
中国に対する米国の態度は、そのままでは首肯できかねるものも多いが、これはなんとなく、「ああ、そういうサイバー攻撃なんかは、ありそうだな」と思わせる。
しかし、読売の書きっぷりも「中国『系』ハッカー集団」などと記していて、「系」ってなんだよ「系」って、はっきり書けよオラ、……という感じもする。多分、そこいらあたりがどうもうまく調べられないのだろう。
さておき、戦争マニア国家米国は、「敵」「我」という、戦争を想定した対立軸でしか国のアイデンティティを保てない。もはや哀れである。
マァ、さすが、あの狭い国土にいまだに70万人もの地上兵力を擁し、徴兵制を
国民を監視カメラで追い掛け回して感染源を徹底追及しようってんだから、北朝鮮も真っ青だな。
で?何?「韓国が優れたコロナウイルス対策をして称賛されているから日本政府も見習え糞アベガー」……ですか?
……嫌です、そんなの。私は日本流がいい。今のところ日本のコロナ対策は世界に冠たるレベルにあると自信を持って言える。
これ、さあ。トランプ氏の下品さが際立つように思うでしょ?
私が思うに、それは違うな。トランプが下品なんじゃない。アメリカ人なんて、どいつもこいつも、もともとこれくらい下品なんだよ。このトランプ氏の言動って、普通~ぅの米国人の、
ましてや、日本なんぞ。米国人なんてものは、日本人なんか、鼻糞くらいか、それ以下の
キリスト教徒のクセして、愛なんてゼロだよ。
夏である。
今日はギラギラに晴れ、午後は暑かった。生活上の実感としては梅雨は明けたように思う。
気象庁のサイトによれば、関東甲信越の気象予報上の梅雨明けはまだだが、九州、近畿、北陸ではもう梅雨は明けている。
しかし日曜日には台風が来るようだ。被害などなければいいが。