Jetpackもうやめようかな

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 TwitterやFacebookにブログの記事をクロスポストするために、Jetpackを愛用してきた。

 しかし、最近、「使うんなら年に15,000円払えや」みたいなメッセージが出るようになった。

 もうやめようかな、Jetpack。

()(かず)(ぎん)

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 「()(かず)(ぎん)」をやってみようと思い立ち、ツイッターへ連投した。90分ほどで79句を()んだ。

 大急ぎで詠んだから内容は滅茶苦茶だし、いろいろとアラは目立つが、楽しかった。またやってみようと思う。

圧巻

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 最近、「ものすごく圧倒されるような、壮大な感じ、気圧されるような感覚」というような意味で「圧巻」という言葉を使っている人をよく見かけますが、それは使い方が間違っています。

 ……と言っても、多分、わかってもらえないということは、これも分かっています。

 多分「圧」という字の持っている感じと、「巻」という字の読みが「かん」「感」と混交して、そういう使い方をしてしまうのだと思います。

 しかし、言葉が違う意味で定着してしまうということはよくあることで、私のような一般人は、ムズムズと違和感を覚えつつ、我慢をしていくよりほかにありません。

 一番より抜きのところ、出色の所……というほどの意味から、例えばコンサートで演奏の一番盛り上がったクライマックスや山場を「圧巻」というのは、これは合っていると思います。ところが、今日読んだ文章の中に、

女優としての再出発…消えた千栄子を探し求めた人気芸人とは」(幻冬舎 GOLD ONLINE、青山誠、令和3年(2021)03月13日(土)00時00分)より引用。下線太字は佐藤俊夫による。

 千栄子が東亜キネマを辞めて京都を去った後の昭和4年(1929)には、鉄筋コンクリート4階建ての巨大劇場に建て替えられた。

 桃山風の大きな屋根がそびえる圧巻の眺め……。その威容に松竹の資本力を思い知らされる。

……というプロのライターの書いたものがあって、この「圧巻」は多分、間違えて覚えているんだろうな、「壮観」「威容」というような言葉と混同しているんだろうな、いくつもの著作をものしている文筆のプロでもそうなんだから、他は推して知るべし、……などとと思う次第です。


 この文章は、上左に掲示のとおり、最初は Facebook と Twitter に書いたものである。

読書

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 なかなか梅雨が明けず、相変わらずよく降る。しかし、窓外の雨を時折眺めては、安らかに座って読書するのもなかなか楽しい。と言って、私の読書時間のほとんどは通勤電車内なのであるが……(苦笑)。

 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集、全38巻のうち、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」を読んでいる。

 第9巻最後の「後世への最大遺物」(内村鑑三著)を帰宅後の自宅で読み終わった。朝の通勤電車内でこのひとつ前の「信仰への苦悶」を読み終わった後そのまま続けて読み、帰りの通勤電車内でも読み、帰宅後読み終わった。この「後世への最大遺物」は短い著作であったから、「信仰への苦悶」と(あわ)せ、その日のうちに二つの作品を読み終えた。

 著者内村鑑三は他に、「余は如何にして基督信徒となりし乎」など、キリスト者としての著書が有名である。私も、若い頃「余は如何にして基督信徒となりし乎」を読んだことがある。

 一方、本著作は明治時代に著者内村鑑三が行った講演の講演録であるが、「余は如何にして基督信徒となりし乎」を読んだときにはわからなかった、著者の漢学・国学に対する深い理解がわかって少し驚いた。「余は如何にして基督信徒となりし乎」は著者が英文で著したもので、私の読んだものは岩波の翻訳であったから、そういうことがあまり現れていなかったのである。

 そのことの表れであろう、この本の書き出しは、頼山陽の漢詩の引用から始まる。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、「後世への最大遺物」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.510より

もし私に金を溜める事が出来ず、又社会は私の事業をする事を許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持つて居ます。何んであるかと云ふと、私の思想(、、)です。

p.510より

文学といふものは我々の心に常に抱いて居るところの思想を後世に伝へる道具に相違ない。それが文学の実用だと思ひます。

p.517より

我々の文学者になれないのは筆が執れないから成れないのでは無い、我々に漢文が書けないから文学者になれないのでも無い。我々の心に鬱勃たる思想が籠つて居つて、我々が心の儘をジヨン・バンヤンがやつた様に綴ることが出来るならば、それが第一等の立派な文学であります。

p.520より

 それならば最大遺物とは何であるか。私が考へて見ますに人間が後世にのこす事の出来る、さうして是は誰にも遺す事の出来るところの遺物で利益ばかりあつて害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思ひます。是が本当の遺物ではないかと思ふ。他の遺物は誰にものこす事の出来る遺物ではないと思ひます。而して高尚なる勇ましい生涯とは何であるかといふと、私がこゝで申す迄もなく、諸君も我々も前から承知して居る生涯であります。即ち此の世の中は是は決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であると云ふ事を信ずる事である。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずる事である。此の世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるといふ考を我々の生涯に実行して、其の生涯を世の中の遺物として此の世を去るといふことであります。其の遺物は誰にも遺すことの出来る遺物ではないかと思ふ。

言葉
天地無始終、人生有生死

 訓読みは「天地に始終なく、人生に生死あり」である。

下線太字は佐藤俊夫による。p.496より

天地無始終、人生有生死」であります。然し生死ある人生に無死の生命を得るの途が供へてあります。

 これは本書冒頭の「改版に附する序」で述べられている言葉で、巻末の鈴木敏郎による解説にある通り、頼山陽が13歳の時に作った漢詩、

p.530(鈴木敏郎による解説)より

十有三春秋、逝く者はすでに水の如し、天地始終無し、人生生死有り、いずくんぞ古人に類して、千載青史に列するを得ん

述懐

十有三春秋
逝者已如水
天地無始終
人生有生死
安得類古人
千載列青史

……からの引用である。

 このエントリの最初の方で私が述べた、著者の漢学などへの深い理解がわかった、ということがこのあたりに表れている。

埃及

 「埃及(エジプト)」である。「埃及」という字を音読みすると「あいぎゅう」であるが、一方、ギリシア語では「エジプト」を「アイギュプトス Αἴγυπτος, Aigyptos」、ラテン語では「エージプタス Aegyptus」と(なま)ったらしい。ギリシア語の()(づら)は「エジプトス」とも読めるから、漢語の音写で「埃及(あいぎゅう)」と書いて「エジプト」だというのも納得のいくところだ。

p.499より

丁度埃及の昔の王様が己れの名が万世に伝はる様にと思うて三角塔(ピラミツド)を作つた、即ち世の中の人に彼は国の王であつたと云ふことを知らしむる為に万民の労力を使役して大きな三角塔を作つたと云ふやうなことは、実に基督信者としては持つべからざる考だと思はれます。

迚も

 「(とて)も」と()む。

p.511より

併し山陽はそんな馬鹿ではなかつた。彼は彼の在世中迚も此の事の出来ない事を知つて居たから、自身の志を日本外史に述べた。

匈牙利

 「匈牙利(ハンガリー)」である。日本語表記では「洪牙利」で、一文字で書く場合も「洪」「洪国」なのであるが、中国語では「匈奴の国」というほどの意味合いで「匈牙利」と書くのである。

p.512より

それが為に欧羅巴中が動き出して、此の十九世紀の始に於てもジヨン・ロツクの著書で欧羅巴が動いた。それから合衆国が生れた。それから仏蘭西の共和国が生れて来た。それから匈牙利の改革があつた。それから伊太利の独立があつた。実にジヨン・ロツクが欧羅巴の改革に及ぼした影響は非常であります。

仮令

 そのまま音読みで「けりょう」等とも読むが、ここでは「仮令(たとい)」である。

p.519より

仮令我々が文学者になりたい、学校の先生になりたいといふ望があつても、是れ必ずしも誰にも出来るものでは無いと思ひます。

 第9巻はこれで最後、次は第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」である。第9巻は一巻これすべてキリスト教であったが、第10巻は見た通り仏教がテーマである。

「軍艦島における朝鮮人差別存在せず」の報道

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 ツイッターでこんな話題がトレンド入りしている。

 これは、下の共同通信のニュースをきっかけにしたものであるようだ。

 私のタイムラインではツイートのほとんどが共同通信批判であるように見受けられる。曰く、「批判を招きそうだ」という最後の一句が気に入らないというのである。まあ、「類は友を呼ぶ」が物理的に実現されているTwitterのこと、私が私と同じような傾向の人をフォローしているわけだから、そりゃあ、当然そうなると言えばそうなる。

 また、これは、Twitterのトレンドのタイトルがヘンチクリンに歪んでいることが、共同通信批判を招く一要因だろう。左がトレンド表示ペインのキャプチャであるが、そりゃあ、「朝鮮人差別存在せず」という記事タイトルに対して「朝鮮人差別存在」では、まるっきり意味を正反対に歪める切り出し方のタイトルであることは(いな)めない。

 さておき、共同通信の記事を読むと、私には共同通信がそんなに悪辣であるとは思えない。「政府がこれこれこういう発表をこういう狙いで出す」という事実報道と、「やっぱり批判は招くであろう」という観測とが淡々と述べられているだけだからだ。この記者の筆致を責めるわけにはいくまい。

 朝鮮人差別について批判されるのなどいつものことだから、何をどう言い(つくろ)おうが、やっぱり批判はされるのである。そういう観測を書いてあるだけだから、「共同通信社許さん!!」とするツイートは当たっていないと思う。

 朝鮮人差別について、本当の事実はどうだったのだろうか。私などが多分こうじゃないかな、と思うのは、次のようなことだ。すなわち事実は、「朝鮮人差別はなかった」「いや、あった」というような、「ある、ない」のディジットではなく、「差別はあると言えばやっぱりあったし、しかし、朝鮮人側が言うほどムチャクチャではなく、その点、ないと言えばないようなものでもあった」というような、実に曖昧な中間の、なんとも()わりの悪いところにあったのではなかろうか。

 なぜそう思うかと言うと、人間の対立・分断における事実は、上記のような「どっちでもない中間」であることがほとんどだからだ。だから朝鮮人差別もやっぱり、「どっちでもない中間」に事実があったのであろうと想像する。

 私は軍艦島を見たわけでも何でもないし、問題に関する専門家でもない。が、白紙的に、過酷な労働現場で日本人労働者と朝鮮人労働者が一緒に働いているところを想像すると、同じ労苦を共にする者たちとして、傷を()めあい、助け合うような場面もあれば、逆に些細(ささい)なことで「朝鮮人のくせに」「何糞、我々朝鮮人を蔑みやがって」などと、(いが)み合う場面もあったろうと思う。それを差別と言うならやっぱり差別なんだろうし、いや、そんなの差別とは言えん、と言うなら、差別はなかったということにもなるのだ。

 いずれにせよ、現在、朝鮮人がギャーツクうるさいのは、これは事実である。不毛な論争や非難などやめればよいのに、と思うが、百済(くだら)だの任那(みまな)だの新羅(しらぎ)高句麗(こうくり)と言った記紀歴史の時代にまで(さかのぼ)る過去2千年来の経緯から言って、今後500年から1000年くらい、朝鮮人はやっぱりダラダラと文句を言い続けたまま、何の変化もないだろう。そのように受け止め、相手にするでもなく、と言って全く相手にせぬでもなく「あ~ハイハイ、差別ねえ、慰安婦ねえ、ゴメンネごめんね~。ハイハイ以上。」とでも言ってあしらっておけばよろしい。所詮(しょせん)、昔っから日本と朝鮮なんてそんな間柄で、それ以上でもそれ以下でもない。だから今更、日本人から朝鮮人に要求するようなことなど、なにもあるまい。

ウクレレやギターや

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 時疫(じえき)(ごも)りの無聊(ぶりょう)(まぎ)らわすためとて、妻がウクレレのセットを買い、長女がフォークギターのセットを買った。楽しそうに(つま)()いている。

 妻がウクレレを弾いているのを見ていると、自分も触ってみたくなり、「オイ、俺にもちょっと貸せ」と借りてみた。

 弾きたい曲のメロディーが根音かどこかに混じった和音を弾けばコードになることがわかった。C、F、G7、その他少しのコードを覚えると、「海行かば」(大伴家持作詞・信時潔作曲)が弾けることもわかった。

♪ ( C)(Dm)(Em)
 (G7)(C)くかば(G7)
 ( C)(E7)(F A7)
 (DmG7)生すか(C)(C7)……

……おおっ、こ、これは面白い。歌いながら弾くと楽しい。弦楽器ってこんな面白いものだったのか。

 ひょっとすると、この調子ならギターも弾けるかも!?というわけで、「オイ、お前のギターをちょっと俺にも貸せ」と、長女のギターを借りてみた。

 だが、「F」のコードのところで挫折した。……指が変になりそうだ。ギターを弾ける人はスゲェ。どんな指してるねん。指に骨が入ってないのとちゃうやろか。あんな変な指の形、変態やないとでけへん。

 などと吐き捨てつつも思い返すに、ピアノが少し弾けるようになった頃、そのことを人に話すと、「あんな左右の手や足がバラバラに動くようなことは常人のなしうるところではない。キチガイだ」というようなことを言う人がいたことを思い出す。

 キチガイでもなんでもない。相当上級の曲を弾く人のことは別として、ピアノの手足は、実はバラバラになんか動いていない。一定のリズムと規則で動いており、バラバラではないのだ、ということを、ピアノを1年ほど弾いてみているうちに実感・納得したことを思い出す。

 だから多分、ギターにも音楽のルールがあって、Fコードも多分なんてことはないのだろうと思うが、しかし、門外漢には極めて難しいのである。

時事駄聞(だぶん)

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引きこもり耐性も何も

 Twitterでは「数週間程度の引きこもり耐性」という言葉がトレンド入りしている。

 しかし、ネットのある現代日本で、耐性もヘッタクレもなかろう。ネットのある状態で家にいても、これは引きこもりとは言えない。

 本当に誰とも接触せず、何も会話せず、自らに向き合う事だけが許された引きこもり、しかも、「過去の人々とも交わらない」、すなわち読書も禁止された正真正銘の真の引きこもりだと、これはさながら「達磨大師」の面壁のようなものであって、常人にはほぼ不可能である。

 だが、ネットさえあれば、私など、数週間どころか、数年、いや、10年程度は引きこもることのできる自信がある。

 そうは言え、これは単純に金銭の心配をしなくてよいと仮定したものであって、「金を稼ぐ」ということをも「引きこもり耐性」のうちに定義づけると、私は1日としてこれに耐えることはできない。私個人は、ネットから自動的に金銭が流入してきたり、ネットから継続的に金を()み上げることができるようなシステムは、残念ながら確立できていない。物理的に働きに出ないと、給料は貰えないソーシャル・システムに属しているからだ。

テレビ局で

 テレビ局では新型コロナウイルスが蔓延し、著名人や社員に病者が続出しているという。

 落ち度なくして重病に(かか)ってしまったテレビ局の働き手にはお見舞いを申し上げたい。

 だがしかし、これをきっかけにして、差別と偏見に満ち溢れた狂騒的で低劣なテレビ番組が減り、日本の知性が向上するのではないかと思う。

梅と弥生

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西行法師を本歌にとり昨日詠める

思へらく死してしがなと梅の(もと)弥生の雨はやみにけらしも   佐藤俊夫

#短歌 #tanka

盗撮犯なんか死んでしまえ

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 今日は冬麗らかで、今は気持ちの良い昼下がりなのだが、そんな時にTwitterで盗撮犯の仕込み靴の写真を見てたちまち胸糞が悪くなった。

 こういう奴って、根絶やしにできないものなのかな、と思う。

 男の私にとってもこういう破廉恥犯は迷惑である。こういうことがある度に電車や公共の場所に無用のルールが増え、ただでさえ不快な通勤満員電車が、ますます窮屈で、嫌な場所になって行ってしまうからだ。

 職場でも迷惑である。何を隠そう、私の職場で盗撮で検挙された愚か者がおり、私はその男の尻拭いをさせられて人事上の迷惑を(こうむ)ったことがあるのだ。洒落では済まされない迷惑であった。

 こういう奴は病気なので、一度反省して()めたかに見えても、しばらくするとまたやる。9割とは言わないが、5割か6割は、またやる。

 病気とは言っても、こんな者に効く薬なんかないから、死なないと治らない。薬中・ポン中と同じである。盗癖も同じだ。つまり、馬鹿なのだ。昔の人はよく言ったもので、「〽馬鹿は死ななきゃ治らない」(二代廣澤虎造『石松三十国船道中』より引用)のである。

 警察に捕まっても無駄だ。仮に起訴されて有罪となっても、死ななければ治らない馬鹿なのだから、馬鹿のまま社会に舞い戻ってくる。

 だから、死んでほしいと思う。他人が殺すと、殺した人が殺人犯ということになって迷惑だから、自殺してほしい。腹の底からそう思う。他人の手によっては治らないのだから、自分の手で自分の犯罪を始末してほしいものである。

足袋(たび)

投稿日:
 上野国立科学博物館に往古の即身仏・木乃伊(みいら)数多く展示さるゝを見て
木乃伊(もくのい)足袋(たび)精妙に()せにけり   佐藤俊夫

#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha