時事漫擲

投稿日:
宮城まり子氏死去

 新型コロナウイルスのニュースばかり見ていて、もう10日以上も前のこのニュースに気付かなかった。

 宮城氏と言えば、畏し、皇室との縁も誠に深かった。祈冥福(めいふくをいのる)

今日はホンマに終わっとるな……

 うっわ~、明日あたり、200人はいくなァ……。

おっさんw

 「w」なんて末尾に書くのは不謹慎というものだろうが、しかし、なにやら色々と考えてしまう。

 だって、そりゃあ、オッサンは外へよく出るからなあ。……自分の意志であろうとあるまいと。病気にだってなるというもので、それをまるで「オッサンは不潔だ」みたいに言われると腹が立つ。病気のリスクを背負いながら一生懸命働いてンだよ。

経験

 経験上、こういう時に限って別の甚大災害が起こる。弱り目に祟り目と言う奴だ。

 祈ったって無駄だ。宇宙は我々の精神など問題にしていない。

 台風はまだ予測可能だとしても、大地震はまだまだよく予想が出来ているとは言えない。明日、いや、今日、いや、今、大地震が襲ってくるとすれば如何に。

だったら貰うな

 だったらマスクもゼニカネも、一切何も貰うな馬鹿野郎。文句ばっかり言ってやがって。

う~ん、難しいなこりゃ。

 この非常時に髪の毛如きの心配なぞしているような奴は無視でいいと思うが、しかし、街の床屋さん、理髪師さん、美容師さん、また髪の毛を含む容貌が売り物のモデル、俳優、タレントなど、理髪店や美容院が閉店では普通の人が思っているよりも打撃の大きい人もいるだろう。確かに困ると思うが、だからと言って名案もない。

 私ですか?私は幸い、去年から電気バリカンを使って、自分の頭を自分でモヒカン刈りにしているんで、全然困らないっすよ。……最寄りの理容店は売り上げが一人分減りましたけどね。

 ギャーギャー言うなら、(はさみ)でも剃刀(かみそり)でも何でも使って、自分の頭や顔くらい、自分で始末するといい。

米国の方が怖い

 緊急事態と言う事で考えを巡らすと、新型コロナウイルスと、米国による空襲と、どっちが怖いかというと、米国の方が怖い。アイツら、人間じゃねえからなあ。コロナウイルスの方がマシだ。ということはつまり、「アメリカ人の言う事にはおとなしく黙ってハイハイ言っておくのが良い」ということにもなるわけだよ。

 腹立つなあ。

 北鮮?……米国よりゃまだカワイイもんでしょ。

アホかい

 「わが目を疑った……」って……。

 このラサール何とか言う男のことはよく知らないが、多分有名人なのだろう。だが、こ奴は頭がおかしいのではないだろうか。何でこの男はその場にいて、それを自分の目で見てたんだ。この男は何をしにその駅前50メートルの密集地へ出かけて見物してその様子をレポートしているのか。いい加減にせんかいこの馬鹿者。

人が死んでるのに「宝庫」はなかろうよ。

投稿日:

 ある著名な方の文章に曰く、

画像は小林よしのり氏サイト『BLOG あのな、教えたろか』より引用
災害救助は自衛隊にしかできない
(小林よしのり氏サイト『BLOG あのな、教えたろか』、
平成30年(2018)07月16日(月)00時00分)より引用

日本列島は地震や津波や台風や豪雨や土砂崩れや豪雪や火山噴火や酷暑や、ありとあらゆる自然災害の宝庫だ。

太字強調は佐藤俊夫による。


 ……。なんというか、「地震や津波や台風や豪雨や土砂崩れや豪雪や火山噴火や酷暑」は、「宝」なんですかねえ。なんだよ「宝庫」って。

 ここは、

 日本列島は地震や津波や台風や豪雨や土砂崩れや豪雪や火山噴火や酷暑や、ありとあらゆる自然災害の巣窟だ。

……というふうに書いてほしかった。

 いや、この方特有の皮肉を込めて、「民族を磨く試練にこれほど恵まれているにもかかわらず、なにをボンヤリしておるのだ、災害は日本民族を磨き照らす宝だ、覚醒せよ、日本民族、喝~ッ!!」とでも言うのなら、「宝庫」でもいいとは思う。

 だが、多分うっかり「宝庫」と書いただけで、深い意味はないだろう。

 人が死んでいるのに「宝庫」は、ない。

 このこと、主義主張にはまったく関係ない。単に日本語の話である。

桜田門認定・省エネ乾麺

投稿日:

 ぬうううう……。

 一時期、警視庁キャラクターのくせに本人は全裸猥褻犯である、ということで話題にもなっていたピーポ君である。

 そのピーポ君ご推薦の烹炊(ほうすい)方法が「乾麺は水で戻せ」、これである。

 うーむ、乾麺は水で戻せば食える、そ、それは確かに、そうだろう……さ、さすがだ。そりゃ、乾いたモノを水で戻せば食えるようになるであろうことは白紙的に考えれば(わか)ることではあるが、それにしてもしかし、そのようなこと、思いつきもせなんだ。

務台(むたい)おんぶ

投稿日:

 笑った。

 ま、こういう連中は所詮、乳母日傘(おんばひがさ)で蝶よ花よと育てられた金持ちのボンボンだからねえ。

 多分、謝ってるのも、上の人から謝れと言われたから謝ってるだけだよ。自分の何がいけなかったのか、今も理解してないと思うよ。

目的と手段など

投稿日:

 災害時に大切なことは、作業着を着こみ、額に汗をして働き、困っている人を助けるということである。

 只々(ただただ)只管(ひたすら)、救助これあるのみである。

 屁理屈や不平、非難、誹謗、批判などは全く必要でない。もっと言うなら、駆け引きも人気取りもいらいないし、スーパースターのようなものは出る幕ではない。

 しかるに、そうした悪しき色彩のなんと濃く見えることか。

 災害は決して政治的な表現の場などではない。また、SNSやツイッターで政治的な発言をして楽しむお祭りなどでは、断じてない。

 自分が考えたことを発言するならまだしも、「政治的な発言をリツイートしたりシェアしたりするだけ」というような行動に首肯することは、私はできない。

 例えばある人がSNSにログオンしたとする。その画面がこうした政治的鬱屈に塗りつぶされて見えるのは、そういう性向の人ばかりフォローしていたりFBフレンドであったりするからだと思う。類は友を呼び、さながら陰々滅々のシナジーとなって黒いわだかまりが増殖していくのであろうことは容易に想像しうる。

 常々思うのだが、人間、偉くなってくるとだんだんと手段というものを軽んずるようになる。両手を使って薄汚れて働くよりも、情報だ企画だ管理だと言いたがるようになる。大工より建築士が偉いとするようなもの、基本情報技術者よりITストラテジストが偉いとするようなものである。

 極端な話、実際上もそうなのだが、建築士だけがいても家は建たない。だが、大工だけがいる場合、家は建つ。

 指揮者ばかり5人も6人も集めると、「音楽論」はできるかも知れないが、音楽を奏でることはできない。しかし、バイオリニスト一人いれば、指揮者がいなくても美しい音楽を奏でることができる。指揮者の目的は人が聴く音楽にあるのだが、指揮者だけでは音が出ないのである。

 ヘッドクォーター不要論を唱えようというのではない。指揮者や企画家、経営者でも政治家でもなんでもいいが、そういう者は、自分の活動が何によって支えられているかと言うことを忘れてはならぬということが言いたいのだ。

 トルストイは「イワンのばか」で、「頭を使って働くことが大切だ」と主張する悪魔を頭を下にして塔から転落させて見せた。無知蒙昧な農民たちは、ゴツンゴツンと頭を打ってひどい目にあう悪魔をさして、「ああ、頭を使って働くって、こんなひどい働き方なんだ、俺はごめんだね」というのである。愛あるトルストイは、頭を使って働くことこそ至上であるとするような考え方の愚かさを、文学上こうやってこき下ろして見せた。

 こう筆に従っていくと、さながら共産主義者めいてくる。どっこい、私は共産主義者ではない。トルストイの貧者へ注ぐまなざしのやさしさは、しかし、彼が実は貴族の息子であるということもあずかって大きく影響している。だからあそこまでコテンパンに悪魔を痛めつけてみせることが、自虐として許されたのだ。

 ともあれ、災害をネット祭りみたいな変なもののタネに使うのはよした方がいい。文字列には力があるが、文字列だけでは頭を使って働けと言ったトルストイの悪魔と同じだ。トルストイが悪魔に仮託した自虐によって表現したように、偉い人、企画家、管理者、政治家、経営者、そういう者にしてはじめて許される自虐によってこそ、手段のない、働きのない無為の知性が防がれる。

幽霊怖いよ

投稿日:

 暑くなると幽霊譚、怪談、オカルトの話に傾くのは、涼味をなんとか得ようとする昔の人の知恵ででもあったろうか。

 この季節、雑談などするとつい話もソッチへ傾きがちで、馬鹿げているがこれはこれで夏らしくてよい。

 幽霊談、心霊現象自慢、怪奇現象自慢などをしていると思い出すことがある。

 小学校の2、3年、あるいは4年くらいの頃だったか。子供の頃の私は、女の子に笑われてしまうほどの「怖がり」であった。なにしろ、なによりも幽霊が怖い。長じてみると幽霊なんぞより生身の人間のほうがよっぽど怖いということが身にしみてわかるようになるが、子供は生身の人間の怖さなど知らないから、幽霊なんぞを怖がるのである。

 子供の頃の私が住んでいた家は大正時代に建てられた古い長屋官舎で、戦災の焼け残りだった。古びた土壁、暗い田の字型の室内、北向きの縁側、間取りは4畳と6畳のふた間。そこに5人家族がひしめき合って暮らしていた。まあ、裕福ではなかった。

 古い官舎の天井には、なにか人の手形のようなものが付着していて、それがなにやら茶色く変色しており、「血の跡なのでは……!」と想像しだすとキリがなく怖い。裏の物置から幽霊が出てきそうで、本当に怖かった。

 私は末っ子だったので、学校から帰ってくるのは一番早い。母が働きに行っていたから、当然、誰もいない家に一人で鍵をあけて入る。暗い官舎にじっとしていると、幽霊があっちからこっちから出てくるような気がして、もう、逃げ出したくなってくる。

 それで、恐ろしくてたまらず、ともかく家から走り出す。走り出したからといって特段することなどなく、当時多くの人がやっていた暇つぶし、商店街の本屋へ立ち読みに行く。

 怖くて家を出てきたのだから、漫画の立ち読みでもして気分を明るくすればいいようなものなのに、そんな時に限って、ふと立ち止まって見上げた本棚には、「恐怖の心霊写真集・パート1」などという、当時はやった本が並んでいるのである。それをまた、よせばいいのに、つい、ついつい、おずおずと手にとってしまう私なのであった。

 ページをめくる怖さ恐ろしさ。やめときゃいいのに、ずんずんページをめくってしまい、背に冷や汗が流れ、本屋のレジのウラの暗がりから今にも霊がまろび出て来そうな気がして、悲鳴を上げそうになるくらい怖い。ああ、こんな怖いものを見ているくらいなら、とっとと家へ帰ろう!

 そうして本屋を逃げ出して、小走りに家に帰るのだが、一人っきりの家がまたしても怖い。さっきまで見ていた「心霊写真集」の霊が台所の障子から浮かび上がってきそうな気がする。うひゃあ!怖い!

 それでまた、家を飛び出し、これがどういう脳みその構造だか、また本屋に行って、また「心霊写真集」を手にとってしまうという、ワケの分からない私なのであった。ひい、怖い、……と、また家に走って帰り、また怖くて、友達の家にでも行けばいいのに本屋に行ってしまい、また心霊写真集を見、また家に駆け戻り、……という、「猿のなんちゃら……」のような、アホなことを5、6回も繰り返すのである。

 我ながら、本当に変な子だったなあ。

 そういう、怖がりにバカの混じった私であったが、長じてから職業上、人が首を吊って死んだ跡地で闇夜に一晩見張りをしたり、災害地で沢山のご遺体を収容したりするうち、幽霊なんかまったく怖くなくなってしまった。

可能性

投稿日:

 また、テレビでアナウンサーが「台風が上陸する可能性があります」と言っていた。

 どうも、いただけない。災害などは「上陸するおそれがあります」「土砂災害が起こるおそれがあります」と言ってほしい。

 忌むべきものに

「あとうべく……」「あとうべかる……」

……は、やっぱり違うと思う私である。ここはやはり「おそれ」だろう。

 「可能性」という言葉は、

「彼は合格する可能性が高い」

というふうに使うのがよい。

やられたらやりかえすのはバカか覚悟か

投稿日:

 テレビドラマにかぶれて「10倍返し」だなんだと言っていた人たちが同じ口で「テロへの報復は憎しみの連鎖をよぶだけだからやめるべき」なんて言っているのを、人間ってものはいろいろ揺れるもんだなと感じながら傍観している。

 ただ、成算のない仕返しは単なるうっぷん晴らしにすら届かず、返り討ちになるだけだ、ということは言えると思う。それはドラマの中の銀行員の「10倍返し」だって同じことだ。

 仕返ししても負けるから、さしあたりガマンしておこう、というのは大人の選択ではある。子供の頃、ひねこびた性格だった私は、よくそういう選択をした。

 子供だって、負けないためには覚悟をする。仕返しの連鎖の終局に勝ち残るには、相手を刺し殺して少年鑑別所に入る、という覚悟が要り、それには家族や兄弟を路頭に放り出しても頓着しない覚悟が要る。私の父は刑務所の職員であったから、家から縄付きを出せば退職するならわしも昔はあったのである。

 人に手を出す奴というのは、そういうコッチの事情を見越した卑怯なところがあるものだった。一方の、「終わりには結局負けてしまう、つまり相手を殺すことはできず、散々損をして負けることになるから、それだったらとりあえず早いうちに負けとこ」という、そういう選択をする私のような子供は、誠にかわいげがなく、老成している。

 子供の争いと国家間の戦争や紛争では訳が違うが、覚悟のあるなしという点では似たところはある。その意味では日本は老成している。

 逆に、相手を屈服させるためならどんな犯罪人にでもなる、そういう中学生のような覚悟をしている国の代表格はアメリカだろう。やっこさんたちの核兵器や化学兵器、生物兵器の保有量、9.11で殺されたアメリカ人の人数と、その報復でアメリカ人が殺した中東の人々の人数を調べれば、「はて、イラクの大量破壊兵器の保有を責め立てたのは、どこの誰だったかしら」と、常人なら頭が混乱するはずだ。非人道の極北へまっしぐら、彼らが信奉するキリスト教の教義にすら背いてでもそうする、無辜の市民の10万人や20万人、核兵器で焼き殺してでも屈服させる、そのためなら人類の文明なんか破却してもかまわん、こっちの勝手を押し通すためならどんな汚名をこうむろうと無視する、そういう覚悟だろう。いや、逆に何も考えていない単なるバカ、とするともっと簡単ではあるが……。

 強いバカ国の国民というのは、なんと能天気なことだろう、という写真がある。何年か前の写真だが、一方で戦争しながら、国民はこういう暮らしだ。

  •  http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51809534.html
  •  地方のスーパーに買い物に来ている人々を撮影したものだそうだが、とても一方の手で人殺し、報復戦争をしている人々とは思えない。

     ともあれ、冷厳・冷徹な合理主義でものを決めつつ、かつ、好みや気分にも忠実、というバランスがうらやましく妬ましい。

     個人もそうありたいものだが、やっぱり、私などはリアリズムに欠ける。きっと、多くの日本人も、冷厳なリアリズムは苦手なのではないだろうか。

     災害時の医療現場でトリアージにあって残念ながら死んだ人の家族が裁判を起こして医療関係者を訴える、そういう情が日本人である。玉砕して無線機なんかないアッツ島に、打つ意味のない鎮魂の無線電信をそれでも打つ、そういう悲しい、非合理の選択をしてしまうウェットな愛、やっぱりそれが日本人である。

     日本人はマキャベリばりのリアリズムなんて嫌いなのだろう。アメリカ人のバカ写真を見ては、関連も根拠もなくそう思う。

    「オッサンとバイエル」こと、佐藤のピアノ略史

    投稿日:

     ヤマハの音楽教室に通う次女(当時4歳)のために、浦和のイオンの玩具売り場でキーボードを購入。19800円。ヤマハの「PSR-E303」。

     買ってきたキーボードが面白く、ついつい次女を尻目に遊んでしまう。

     1週間後、「弾いてみよう!はじめてキーボード」というサイトを見つけ、その記事にしたがってキーボードで遊んでいるうち、「きらきら星」がなんとなく両手で弾けてしまい、俄然面白くなる。

     バイエルのMIDIデータがフリーであちこちのサイトに揃っていることを知り、ダウンロードして聞いたり、データから楽譜に変換してそれを見ながら少しづつ弾いて見たりする。

     フリーのデータから起こした楽譜で、バイエル15番くらいまでは弾けたが、16番でつまづく。弾いてみたいなあ、と思うようになる。

     それでもなんとかかんとか、5日ほどもかかって、バイエルの16番を弾く。

     意を決して、それまで一度も入ったこともない楽器店というものに入り、全音の「最新バイエルピアノ教則本」を購入。

     それから、バイエルを頭から1曲づつ弾いていくということをするようになった。

     1年が経過し、バイエル70番くらいまで進んだ。その間、少し寄り道して、ショパンのプレリュードOp.28-No.7イ長調(『太田胃散』(笑)) を弾くなどした。

     キーボードではやっぱりダメだと思い、1年がかりで貯金して、自分用のデジタルピアノを買う。ローランドのFP-7。

     この前の年から、次女はヤマハをやめて近所のピアノ専門の先生に通うようになった。その次女のピアノの発表会に連弾相手として出て、「トルコ行進曲」を弾く


    次女と「トルコ行進曲」の連弾

     「エリーゼのために」弾く。次女のピアノの先生に「単発レッスン」を一度お願いするなどしつつ、ほぼ8ヶ月がかりで弾けるようになった。


    エリーゼのために

     次女のピアノの発表会に連弾相手として出て、「王様の行進(ビゼーの『アルルの女』の一部)」を弾く

     全音「最新バイエルピアノ教則本」の一番最後の応用曲「アザリア・ポルカ」を弾く

     これで、この本に載っている音符という音符は、一例や例示、練習譜まで、一音符も残さず全て弾き終わった。

     次女のピアノの発表会の連弾相手として「パッヘルベルのカノン」を弾くが、東北地方・太平洋沖地震による大災害のため発表会が中止になる。

     名曲・ショパン「ノクターンOp.9-No.2」を弾こうと思い立ち、練習を始める。

     引き続いて1年がかりで練習し、次女のピアノ教室の発表会にソロで乱入、ついに「ソロデビュー(笑)」を果たす。


    2箇所間違えながらも、奮闘する私(笑)。

     ☆ 引き続き練習して、だいぶ弾けるようになった

     「ノクターン」を弾き終わってすぐ、この次の曲は何にしようと多少迷った挙句、今度はショパンの「雨だれ」を稽古し始める。

     1年半以上かかって、なんとか「雨だれ」が弾けるようになる。

     今度はエリック・サティの「ジムノペディ1番」を弾いてみようと思い立つ。