コロナウイルスどこ吹く風

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 それにしても大東京のサラリーマン諸氏には恐れ入る。学校が休みになろうが政府の自粛指示があろうが、なんの関係もなく押し合いへし合いの満員電車で沈黙通勤、混み具合なんか普段と全く変わらない。「テレワーク?なんスかソレ。営業は足で稼ぐんスよ」みたいな顔をしている人が半分ぐらいいて、残りの半分は「ワシはマスクなんか絶対するものか、アメリカでは効果がないと言っている、だいたいマスクなんてものは、菌がこもって気色悪いんぢゃッ!」……というような顔をしたスッピン・マスクなしの頑固爺の群れである。女の人も、ヒールの(かかと)の音も高くカツカツカツカツ、「何がコロナウイルスよお給料貰わなきゃ生きていけないでしょうがバカヤローあほんだら!」みたいな怒りを眉宇(びう)にパンパンに(みなぎ)らせて、物凄い勢いで下りエスカレーターの右側を駆け抜けていく。

 今日の夜なんて、いつもどおり「ハナキン」の夜、街の居酒屋の入り口をちょっと覗くと、今時(いまどき)煙草の煙がもうもうと立ち込めた店の中で、酔眼のおっさん連中が冷奴なんぞを前に赤い顔して「それがよォ、お(めェ)、アッチのほうがコレもんでよォ」などと、大声で御託(ゴタク)を並べている。ガールズ・バーの前にはいつもと同じお姉さん、キャバクラの前にはいつもと同じお兄さんが呼び込みに余念がない。

 思うに、ネットで恐怖説を拡散しているのは、おそらくこうした、どこ吹く風の実際の光景など全く見ていないような自営業の人などが主体なのではあるまいか。

 人類はこれまで、梅毒やペストや結核や黄熱病など、恐るべき微生物感染症を克服してきた。そこからすると、今般の事態が収束した暁には、また新たな人類に進化しているだろう。無論、それは、このコロナウイルスなどどこ吹く風の強靭な背広通勤集団によってなされるのであろうことに疑いを()れる余地はない。

(くじ)とウイルス

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 私は新型コロナウイルスに感染しないという妙な自信があるのですが、それは次のような馬鹿々々しい理由によります。

 私は毎年宝(くじ)を買うのですが、ほんの10万円ほどですら当たったことはありません。一方、下サイトによると、毎年10万円以上当籤(とうせん)する人は18万人近くもいるそうです。しかし、私はそれすらも当たりません。ましてや、6千万円以上8億円以下の当籤者は1000人いない程度しかおらず、私にあたる分は残されていそうにもありません。

 コロナウイルスにせよ宝くじにせよ、「分母の取り方」が大変難しいので、一概には言えませんが、しかし、運・不運の違いこそあれ、今日現在、国内に1000人以下ほどいるというコロナウイルス感染者は、宝くじで大当たりに当選した億万長者と同じくらいの運の持ち主だと言えるのではないでしょうか。

 であれば、私がコロナウイルスに感染した暁には、みごと宝くじにも当たって億万長者になり、仕事も辞められると思うのです。

 しかし、そんな日は永久に来ないでしょう。

読書

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 60年前の古書、平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳禮讃/無常といふ事/茶の本」のうち、二つ目の収録作、亀井勝一郎著「大和古寺風物誌」を帰りの通勤電車内で読み終わる。

 この全集のほんの入り口、第6巻途中まで読み進んだうちでは、私の心に一番ぴったり来る評論であったように思う。

 解説が、私などが子供の頃、「奈良の面白いお坊さん」として有名であった高田好胤氏であるというのも面白く、またなお、その解説に落涙切々たるものがあるのも面白い。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳礼讃/無常という事/茶の本」のうち、「大和古寺風物誌」から引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.149より

 空襲が激化し、朝に夕にわが都市が崩壊していった頃、奈良も所詮はこの運命を免れまいと僕は観念していた。夢殿や法隆寺や多くの古寺が、爆撃のもとにたちまち灰燼と帰す日は間近いと思われた。戦いの終わった後、その廃墟に立ち、わずかに残った礎の上にいかなる涙を注ぐであろうか。そういう日に、何に拠って悲しみに堪えようか。自分の悲歌の調べを予想し、心の中であれこれと思いめぐらしてさえいたのであった。国宝級の仏像の疎開は久しい以前から識者の間に要望されていた。東大寺や薬師寺の本尊のごとき大仏は動かしえぬにしても、救世観音や百済観音等は疎開可能であろう。しかし僕は仏像の疎開には反対を表明した。災難がふりかかってくるからといって疎開するような仏さまが古来あったろうか。災厄に殉じるのが仏ではないか。歴史はそれを証明している。仏像を単なる美術品と思いこむから疎開などという迷い言が出るのであろう。そう思ったので僕は反対したのである。

p.150より

観光地としてではなく、聖地としての再生――これこそ僕らの念願ではなかろうか。観光地として繁栄する平和の日などは軽蔑しよう。日本を世界に冠絶する美の国、信仰の国たらしめたい。そのためにはどんな峻厳な精神の訓練にも堪えねばならぬと僕は思っている。一切を失った今、これだけが僕らの希望であり、生きる道となった。そういう厳しい心と、それに伴う生々した表情を古都にみなぎらすことが大事だ。かかる再生が日本人に可能かどうか、大なる希望と深い危惧の念をもって僕はいまの祖国を眺める。

p.155より

 知性は博物館の案内者としてはじつに適任であろう。だが信仰の導者としては「無智」が必要だ。「無智にぞありたき。」と述懐した鎌倉時代の念仏宗のお坊さんの苦しみがわかるような気がする。人は聰明に、幾多の道を分別して進むことが出来る。しかし愚に、ただ一筋の道に殉じることは出来難い。冷徹な批判家たりえても、愚直な殉教者たりえぬ。そういう不幸を僕らも現代人として担っているのではなかろうか。宗教や芸術や教育について、さまざまに饒舌する自分の姿に嫌悪を感ぜざるをえない。「愚」でないことが苦痛だ。それともこんなことをいっている僕が、愚に見えるだろうか。

p.165より

私においては、日本への回帰――転身のプログラムの一つに「教養」の蓄積ということが加えられていた。己れの再生は、未知の、そして今まで顧みることのなかった古典の地で行なわれねばならなかった。古美術に関する教養は自分を救ってくれるであろうと。

 だが、はじめてみたもろもろの古仏は、「教養」を欲する乞食に見向きもしなかったということ――これは私のつねに感謝して想起するところである。美術品を鑑賞すべく出かけた私にとって、仏像は一挙にして唯仏(、、)であった。半眼にひらいた眼差しと深い微笑と、悲心の挙措は、一切を放下せよという一事のみを語っていたにすぎなかったのである。教養の蓄積というさもしい性根を、一挙にして打ち砕くような勁さをもって佇立していた。

p.186より

現代人は、思想でなく思想の罐詰を食って生きているようにみうけられる。国産の配給品もあれば、外国製のもある。急いで缶詰を食いちらしている状景は、戦前も戦後も変わらない。自分で畑を耕し、種子をまき、あらゆる風雨に堪えて、やっと収穫したというような思想に出会うことは稀だ。たとい貧しく拙劣でも、自ら額に汗してえた思想を私はほしい。そういう勤労の観念がいまどこにあるだろうか。勤労者の味方をもって自認する政党の思想が、もっとも罐詰臭いのは不思議なことである。私はそういう贅沢を好まない。

 亀井勝一郎のような筋金入りの共産主義者がこう言ってのけるのは、晩年の円熟だったのだろうか。

p.217より

 しかし信仰を、ただ外部よりの影響とのみ断じるのは不当である。まことの信仰はかならず内奥の苦悩より発する。天平仏教が単に唐文化の模倣であり、東大寺建立が国富の大浪費であるとなすのは正しい見解ではない。あの豪壮荘厳の背景ふかく、ひそかに宿るであろう天皇の信仰をまず考えないわけにゆかない。天皇の生涯を偲ぶとき、私はいっそうその感を深くする。小野老朝臣(おぬのおゆあそん)が「あをによし寧楽(なら)の都は咲く花の(にほ)ふがごとく今盛りなり」と詠じたように、天平時代はたしかに稀有の黄金時代であったろう。飛鳥白鳳を通じて交流しきたった文化の、更なる昂揚があったであろう。だがそういう開花の根底には、かならずしも天国のごとき平和が漂っていたわけではない。

一杯

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 焼味噌で一杯。

 いい天気だ。早春らしい。

梅と死

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 2月の関東は天気が崩れると大雪になることが多いが、反面、晴れると真っ青な空が広がり、淑気(しゅっき)引き締まる気分の良い日もまた、多い。

 通勤路の植栽に沈丁花がある。臙脂(えんじ)色の濃かった蕾の群れが、次第に色薄く白くなり、ちらほらと咲き出している。

 住まいの近所の庭丹精なお宅では、梅が良く咲いている。

 私の住む埼玉県越谷市は、有名な宮内庁埼玉鴨場に隣接してこれもまた有名な梅園がある。300本もの梅が毎年見事な花を咲かせ、イベントも開かれるが、今年は猖獗を極めるコロナウイルスの為に中止なのだという。

 早春の気持ち浮き立つ今時分に外出するのは楽しいものだが、感染防止のため外出は控えるべしとの政府見解が出ている。やむを得ぬこととは言いながら、どうも面白くない。

 ますます猛威を振るい始めたこの悪性肺炎ウイルス、恐らく鎮静化などしないのではあるまいか。こうなってみると(むし)ろ、はしか、風疹、水疱瘡同様、免疫獲得のため、体力のあるうちに貰いに行っておいた方がまだましかも知れない。

 なあに、死になどすまい。

 だが、仮に死んだとして、だから何であろう。病を得て死ぬことは、殺されたり奇禍に遭って死ぬことに比べると、普通の人生であると言えないだろうか。

 と言って、今回の感染で亡くなった方を悼まないなどと、そんなことを言いたいのではない。心より哀悼を申し上げたいのだ。だからこそ上記の如き述べようにもなる。

(はる)炬燵(ごたつ)

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沈思こそあらまほしけれ(はる)炬燵(ごたつ)   佐藤俊夫

#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha

今週のさえずり季題

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天皇誕生日

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天皇陛下万歳

 祝日「天皇誕生日」である。自宅玄関に国旗を掲揚し拝礼する。

 即位あそばされて初めての御誕生日である。(かしこ)し。

痴漢の撲滅

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 こんな奴、根絶やしにできないものか。

上記事から引用

警視庁のSPだった品田容疑者、2007年に高市早苗大臣のSPを務めていた当時、痴漢行為で逮捕されていた。

 前に、盗癖のある者についても感じたことがあるが、破廉恥事件を起こす者は、再び、やる。暴力をふるう者も、いずれまた、やる。

 こういう者から、安全かつ科学的に、危険な犯罪的性質を除去することはできないものか。かつての危険で非人道的な「ロボトミー」等によらずして、である。例えば遺伝子から痴漢因子、暴力因子その他を取り除き、子孫に瘰癧(るいれき)を残さぬようなことは可能なのではないだろうか。

私心と争鳴と任務と沈黙

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 誰も彼もがネットですぐに発言できる時代だ。浅ましいもので、福島の原発の時は誰も彼も核物理学者、コロナウイルスでは猫も杓子も感染症の専門家である。

 Twitterでは検疫中のクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」号に潜り込んだ研究者が叩かれている。

 そりゃあ、叩かれもするだろう。そもそもこの船は外国船舶で、本来はイギリスが法的義務と責任を持っている。しかし、何分にも今後が憂慮される事態であるから、日本の当局としては、やむなく緊急の処置をもって何とかしようと努力しているわけである。それを、あの手この手を尽くして潜り込んだわけだから、いろいろ言われるのはやむを得ない。

 岩田教授というこの研究者は、(もっと)もらしく動画で自説を訴えておられるが、当局にも当局の言い分があり、どちらにも(うべな)うべき点がある。

 この教授も変なところがある。「個人の見解だ」などとおっしゃっているが、それなら「私は神戸大学の教授で、感染症の専門家だ」などと肩書をチラつかせる必要などない。

 まあ、やむにやまれぬ使命感で、なんとか世の中の力になりたいと思っておられるのであろうことは理解できるが、それであれば、こんな騒ぎなど起こさなくても、御自分の本分を勤務先で尽くされることで、十分以上に世の為人の為になると思う。

 で、それに提灯を付ける大新聞もあって、まあ、忍び笑いも漏れようというものだ。

 それをまた、「勝手なことをしおって」みたいに、抗議しているのは政治家先生である。これがまた、政治家先生なんてものは人気商売なのに、ネットで(じか)発言なんかするものだから、変な喰い付かれ方をしている。

 誰も彼も、訳知りぶるのも結構だが、ちょっとは私心を滅却して大人(おとな)しく出来ぬものなのか。逆に、沈黙して働き、任務に殉ずることがどれほど尊いか、むしろ浮き彫りになってきているように思う。