サティ「ジムノペディ1番」

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 「雨だれ」を一段落ということにしたので、前から次女のピアノの先生に楽譜を頂いていた「ジムノペディ1番」を練習してみることにした。

ショパン・プレリュードOp.28-No.15「雨だれ」 その1.00

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 毎朝、ピアノの稽古をしている。

 今日もショパンの「雨だれ」を弾いた。とてもスムーズに弾くと言うわけにも行かず、間違いだらけである。

 だが、どうしたわけか、間違い、つっかえているにもかかわらず、「今日は、弾けた」と、思った。

 弾けたと思ったので、これを「その1.00」としたい。

 「その1.00」にしたからと言って、練習をやめてしまうわけではない。数少ないほかのレパートリー、「エリーゼ」や「ノクターン」同様、これからも楽しく練習を続けて、磨きをかけて行きたいと思う。

 1年半以上の長丁場の稽古だった。次の新しい曲に移ろうと思う。

「はだしのゲン」に関する私の考え

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 「はだしのゲン」が某地方の小学校の図書館において閉架となったことに関する紛糾が、もはや人々から忘れられ、取り上げもされなくなった。世の中なんて無責任なものだ。芸能ニュースとこの種の問題はわけが違うのだが、人々の頭の中ではアイドルも教育も一緒であるらしい。

 私の考えは、「『はだしのゲン』の閉架処置は正しい」。まことに単純だ。

 ただし、その考えにいたる筋道は、どうも人とは違う。自分と同じ考えの人をネット上でも見たことがないから、ここに記しておきたい。

 今更言うまでもないが、「はだしのゲン」問題については、

1 極端な描写の問題。「はだしのゲン」は、残忍な絵やレイプなどの描写があってよくない。戦争?戦争なんかどうでもいい。
2 戦争に関する認識の問題。「はだしのゲン」は、戦争に反対しているから、よくない。描写?描写なんかどうでもいい。

…という、まったく別の角度のことを、一緒くたにしているところにも、紛糾の根があるように思う。ここで、私の考えは、後者、「戦争に関する認識」のところに軸足があることを断っておきたい。極端な描写の問題は、別の問題だ。

 私の「『はだしのゲン」の閉架処置は正しい」という考えには、条件がついている。「はだしのゲン」を小学生が自由に読めないようにするなら、明治天皇や東郷平八郎や乃木希典、木口小平、下って佐久間艇長、加藤少佐、金光少佐、若林中尉、坂井中尉といった戦争の英雄の話や、「のらくろ」だとか「紫電改のタカ」だとかいうような、戦争がカッコよく見えるようなマンガや本もまた、小学生が自由に手にとって読むことをできなくするべきである、という条件である。

 そんなものが、前提として、これまで小学生に自由に読めたのであれば、であるが…。

 つまり、逆に、「はだしのゲン」を、小学生がいくらでも自由に手にとって読める状態にするのならば、明治天皇も東郷平八郎も乃木希典も木口小平も佐久間艇長も加藤少佐も金光少佐も若林中尉も坂井中尉も「のらくろ」も「紫電改のタカ」も、どの物語も平等に、自由に小学生が手にとって読むことができなければならない。

 それができない以上は、「はだしのゲン」もまた、戦争という観点からは自由に読んではならないのだ。

 難しいことではない。それらの本は、世の中に存在している。単に、これまで、あらゆる学校から棄却・排斥されてきたと言うだけのことだ。

 子供には、一方に偏らず、幅広く物事を俯瞰させるべきだ。

月は忌むべきものではない

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PHM24_0270 さて、毎年毎年、知ったかぶりの同じネタで恐縮だが……。 ‪

 秋の名物と言えば月である。しかし、「中秋の名月」が終わった途端、誰も月を見なくなってしまうのは残念なことだ。人々が三々五々祭りの喧騒から帰ってしまうような感じは、なんとしても惜しい。

 最近は欧米白人の言説に惑わされてか、「月の光を浴びると狂気が生じ、犯罪が多発する」なぞと言いふらす輩が増えているが、古来日本人は四季のはっきりとした日本の風土とともに独自の文化をはぐくみ、月を美しいものとして鑑賞してきたのであって、月を見たからと言っていちいち欲情したり犯罪に走っておっては身が持たぬ。

 一般ピープルは中秋の名月を見終わってサアヤレヤレ、ほなサイナラ、と月から去ってしまうが、私のような玄人(マテ(笑))は、ここからが違う。万事、「人のゆく裏に道あり花の山…」なのである。

 中秋の名月にしても、私なぞ、十五夜で大騒ぎはせぬ。まず、その前日、「十四夜」で騒ぎ始める。十四夜は「待宵(まつよい)」といい、また「小望月(こもちづき)」とも言う。翌日が十五夜であるから、これを明日に控えて待つ夜である。また「望月(もちづき)」に少し欠けているから小望月というわけだ。成長途上の若い果実がことさら愛しいように、少し満たない月の美しさもまた、愛でるべきものである。

便々(もやもや)もあらざる身過(みすぎ)小望月

佐藤俊夫

 さて、そうして十五夜を迎え、人々の喧騒が去った翌夜、また私の出番(笑)となる。

 十五夜の翌夜は、そのまんま「十六夜」と言う。これは()んで「いざよい」である。また、既に満月が終わったところから、「既望(きぼう)」とも言う。これを音読するには、「希望」とは違って、最初の「き」にアクセントを置くことが正しい。いざよいの語源は、満月よりも出が少し遅れるので、ためらうという意味の古語「いざよふ」から付いたものという。

いざよひを母は病むらむ夜は来ぬ

佐藤俊夫

 この次もまだある。中秋の名月の二日後の月を「立待月(たちまちづき)」という。名月を過ぎると月の出がだんだん遅くなってくる。月の姿も痩せ始めるが、これを惜しんで「立って月を待つ…」ことから、立待月と言う。

立待や二人隠るゝやうにして

佐藤俊夫

 これくらいかというと、まだまだ月は終わらない。その翌晩の月を「居待月(ゐまちづき)」と言う。前日の立待月よりもまだ月の出が遅く、今度は座って待つところから居待月と呼ぶそうな。

名も知らぬ(こずえ)より()て居待月

佐藤俊夫

 まだありますよ(笑)。十九夜、つまり四夜後の月、もうこうなってくるとだんだん下弦に近づいてくるのであるが、この月を「寝待月(ねまちづき)」という。立って待ち、座って待って、遂には「寝転んで」待つ、ということで寝待月となるわけだ。同じ意味で「臥待月(ふしまちづき)」、あるいは「ふせまちづき」とも言う。夜の長い感じが段々に強くなる。

寝待月一盞(いっせん)さらに加へけり

佐藤俊夫

 これで終わりかと思ったら、まだまだ引っ張りますとも、ええ。二十夜の月を「更待月(ふけまちづき)」と言う。寝て待って、まだ月が出ず、夜更けまで待って、だが、もうこの頃はかなり月が欠けているから、「ああ、お月さん、終わっちゃう(涙)」という、そういう感懐もあろうか。寂莫たる秋の夜である。単に「二十日(はつか)月」と言ってもよい。

嬰児泣く声よ更待(ふけまち)出はじむる

佐藤俊夫

 で、二十夜も過ぎると、見えるところに月が上がってくるのは、午後九時ほどにもなってしまう。こうなると、月のことを言っているにもかかわらず、月を指して言わずに「宵闇(よいやみ)」なぞと言ってみたりする。

寸鉄を()宵闇(よいやみ)幕営地(ばくえいち)

佐藤俊夫

 さて、中秋の名月に続く夜々はこんな具合だが、まだ秋の月は終わらない。なかなかシツコイ(笑)。そのひと月後、つまり旧暦九月十五日(今年は10月19日(土)にあたる)も、当然満月である。これを「(のち)の月」と言うのだが、正確な満月の十五日ではなく、その二日前、十三日の夜を後の月と呼ぶ。つまり今年は10月17日(木)がその日だ。

 豆や栗を供え、「中秋の名月」のように月見をする。中秋の名月にだけ月見をして、この十三夜に月見をしないと、「片月見」と言って縁起がよくないものだそうな。

ひかり濃くベッドタウンの十三夜

佐藤俊夫

 なんにせよ、月は美しい。カレンダーというもののない昔の、文字の読めない人たちでも、「空にカレンダーがかかっているように」、月の満ち欠けで日にちを知ることができるという実用上の意味も月には大いにあった。妖怪や犯罪、性欲なぞ言う無粋なことはこの際置いて、かぐや姫のおとぎの居所を眺めてしみじみしたいものである。

法定冷涼

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 まことに申し訳ないけれども、私は、日本と言う国が再び力を得て、人類と文明全般に対する責任と言うものを果たすためにはグローバル化などではなく、「核武装」が必要であって、100年かかるか200年かかるかわからないけれども、いつの日か欧米白人の頭上に神罰の鉄槌を炸裂させて奴ばらの非を悟らしめるためにも、原子力発電所は必要であると考えるような非道なオッサンである。

 どうか、そのことをなんとでも責めてくれたまえ。

 ただ、今日と言う今日は、そこを、百歩どころか、万歩、億歩ほど譲ろう。

 譲りに譲って、原子力発電所は、全廃しようという、そういう主義になりましょうよ、ええ、ええ。

 それであるならば、キミたち。この夏場の、電力がなんとかフクシマがどうとか、したり顔でヌカすわりには、この、冷房のための電力需要はどうしたことか。

 これは、わけもなく厚着をしているのが悪いのである。服なんか脱げ。脱いで、パンツ一丁になってしまえ。

 クールビズなどと言っているが、何を甘いことを言っているのか。

 あらゆる職場における、男の「パンツ一丁」を法制化すべきだ。

 女性は、これは、薄着にすると性犯罪が増えるし、女は冷え性と相場が決まっており、ただでさえ女性が職場に増えている昨今、冷房の温度設定が低すぎると男女間のトラブルの原因にもなっているから、オーバーでも毛布でもなんでもかぶって、暖かくして勝手にすればよろしい。ただ、オッサンは、総員、職場における全裸を許可、いや、許可などと甘ッちょろい、義務とすべきだ。

 フォーマルの場合はパンツ一丁にビーチサンダル、首にはネクタイを結ぶ。カジュアルはフリチンか、パンツ一丁だ。

 こうすることによって、体感温度は人によるとはいうものの最大5℃ほどは下がり、夏場の電力需要を著しく低下させることができるにちがいない。

 品とか見た目がどうとか、そんなのは気分の問題で、「全裸法制化」ののち、5年ほどもガマンすれば、なに、全員慣れるに決まっている。

 見た目を気にするキザな連中は「筋トレ」を始めるなどして、体脂肪が減少して健康になり、生活習慣病が激減して、健康保険問題が劇的に改善されるであろう。

 あと、夏場に湯など使うのは、罪深いことだ。男は全員、4月から11月まで風呂のかわりに「(みず)垢離(ごり)」をすべしと、エネルギー消費制限法というようなものでも作って強制すればよろしい。ぜいたくをやめさせろ。そうすると、原子力発電所の半基ぶんくらいは廃止できるのではあるまいか。ナニ、冷たい!?アンタらの言う、子孫のため、地球のためだ、ガマンせんかい。

 女性は、まあ、冷え性だから、湯でも何でも好きなだけつかえばよろしい。