図録買っておかなかったのが悔やまれる

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 3年前、六本木の新国立美術館へ「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」というのを見に行ったのだが、その時、うっかりしていて、図録を買わなかった。

 図録というのは、後になって欲しいなと思っても、なかなか手には入らない。図録はISBNのついた出版物になっていたりいなかったり、まちまちであるから、あとで見つけたとしても手垢のついた古本だったりして面白くない。

 まさか去年今年になって、ゴッホベルナールの文章を読むことになるとは思っていなかったのだ。

 読書しつつ、ちょっと図録の印象派の作品をめくってみようか、などと自分の書架を探しかけてから、あ、そうだった、アレ、買ってなかったんだっけ……などと気づく始末である。

 展覧会へ行ったなら、有無を言わせず、間髪を入れず、是非もなく、絶対に、速やかに、図録を買わねばならぬ。今度からは必ずそうしよう、と、改めて心に決める私なのであった。

 できれば展覧会へ行く前に図録を買い、一通り見てから(おもむろ)に実物を見るべきだ。そうしたほうがより鑑賞が深くなる。

 だがしかし、そうは言うものの、新型コロナウイルス感染拡大の状況下、人の寄り集まる人気展覧会がじゃんじゃん開かれるとも思えないが……。

お茶子さん

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 NHKの朝の連ドラ「おちょやん」を見るともなしに見ている。往年、「オロナイン」の琺瑯(ホーロー)看板やラジオドラマで知られた大阪の名女優、浪花千栄子氏をモデルにした、涙あり笑いありのドラマである。

 見ているうち、「お(ちゃ)()さん」というゆかしい大阪の言葉が出てきた。

 私は大阪出身ではあるが、大阪と言っても堺市の生まれ育ちで、子供の頃までしか大阪に住んでおらず、そのため、実は大阪の寄席や芝居小屋へなど一度も行ったことがない。だから「お茶子さん」という言葉は、知らない言葉ではないにもせよ、それほど親しみ深く懐かしいものでもない。しかしそんな私にすら、忘れられかけた古い大阪の情緒を思い起こさせる言葉ではある。

 「お茶子」というのは、芝居小屋で客にお茶を出したり()(たく)や片付けなど、細々(こまごま)とした用を足す女性のことだ。ドラマの主人公は大阪・道頓堀の芝居茶屋で奉公をして苦労するのだが、その仕事がこのお茶子なのである。

 見ているうち、次のようなことをふと思い出した。

「寝ずの番」(中島らも著、講談社文庫、ISBN-13:978-4062732796)p.16より引用

 落語会では、咄家と咄家の合い間に座ぶとんを裏返す女の子が登場する。ついでに(かみ)()にある演者名を墨書きした紙をめくっていく。これが「お茶子」だ。

 ところで、淡路島では女性器および性行為のことを「ちゃこ」という。

 ある日、橋鶴事務所に一人面接の女の子がきた。ブルドッグ顔で面接に出たのがうちの師匠だった。

「あの、どんな仕事をすればいいんでしょうか」

 女の子が尋ねた。橋鶴師匠は耳の穴をほじりながら、

「そうやなあ。とりあえずお茶子でもしてもろうて」

「……。私、帰らせていただきますっ」

 女の子はすっ飛んで逃げたそうだ。ちゃこが淡路島でのそういう言葉だと師匠が知ったのは、それからずいぶんたってからのことだそうだ。

 フランク永井の「夜霧に消えたチャコ」、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」が流行(はや)ったときにも、淡路島ではたいへんな騒動になったらしい。

 ……それにしてもこの件、実際に淡路島出身の人に()いて確かめてみる必要はあろう。

 実のところ、私には淡路島出身の知り合いがただ一人だけいるのだが、その人は女性なので、こんなことはとても訊けず、年来そのままとなってしまっている。

 そう言えば、中島らもも、亡くなってもう20年近く経つんだなあ……。