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万緑
万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男
万緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
これらの句の季語は「万緑」である。二つの対照的な句だが、いずれも生命力にあふれる緑を背景として、またその緑を自分の精神として、あるいは精神の前提として見据えている。
この「万緑」という言葉は、宋代の詩人、王安石の「石榴の詩」の中に出てくる一節だと言われている。
万緑叢中紅一点、動人春色不須多。
(ばんりょくそうちゅうこういってん 人を動かす 春色 多きを須(もち)いず)
春というものが人の心を動かし掴むのに、なにほどゴタゴタとした夾雑物を必要としようか、緑また緑の中に花の一輪ほどもあれば足りよう。…そんな意味だと思う。
言葉としては、この「万緑」よりもむしろ、「紅一点」のほうがかつてはよく使われた。男職場の中にいる庶務係の女性など、「紅一点」と言われたものである。「ゴレンジャー」に登場する「モモレンジャー」も「紅一点」だ。ゆかしい言葉だが、今は男女共同参画とかダイバーシティなどの方面から熾烈な反発を喰らうのを恐れてか、どうも使われなくなったようだ。
万緑という季語は、出典の漢詩を見てもわかるとおり、本当は春に属するものであった。しかし、掲出の、中村草田男の名句により夏の季語として認められ、定着した。「季語は名句によって生まれる」のである。このことの記念であろう、中村草田男の創始した俳句結社は「萬緑」で、今も存続して同名の俳句誌を発行している。
中村草田男の生命感にあふれるばかりの「万緑」に比べると、上田五千石の掲句は重く、沈鬱だ。戦時中の作と見れば、緑なす南方戦線を思い浮かべることもできるし、昭和20年の虚脱の夏を思い浮かべることもできる。万緑の中の自己の矮小さが悩ましい。しかし、句の主人公は、決してその矮小を卑下などしていない。不動の自己がそこに固着し、きっぱりと決断している。
本歌取りが許されるものならば…。
万緑や我が死は何を以て足る 佐藤俊夫
(「俺用句帖β」所載)
月の季語、秋
歳時記を読んでいたら、秋季語の「名月」の周辺にたくさん月にからむ季語がある。
- 待宵(まつよい)・小望月(こもちづき)
十五夜前後の月で、明日の名月を待つ宵という心。
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無月(むげつ)・雨月(うげつ)
曇って中秋の名月が見られぬのが無月、同じく雨なら雨月。
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三日月・新月
秋季語の三日月・新月は、仲秋の月齢3。
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十六夜(いざよい)
名月十五夜の翌日だから十六夜、日没からやや遅れて出るので、「いさよう(ためらうという意味)」月、という。
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立待月・十七夜(たちまちづき)
十五夜から1日ごとに月の出るのが遅くなるが、「立って待つほどに上ってくる」と言う意味。
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居待月(ゐまちづき)
十八日の月。前夜より30分ほど月の出が遅れるので、座って(居て)待つ、という意味。
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臥待月(ふしまちづき)
十九日の月。月の出は更に遅れ、臥しながら待つ、という意味。
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更待月(ふけまちづき)
二十日の月。夜もふけて待つ。
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宵闇
いよいよ月の出が遅くなり、夜が暗い。