美しい、とは

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 どうも、多少「釣り」臭い記事であるような気もするが。そこをなんとなくわかった上で。

 昔は「駕籠(かご)に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)を作る人」などと言った。この言葉を、私の母などは耳にタコができるほど私に吹き込んだものだが、そこには、この言葉がさしているであろう「世の中いろいろな人のいろいろな働きで成り立っており、そこに支配や圧迫、隷従などの上下関係はない」というようなことではなく、「草鞋づくりになど、どんなことがあってもなるな」というような、差別意識があった。

 母の差別意識は、戦前生まれの人であってみれば、普通の意識であって、これはやむを得まい。だが、いまどき、いわゆる賤業卑業とされるようなこと、塵芥、死体、汚物、屠畜、こういうことを「いやしむべきこと」などと考える、また、それが「勉強を怠けたから」などと、こんなことをどういう種類の、どういう人間が言うのであろうか。

 汚れ仕事というなら政治家など最も汚いし、金持ちも汚い。かつては「金持ちと蠅叩きは、たまればたまるほど汚い」と言ったものだ。一千万の年収を誇る者は一千万円分汚れ蔑まれるべきであり、2千万、1億となればそれだけ汚いのである。

 刑務所で臭い飯を食った堀江何某(なにがし)など、どれほど卑しむべき存在であるか。

 政治や経営などに携わることが、どれほど泥水を飲み下さなければならないか、誰でもわかることだ。勉強すればするほど、犯罪者に近いものになっていく。物理学の蘊奥を究めた学者は、日本の共産主義者が全力で反対する原子力発電所の推進者であって、勉強の結果犯罪者扱いされるのだということだ。頭のいい者は、汚れるのである。

 むしろ、街で、野で、田畑で、働く人たちがどれほど美しいか。戸板に飴菓子ならべて売っていようと、これが立派な堅気の衆、ということだ。

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