教師非難・学校教育批判は胸糞が悪い

投稿日:

 去る11月頃からであったか、子供の算数のテストの、ちょっとした回答に×を付けたのなんのと教師非難や学校教育批判をしているネット風説が見られるようになった。いわゆる「9.0の件」だ。

発端となったツイート

 発端は、この、一般人のツイッターへの投稿なのだが……。

 だいたい、自分の子でもない、親類の子のテスト答案だ。御本人も「姪」と明記している。

 私にも、自分の子供もいれば甥、姪もいる。甥、姪に対する責任感と自分の子への責任感の軽重など、簡単に想像もつく。また、甥、姪はいたが自分の子供はない、という時代も私は経てきているから、そういう状態でどれほど子供の教育について責任を持った発言ができるかも、おおよそ察しはつく。

 このツイートをした御本人は、その子の教育・養育に厳しい責任を負うているわけでもないのだろうと思われる。つまり、それが悪いとかどうとかいう事ではなく、このツイートそのものが、まあ、単なる「話題()き」に過ぎないのだろう、ということだ。釣り、とまでは言わない。この方の投稿自体は他意もないもので、技術者らしくチクリと話題を提供しただけ、つまり、「気楽なツイート」の範囲を少しも出るものではない。だから、この話題の発端の投稿者には、何の罪もない。もっと言えば、それを取り上げてワアワア騒ぐような要素など、何もないのだ。

 そう思いたいから、実はこの話題に触れるのも馬鹿々々しく、これについて考えることもしたくなかった。だが、こうも長い間引っ張られ、SNSのタイムラインに延々頻々(ひんぴん)と書き込まれていると、少しばかり感想を書きたくもなる。

 私は、多くの人が言っている傾向、「日本の学校教育はおかしい」「この教師はおかしい」「このテストは『○』で間違いない!!」……という傾向には、反対だ。

 指導上のルール、規範、ガイドラインというのも当然ある。だが、それだけではあるまい。一つのテストには何問も設問があって、そのテストも、一人の子が何度も受けることを考えると、年間にわたって、自然、その子供の指導上の傾向と言うものが出てきて、教員は当然これを考慮するはずだ。

 そこからして、ひょっとすると、この小学校の先生の採点には、ルールの遵守ということに加えて、何らかの事情や、指導上の流れがそこにあったのかも知れないではないか。なぜ、そう考えないのだろうか。どうして、そういう状況、教師と生徒、また保護者と言った当人たちの間でしかわからないコンテキストが全部切り外されているということに着目しないのだろうか。しかもなお、その採点をした時の、そうしたなんらかの事情や状況をよく確かめようとか斟酌しようと言うのでなしに、その部分だけ持ってきて

「日本の学校教育は全部間違っている!」

などという極端な方向へ、いい年こいた大人が気炎を上げている。変じゃないだろうか。それが、テストで×のついた、その部分だけを撮影した一般人の与太(まが)い投稿を発端にしてのことなのだ。おかしいと思わないのだろうか。

 哀れや、小学校の先生は槍玉に挙げられ、衆はまるで鬼の首でも取ったような勢いである。衆をもって個を囲み、叩く。いわばネットスクラムの状況とはこれだ。発端の一般人は「おじ」であって、その子供の保護者でも何でもなく、局外者に過ぎないのだから、小学校からのこの件に関する抗議めいた照会は届くまい。

 こんなバカな話、ネットで盛り上がっているだけなのであれば微笑ましいくらいのものだったが、それが、テレビや雑誌まで参入し、学校教育批判を繰り広げるとなると、ますます話は異様だ。どうでもいいタレントが何か少しコメントでもするというくらいならまだしも、高名な教育者や大学の教授、著名な数学者まで、知性も教養もある大の大人、斯界の権威者連が血眼になっている異様さは、これは一体、なんだ。

 その権威者たちがおかしいわけでもないだろう。実はその権威者御本人たちもこんなことを評論するのは馬鹿々々しいと思っているのだろうが、テレビや新聞に引っ張り出されれば、「世間様は多分こういう答えを期待するだろうな」という、そういう忖度(そんたく)でもって人々にウケるような見解を述べざるを得ない。権威者とて、これからもギャラ貰って生きていかなくちゃならない生活者なのだから。そう考えてくると、テレビ番組制作陣の内部に瀰漫(びまん)する、誰とも知れぬ妖怪のような反社会的空気の薄気味悪さが容易に想像される。

 だいたい、その権威者たちだって、「.0」を消して、澄まし返った答案を出すようないけ好かん「お利巧馬鹿」だったからこそ有名大学に入って威張ることができているのである。彼らは、世界に冠たる日本の学校教育システムの、いずれ劣らぬ寵児達なのだ。彼らがポピュラー受けを狙って言いそうな、「こういう学校教育の悪弊はすぐ改めろ」なんてことをすれば、それは巡り巡り、繋がり繋がって、「去年の大学入試では合とされた回答が、今年は否とされる」という時系列的な不公平を惹き起こす、ということだって考えなくてはならないだろう。すなわち、自分の今日の地位はたまたまテストで○×式に判定されて得たもので、実は過去○だったが現在は×である、したがって自分の今の権威と名声は「×」であって、テレビや新聞で高説を垂れ流すような資格なんぞ実はまったくありません、……なんてことにもなりかねないのである。

 テストの学問的な内容だけが採点されるべきだというなら、「テストに名前が書かれていなかったら0点」なんてのもおかしいということになる。答案を集める時に席に順番があるのだから、どれがどの子の答案かなんて、誰でもわかる。内容だけを採点すればよい。それでも名前は書かせる。それは、「ルール」なのである。「.0」を消すようなものだ。

 まったく、多くの(なま)の子供や父兄と日々向き合い、しかもお(カミ)の示すところも重々しっかり守って職務を遂行している現場の教員には頭が下がる。お疲れ様と労いたい。

 人々は本当に、学校の教師、警察官、公務員、ルール、政府、役所、こういうものを心底から嫌い抜いていること、また、そういうものを嫌わせようとする何らかの意図が何者かから働いていることがよくわかる。もはや、「それらをよくしよう、改善しよう」なんて気持ちは全く見られない。「お前らはアホだバカだカスだこんなこともできねえのかクズ」と言う意味のことを誠に丁寧な言葉で言い換えて(わめ)き続けているだけにしか見えない。

 不思議なのは、みずから嫌い抜いている職業に我が子を就職させようと血眼になったりすることだ。

 普通、嫌いなものからは遠ざかるものだ。なのに、寄っていくばかりではなく、それを求めたりする。マゾじゃあるまいし。「それは不況だから」などと言うのだろうけれども、ゼニカネの問題で公務員になろうなどと言うのは、「高い時に株を買う」ようなもので、馬鹿のすることだ。

 ルールや権威に頼らず、自ら考え、行動を律したいというのなら、何もルールずくめ、権威ずくめの、法治国家である日本や米国その他自由主義国でそんなことをする必要はない。アフリカの原野か、北朝鮮の悪名高い教化収容所ででも自由に生きればいい。大学の教授や高名な教育者や数学者、経営者、権威中の権威なんかを引っ張り出してくる必要はないのだ。もっと言うなら新聞やテレビ、Twitterその他SNSすら、自ら是と認めた原理こそ至上とする人には全く必要あるまい。チラシの裏にでも自分の見つけた原理を記して、それを守って生きればよい。新種の教祖にでもなれるのではないか。

 私はそうではない。部分部分に少々変なところがあっても、トータルバランスのとれた社会システムの中に身を置く。そうして生きてきたし、その「部分部分の少々変なところ」が、「全体を適正にするためにどうしても必要な皺寄せ」であるなら、それに自らがたまたま大迷惑を被っても、我慢するし、これまでも我慢してきた。それが嫌なら、山庵(さんあん)(こも)って世捨て人の暮らしでもすればよい。学校と教師と文部科学省と政府と役所と法律と行政がそんなに憎いのなら、子供も学校にやらず、犯罪人も敵もいない山中で、「アルプスの少女ハイジ」みたいに、山羊と高山植物とお経だけを相手にさせて清らかに育てればよい。……できるもんなら、だが。

「はだしのゲン」に関する私の考え

投稿日:

 「はだしのゲン」が某地方の小学校の図書館において閉架となったことに関する紛糾が、もはや人々から忘れられ、取り上げもされなくなった。世の中なんて無責任なものだ。芸能ニュースとこの種の問題はわけが違うのだが、人々の頭の中ではアイドルも教育も一緒であるらしい。

 私の考えは、「『はだしのゲン』の閉架処置は正しい」。まことに単純だ。

 ただし、その考えにいたる筋道は、どうも人とは違う。自分と同じ考えの人をネット上でも見たことがないから、ここに記しておきたい。

 今更言うまでもないが、「はだしのゲン」問題については、

1 極端な描写の問題。「はだしのゲン」は、残忍な絵やレイプなどの描写があってよくない。戦争?戦争なんかどうでもいい。
2 戦争に関する認識の問題。「はだしのゲン」は、戦争に反対しているから、よくない。描写?描写なんかどうでもいい。

…という、まったく別の角度のことを、一緒くたにしているところにも、紛糾の根があるように思う。ここで、私の考えは、後者、「戦争に関する認識」のところに軸足があることを断っておきたい。極端な描写の問題は、別の問題だ。

 私の「『はだしのゲン」の閉架処置は正しい」という考えには、条件がついている。「はだしのゲン」を小学生が自由に読めないようにするなら、明治天皇や東郷平八郎や乃木希典、木口小平、下って佐久間艇長、加藤少佐、金光少佐、若林中尉、坂井中尉といった戦争の英雄の話や、「のらくろ」だとか「紫電改のタカ」だとかいうような、戦争がカッコよく見えるようなマンガや本もまた、小学生が自由に手にとって読むことをできなくするべきである、という条件である。

 そんなものが、前提として、これまで小学生に自由に読めたのであれば、であるが…。

 つまり、逆に、「はだしのゲン」を、小学生がいくらでも自由に手にとって読める状態にするのならば、明治天皇も東郷平八郎も乃木希典も木口小平も佐久間艇長も加藤少佐も金光少佐も若林中尉も坂井中尉も「のらくろ」も「紫電改のタカ」も、どの物語も平等に、自由に小学生が手にとって読むことができなければならない。

 それができない以上は、「はだしのゲン」もまた、戦争という観点からは自由に読んではならないのだ。

 難しいことではない。それらの本は、世の中に存在している。単に、これまで、あらゆる学校から棄却・排斥されてきたと言うだけのことだ。

 子供には、一方に偏らず、幅広く物事を俯瞰させるべきだ。

下の娘の小学校入学式

投稿日:

 このブログは「自宅建築誌不定期日誌」と題してあって、そもそも自宅を新築した折のメモとして作成したホームページの延長として、自宅新築にまつわるつれづれを独り言気味に綴っていたものである。

 その自宅を新築したときには、ほんの小さなハイハイのネンネ、赤ん坊であった下の娘が、今日小学校に入学した。

 これくらいの子供を育てている世代には、仕事が忙しくてとても子供の入学式に休暇など取れないという人も多い。しかし私は、上の娘も下の娘も、どちらの入学式にも仕事を休んで出てやることが出来た。まったく僥倖というほかはない。

 下の娘は、今日のために用意してあった、腰のあたりに大きなリボンの飾り結びのあるワンピースにいそいそと着替え、珍しく少々緊張して入学式にのぞんだ。

 あいにくと今日の天気は嵐で、満開だった桜もあっという間のはかなさ、その点少々残念だったが、親子4人で揃って写真店へ行き、少々値の張る写真を撮った。それから近くの和食屋さんへ行き、ささやかにお祝いのご飯を食べた。