応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.07

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 「エリーゼのために」、連休中も毎日練習している。

 今日の出来はこんなところ。音を探し探し、楽譜を拾っている様子が実によくわかり、聞いていてイライラする(笑)。

 ともかく、引き続き徹底して反復演練あるのみである。

専門家に聞くべきこと

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 私は別段、ピアノの独学にこだわっているわけではない。成り行きでたまたまそうなっただけだ。

 独学しているのには、たいした理由はない。せいぜい、

  •  レッスンに使うお金がない。
  •  他人に追い立てられ、せかされるのがイヤ。
  •  レッスンにいく時間が自由にならない。

 ・・・こんな程度である。できることなら、優れた先生に指導してもらいたいものだと思っている。

 しかし、だからと言って「アナタはピアノのレッスンに通うべきです」と指図されたいわけでもない。

 かの億万長者、投資家のウォーレン・バフェット氏は、何かの講演で、聴衆の一人が

「株式投資を私はやったことがないのですが、これからの時代、やはり投資をやるべきでしょうか?」

と質問したのに対し、

「そのご質問は、床屋さんに行って、床屋の大将に『私は散髪したほうがいいですか』と聞くようなものです」

と答えたという。

 私はこの話が大好きだ。さすがはバフェット、世界一の投資家にして世界経済を左右すらする人。「俺に聞けばヤレというに決まってんじゃん。聞く相手間違えてるヨ」と答えて見せるのは、大家の余裕の表れとも言えようか。加えて、この答えには「経済だのなんだの言ったって、所詮俺は株屋さ」といった謙虚すら隠されているふしがある。

 私は昨日・一昨日、車を新車に替えたいなあと思い、カーディーラーを2~3軒回った。もし自分の古びた98年式のデミオを指して「どうしたもんでしょうかな?買い換えたもんしょうか?」と営業員に問えば、そりゃ、「今が買い替え時です。ぜひ買い換えるべきです。古い車は危険ですし、しかも今は50年に一度の税制優遇チャンスです」と答えるに決まっている。実際、トヨタもマツダもホンダもニッサンも、どのカーディーラーの営業員も全員そう答えた。

 ピアノの先生に「ピアノのレッスンに通うべきでしょうか?」と問えば、勿論「絶対にレッスンに通うべきです。一人で学ぶと変なクセがつきますし、進歩が止まりやすいです。そうなる前にきちんと教わり、体系的な技術・知識・精神を身につけるべきです。なにより、よりよい刺激があるでしょう。」と答えるだろう。先生ならずとも、ピアノを教わって身につけた人もそれに近いことを言うに違いない。

 専門家には「どのようにそれをすべきか」を聞くのがよく、「私はなにをしたいのでしょうか」なんてことを聞くものではない。

 私は計算機方面の技術者なのであるが、そんなわけで、最近は

「ウチのWebサーバはapacheで、3層クラサバで運用しています。phpで動的にアイコンを作りたいのですが」

というような質問には

「GDを入れるといいでしょう。大抵のLinuxディストリビューションにはデフォルトで入ってますよ。Redhat系でしたら、php-gdで探せばRPMがどこかに転がってるはずです。」

などと答えるのだが、

「コンピュータを買ったほうがいいでしょうか?人生にプラスになるような気がするのですが」

「私はエクセルを身につけたほうがいいでしょうか。仕事に有利になる気がするのですが」

などという質問には、

「買ってはいけません。今は買うべきではないし、アナタのためにもなりません。人生にはマイナスになってしまうでしょう」

と冗談めかして答えることにしている。できれば私は、あまり繁盛していなくても、腕は確かな床屋の大将でありたいから。

 そういえば、一度こんなことがあった。私は視力が良い。両眼1.5である。そのために老眼が早く来た。42歳の現在、自分の腕時計の文字を読むにも老眼鏡なしでは読めぬほどになってしまっている。

 最初に老眼の症状を覚えたのは37歳くらいの時だったので、いくらなんでも老眼には早過ぎると感じた。「ひょっとして脳や神経などの、何か重大な病気なのでは・・・?」と心配になり、近所の眼科で診てもらった。

 眼圧を測ったりだの、最新機器で視力を測ったりだの、実にいろんな検査をしてもらった。最後に先生の前に引き据えられ、戦々恐々診断を待った。私の「緑内障とかなんとか言われるのでは?」という心配をよそに、判決は

「老眼です」

と一言に尽くされてしまった。そもそも、「老眼」の『老』という漢字がよくない。そりゃあ、老眼なんて誰でもなる、病気とすら言えないようなもので、反面病気としては緑内障は恐ろしく、そんなものにはならないほうがいいわけだが、まるで「お前は老人である」と判定されてしまったような気がしたのである。心配するよりむしろ、ホノカに重大な病名を期待する、若者ぶりたい自分がそこにあったのは笑うべきことであった。

 さて、その先生は忙しくカルテになにやら書き込みながら、「で、・・・どうしましょう」と言った。

私  「・・・は。何がでしょう」

先生 「いえね、老眼鏡の処方箋なんですがね・・・。私のほうで処方しますと、そりゃあ、まあ、精度はいいですし、アナタの場合、ごく軽い乱視があるようですから、それも一緒に補正する眼鏡は作れるんですがね・・・」

私  「はあ、ではゼヒお願いしたいと思いますが?」

先生 「いや、そのう、アナタの老眼はこれからどんどん進むんですよね。はっきり言って、毎年、眼鏡を換えることになります。で、私の処方だと、2万とか4万とか、そういうお値段でしょう?でも、アナタの乱視はごく軽いし、老眼も病的なもんじゃない。医者の私が自分で言うのもアレなんですけど、100円ショップの老眼鏡をどんどん買い換えると安く済みますよ。いやほんと、不熱心な医者ですみませんが」

 私はこの先生が好きになった。人間こういう簡単なことが言えるようで、なかなか言えないものだ。日々の小さな成績に一喜一憂するガツガツした暮らしを送っていると、どうしてもこういう場面で自分の儲けを追及してしまうものなのだ。

 チナミにその眼科は患者が大勢つめかけて大変はやっている。床屋も本当にウデが良ければ、一人二人の客を断ったとしても、繁盛する可能性がなくもない。