読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第13巻「世界文学三十六講(クラブント)/文学とは何か(G.ミショー)/文学――その味わい方(A.ベネット)/世界文学をどう読むか(ヘルマン・ヘッセ)/詩をよむ若き人々のために(C.D.ルーイス)」のうち、三つ目、「文学――その味わい方 Literary taste」(A.ベネット Arnold Bennett 著・藤本良造訳)を帰りの通勤電車の中で読み終わった。

 本書は英文学入門、英古典入門と言ってよい内容で、この本に沿って多くの古典を読んでいけばよいように書かれている。本書の終わり近くに浩瀚(こうかん)な書籍リストがあり、ぜひそれらを読むように勧めている。それに従えば非常に広く深い英文学の世界を楽しめるのだろうとは思うが、今はこの世界教養全集を先に読み進めたい。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第13巻「文学――その味わい方」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.309より

数学や競技は大したもので、チェスは手ごわく、ヴァイオリンではハイドンがこなせる、というある若い数学の教授が、かつてなにかの本についてのおしゃべりを聞いたあとで、わたくしにいったことがあります。「そうだ、文学をものにしなけりゃ」と。これはいいかえれば「ぼくはうっかり文学のことを忘れかけていたが、他のことはみんなやってしまった。こんどは文学をやってやろう」ということであります。

 こうした態度、あるいはこれに似たものは間違っております。

p.321より

古典は喜びの源泉でありちょうどミツバチが花を見過ごすことができないと同じように、少数の熱情的な人々にはそれをうち捨てることができないので、存続しているのであります。かれらは正しいからというので「正しいもの」を読むのではありません。それは本末を転倒しています。かれらがそれを読むのを好むからこそ、「正しいもの」はそれのみで正しいものなのです。ですから――そしていまこそわたくしがいおうとするところにきたのですが――文学の趣味にたいする一つの重要で欠くことのできないことは、文学に激しい興味を抱くことであります。もしあなたがそれをもっていらっしゃるならば、他のことは自然についてきます。

p.330より

 ある特定の本の価値について議論をしているときに、人々がこういっていることがあります――それは文学者の前では自身の文学的見解を述べるのに臆病な人々ですが――「文学的に見ては拙いかも知れないが、ひじょうにいいところがある」とか、「おそらく、文体はかなりひどいものだろうが、じつにこの本は面白くて、示唆に富んでいる」とか、「わたしは専門家でないから、文体のよさなどはどうでもいい。問題なのは内容のよさだ。それさえよければ批評家がなんといおうとかまわない」などその他同じような意見でありますが、どれもこれも話し手の気持ちのなかには、文体とはなにか補助的なもので、内容と区別できるものといった考え方、つまり古典として残るようなものになろうとしている作家は、まず内容を見つけだして、それを纏めあげ、それからいわゆる批評家という連中のお気に召すように、文体という()(しょう)でお上品に身づくろいさせる、という観念のあることを示しています。

 これは誤解であります。文体は内容と区別することはできません。作家がある考えを思いつくとき、かれはそれを言語の形で考えます。

p.332より

 悪い文体だが内容がいい、ということはありえません。その点もっと綿密に調べてみましょう。ある人があなたにあるすばらしい考えを伝えたいとします。そしてその人は言葉の形を用います。この言葉の形がかれの文体なのです。

 ……いやもう、一刀両断、バッサリ、である。

p.373より

文学を失った世界では、ごくわずかの例外的な天分に恵まれた者は別として、すべての人々の知的、感情的活動は急速に狭い範囲のものに衰え、かつ委縮してしまうことでしょう。広範で、気高いとか、寛容といったものは、じきに姿を消し、それにつれて人生は堕落してしまうでしょう。なぜなら人を欺く思想やくだらない感情が、天才の思想や感情によって向上されるようなことはないでしょうからです。文学のない社会を考えあわせることによってのみ、文学の機能が平野を山頂の高みにたかめうることを、はっきりと理解できるのであります。

チャールズ・ラム

 著者は文学の入り口としてチャールズ・ラム Charles Lamb の「エリア随筆」に収められた一編、「幻の子ども――夢想」を熟読玩味することを勧めている。この作品から読み始めれば、それを糸口に、広大無辺、莫大な英文学の世界へ入っていける、というのだ。

 日本でも早くからあらゆる文学者に激賞されてきた作家なのだそうだ。だが、恥ずかしいことに、私は名前も作品も聞いたことがなかった。

言葉
桂冠詩人・湖畔詩人

 桂冠詩人の本来の意味はギリシア・ローマの詩人の代表格のことなのであるが、英文学に関して言うかぎり「英王室お抱え詩人」のことだそうな。なんと今でも桂冠詩人はおり、今はサイモン・アーミテージという詩人が桂冠詩人をつとめているという。

 一方、湖畔詩人は「湖水詩人」とも言い、19世紀にイギリスの北の方の「湖水地方」が「詩人ファーム」の様相を呈しており、詩人がうじゃうじゃいたのだそうで、かれらを十把ひとからげに湖畔詩人と言うもののようだ。どうも「湖畔詩人」という言葉自体には、文学への尊敬や古き良き時代への憧憬と同時に、そこはかとない揶揄のようなものも含まれているような感じがする。

下線太字は佐藤俊夫による。以下の<blockquote>タグ同じ。p.17より

その人たちのうちにはワーズワース(イギリスにおけるロマン派に一時期を画し、のちに桂冠詩人となった。一七七〇―一八五〇――訳者)、サウジイ(ワーズワースとともに湖畔詩人と呼ばれ、のちに桂冠詩人となる。一七七四―一八四三――訳者)、ハズリット、リイ・ハント(イギリスのジャーナリスト、キーツ、シェリーと交わり、詩人としても名がある。一七八四―一八五九――訳者)があります。

 次は引き続き同じく第13巻より、「世界文学をどう読むか Eine Bibliothek der Weltliteratur」(ヘルマン・ヘッセ Hermann Hesse 著・石丸静雄訳)である。

 ヘルマン・ヘッセと言えば、名作「車輪の下」の作者として知らぬ者のないドイツの大作家であるが、彼が著した文学ガイドとは、果たしてどのようなものだろうか。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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