読書

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 引き続き世界教養全集を読む。

 第27巻の二つ目、「ディズレーリの生涯 La Vie de Disraëli」(アンドレ・モロワ André Maurois 著・安藤次男訳)を、行きつけの蕎麦屋「SOBA満月」の開店前の待ち行列の先頭で読み終わった。

 いつの時代のどんな人物かも知らないまま読み始めたのだが、面白かった。

 実在の人物、初代ビーコンズフィールド伯爵にしてガーター勲章勲爵士、枢密顧問官、王立協会フェロー、ベンジャミン・ディズレーリ Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS の生涯を描いた伝記である。ディズレーリは1804年(幕末・文化元年)~1881年(明治4年)に生きたイギリスの名宰相だ。初めの首相就任はごく短期間の選挙管理内閣に終わったが、2度目に就任した時は6年にわたって大英帝国の舵取りをした。この頃のイギリスはヴィクトリア女王の治政下にあり、先立って産業革命を()、名提督ホレイショ・ネルソンによるトラファルガー沖海戦の勝利、ウェリントン公爵元帥によるワーテルローの戦いでのナポレオン軍の撃破などの歴史的程標があった。つまり、この時期がのちに「ヴィクトリア朝時代」と言われた大英帝国の絶頂期である。女王とディズレーリはほぼ同時代の人物で、ディズレーリのほうが15歳ほど年上である。

 ディズレーリはユダヤ人である。とはいえ、祖父も父も厳格なユダヤの教習慣には不熱心で、ディズレーリは子供の頃に英国教会で洗礼を受けて改宗してしまっている。祖父は作家で、ディズレーリもその才を受け継いだか、自らも文筆で名を成した。政界に打って出る頃には既に著名な小説家であった。選挙には何度か失敗したが、33歳の時、5度目の立候補で国会議員となった。この時代の英国の政治は、保守党(トゥーリー党)と自由党(ホイッグ党)の2大政党が良い意味で(しのぎ)を削る状況で、健全な立憲君主制の政党政治が行われていたと言ってよい。そうした世相にあって、ディズレーリは時には進歩的に、時には保守的に、辣腕を発揮して英国の繁栄を支え、称賛と尊敬の内に静かに世を去った。

 本書は、訳者安藤次男による書末の解説によると編訳らしく、人間ディズレーリの描出に注力すべく、英国の歴史に関する叙述はだいぶ割愛してあるらしい。しかし、その効果があってか、上述のディズレーリの人間的魅力に富んだ生涯が余すところなく記されており、特に老年以降の美しい生き方などは、英国と言う国がらがそういう老いた保守的な歴史を愛するのであればこそ、そこに見出したい美とはこういうことなのだろう、と思わせるような美しさである。ちなみに作者アンドレ・モロワは仏国人である。だからこそ、英国人には見えない英国流の美しさを掴み取って叙述できているのだと思う。

Table of Contents

気になった箇所
平凡社世界教養全集第27巻「ディズレーリの生涯」より引用。他の<blockquote>タグ同じ。
p.230より

バレイショがなければ、必然的にアイルランドは飢饉となる。アイルランドを救うべきコムギがイギリスにないのだから、コムギの関税を廃止して食物の自由な輸入をいまこそ認める以外の解決はない。しかり、港を開放し、あの巨大な関税を廃止しなければいけないのだ。党はなんというだろう? またふたたび裏切りだとわめきたてるのではなかろうか? そんなことはたいしたことではなかった。ピールは殉難に飢えていた。コブデンとブライトは彼に賛成していた。ディズレーリはひにくな演説をするだろうし、議会は一時はこれを楽しむだろう。しかし後世の目には、ピールは一党の利益を国家の利益のために犠牲としたりっぱな人として映るだろう。

p.243より

 かれらのどちらも望むところではなかったのに、二人の間にはだんだんと政治生活が決闘の姿をとってきていた。外見上は親しい友人だったし、妻たちも互いに訪問しあった。ときには、ちょっと激しい議会のやりとりの後で、グラッドストーンがメリー・アンのところに顔を見せることもあった。理論上は、二人とも保守主義者だった。グラッドストーンは定義しがたいようなニュアンスが好きで、「自由党の保守的な斜面よりは、むしろ保守党の自由主義的な斜面」に自分はいたいなどといっていた。しかしかれらの性質は互いにぶつかり合い、彼らのたどる道筋は交差した。

p.259より

 首相はしばしば抵抗した。後になって彼が女王の好感をえたわけを人に尋ねられたとき、彼はこう答えた。「私はけっして拒絶しないし、けっして反対しない。忘れてしまうことはときどきある」警句を吐く喜びのための否定である。彼はしばしば反対した。

p.261より

 選挙の結果自分が敗北したことを知ったとき、彼はまず政治界から引退しようかと考えた。その場合には爵位をもらって貴族院に名誉ある隠居をするのが習わしだった。しかし考えた結果は、敗北した党を見捨て衆議院の戦いの部署を離れることは、彼の気にいらなかった。女王が彼の忠勤に報いようとされたとき、かれは、自身はディズレーリ氏のままでいいから、メリー・アンが貴族にのぼせられるよう願った。女王がこの申出を喜んで承知されたので、彼は妻のために、バック州の小さな町ビーコンズフィールドの名を選んだ。あの偉大なバーク(エドモンド・バーク。一七二八-一七九七年。イギリスの雄弁家)がもしもっと長生きしていたら、ビーコンズフィールド卿になりたいと思ったろうことを彼は知っていたのだ。彼自身もかつて『ヴィヴィアン・グレイ』のなかでこの名前を持った貴族を創造した。彼は自分の小説を現実化するのがいつも好きだった。メリー・アンはビーコンズフィールド女子爵となったが、ディッジーはあい変わらずディッジーのままだった。

p.262より

 彼の自由自在な精神はまたしても彼を行動から創造行為へ向け、彼は小説を書き始めた。『ロテール』という作品である。

 ロテールとは若い貴族に見たてられたイギリス人で、ディズレーリ的、つまり無限の財産の相続者だったが、三人の女性で表される三つの力が、その心をえんものと競っていた。三つの力とはローマ教会、国際的革命およびイギリスの伝統である。もちろん凱歌をあげたのはイギリス教会の選手レディ・コリザンドだった。危険な主題だったが、出来ばえはみごとだった。ローマの聖職者、革命家、イギリス政治家のいろんなタイプが驚くべき正確さで描かれていた。この本の成功はたいへんなものだった。前首相作の小説がイギリス書肆から売り出されたことは、かつてないことだった。いまやどこのサロンへいっても『ロテール』の話でもちきりだった。ウマにも、船にも、子どもにも、香水にもロテールとかコリザンドという名がつけられた。ロテール熱はアメリカにまで及んだ。ただ議会だけはこれに反感を持った。保守党は、小説家で才気のある人間を、首領として持つことをたいへん恥じた。

p.300より

「若いころには何事でも重大でとり返しのつかないことのように思われる。年をとると良きにせよ悪しきにせよ、なんでもなんとか治まるのだと悟る」 あい変わらず好奇心が強く、新しく知った人々に囲まれているのが好きだった。たいへん骨をおっては若い聡明な人々を保守党に参加させた。「若くて活動的な人物を絶えず加わらせなければ政党はだめになってしまう」と彼はいうのだった。

 次は同じく第27巻の三つ目、「ジョゼフ・フーシェ ――ある政治的人間の肖像―― Joseph Fouché: Bildnis eines politischen Menschen」(シュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig著・山下肇訳)を読む。作者シュテファン・ツヴァイクについては、岩波の「マリー・アントワネット」が私の若い頃からの愛読書なので知っているが、ジョゼフ・フーシェなる人物のことは、どこの国の誰か、全然知らない。これも、予備知識ゼロの読書だ。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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