善意の知性は、屡々(しばしば)(たく)まずして人を悪へと運ぶ

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 知性は()むべき(かな)

 だが、知性を肯定する表明として私如き反知性主義者が最初にこう書いてみたところで、やっぱり知性は人をして度々(たびたび)罪人たらしめる。例えば原子爆弾の開発経緯を言えば、知性の残酷さを思って胸が千々に乱れざるを得ない。

 このところ、堀江貴文や酒鬼薔薇聖斗などと言った(まご)うかたなき犯罪人、しかもちょっとした条例違反だのの範疇ではない、よりにもよって物相飯(モッソウめし)を喰らい込んだ正真正明の刑務所(ムショ)上がりが大手を振って(もの)した出版が続出し、これがまかり通るばかりか人々が(こぞ)って買い込むという異様な騒ぎになっていることは、どうしても許容し難い。

 それをまた、誰がどう見ても知性、教養のあるはずであろう人たちが競って(もと)めている。

 私は、犯罪人の手記を出版してそれで金儲けをするような者に(くみ)する気持ちにはどうしてもなれないし、さらには犯罪人を許すことなどできないし、しない。

 良識と知性は同種のものではない。そこから、仮に悪人を理解するということが良識に属し、正しい行いとするならば、悪人とその被害者にまつわる一部始終を興味本位で覗き見るために投げ銭を施すことが、自分と異なる者、すなわち悪人を理解するための正しい行いと言えるだろうか。

 (いな)、これは野次馬根性と呼ぶべきもので、むしろ良識の立場からは遠い。これを知性の働きと言うならば、残念ながら、知性はむしろ悪人の側に属する犯罪的属性であって、これは良識の対極であると言わなければならない。良識と知性は相反するものではないと信じたいが、反面、知性は太古から人を殺してきたのだ。

 たとえ知性はなくとも良識はあると自負する人は、犯罪人の著書をうっかり買ってしまわないことだ。もし著書を買わなくても、少しばかり興味を持ってしまって、こっそりネットで検索しただけだとしても、それだけでも犯罪人どもには莫大な金が転がり込んでしまう。

 だから、一般人である我々は、そういう者に興味そのものを持たないように努めるべきだ。罪を犯して裁判でそれを認め、刑務所に放り込まれて、せいぜい10年がところ我慢してその一部始終を書き記せば、それで知性を称する野次馬どもがわんさか寄ってきて駄本が飛ぶように売れ、一生金持ち安泰などと、そのようなことが許されてよいはずはない。こんなことは被害者を愚弄しているとしか言いようがない。

 アメリカ人がこうしたことを禁ずる法律(Son of Sam law(サムの息子法))を作ったとかどうとかは、この際関係ないことだ。前例やアメリカがどうとかいう話ではない。前例などなくても、良識がこれを許すかどうかだ。アメリカが正義の基準であるかのように言い立てるのはやめてほしい。気分が悪い。

 堀江何某(なにがし)如き犯罪人への興味は、巧妙に新聞や雑誌によって紛れ込まされた文字や音声、写真、映像を読んだり見たりしてしまうことで呼び起こされる。
 
 私など、この種の記事や広告がSNS等でリコメンドやフィードされてきても、即、表示停止にしている。
 
 この種の出版は興味本位でついつい買ってしまうものだが、それは、一般大衆の行動を嘲笑うかの如くに見越した出版社の社長や営業が小(ずる)い商売をしているのだということに、いい加減気づかなければならない。こういう小狡い商人に「そんな商売をしても儲からない」ということを知らせるためには、個人個人が不買、不興味、不見聞の行動をとることだ。

 所詮こんな「売らんかな」の経営者なんてものは、数字しか見ていない。人情や愛、憐憫、涙、痛み苦しみ、そういう切れば赤い血の出る人間らしい心、数字では計ることができない魂の温かさなんて、こういう輩にはどうでもいいことなのだ。つまり、私などとは別の種、例えば宇宙人とか昆虫、電子頭脳のようなもので、数字しか見ていないような自称経営者なんてものと、心が通い合うことはありえない。犯罪人の手記を出す出版社の社長などこの類であって、私などにとっては犯罪人以上の敵である。

 こういう連中を理解しようと本を買ったり広告を見たりすることを、理性的な態度だと思っている善人は非常に多い。ところが、その一見理性に満ちた愛の態度が、奸智にたけた犯罪人や、それで金儲けを企む連中の思う壺なのである。知性のある人の理性的な善意を愚弄し、被害者を踏みにじって金に換えるのが奴らだ。言うなれば詐欺師である。

 「言論の自由」を言い立てるかもしれないが、今時、言論がしたければ莫大な金の動く出版に頼る必要はない。ほかにいくらも手段はある。それゆえ、金儲けありきの出版社が犯罪人の言論の自由を助けているという言い分は通らない。今や出版は「言論をネタに金儲けをするための老朽システム」でしかなくなって来つつある。

 つまるところ、善意を疑わぬ知性が悪を育てる。その知性に善意の自負が強ければ強いほど、それは屡々(しばしば)(たく)まずして人を悪へと運んでいく。

 私如きがたった一人で不買やアクセス拒否をしても、社会を変えることなどまったくできはしない、それはよくわかっている。だが、私はそれをやる。犯罪人や悪しき出版業者たちがそうであるように、私もまた、思ったことを許容され得る範囲で自由にしてよい、一個にして一乎(いっこ)たる、人格をもった社会人であるからだ。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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