成人の日所感

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 成人の日、祝日である。朝から我が家の玄関先には日章旗を掲げて祝意を表した。

 だが、本心を言えば、私はあまり喜ばしく思っていない。

 テレビや新聞は、どうせ今年も荒れる成人の日、などという面白くもないニュースで塗りつぶされているのだろう。見る気もしない。電気代や新聞代を自腹で払って不愉快な思いをする必要などない。

 20年以上前、自分の成人式の日、私は仕事をしていた。だから、いわゆる世間一般の人が言う「成人式」というものには出ていない。その日は朝からなぜか一日中忙しかった。職場の下の者に私と同い歳の者が何人かおり、午前中、時間になると彼らを成人式に送り出してやった。私は職場に残ってなんやかやと深夜までコマのように働いて、自分の成人式がどうとか言っている暇はなかった。深夜1時、職場のきしむベッドにもぐりこみながら「ああ、成人式だったな。日がまわっちゃった。俺、成人じゃないか、ハハ」と、ひとりごちたものだ。

 社会人として責任を果たした、自分なりの成人式だったと思う。いや、そのずっと前から、私は社会の一員としての責任を果たしていた。だから、既に成人だったのだと思う。何ぞ我を他人が祝うことやある、と言うぐらいの内心を私は抱いていたようにも思う。

 親の金で高校や大学を出てぬるく生きている者には、成人の日における私の行動など、知能の低い者が自業自得によって仕方なくとった愚かさの代償に見えることだろう。2ちゃんねる流の言い回しなら「ドキュソ」である。「そうなる前になんで勉強して大学出るなりしないわけ?バカじゃねぇの?」とでも言い捨てることだろう。

 自分のことや当時のことをわかってもらおうと他人に説明する気など私にはない。親兄弟、妻や子供にすらわかってもらおうと思わない。理解などできまい。こんな話をすれば、「大げさだ、ウソだ」と言う。言わば言え、なんとでも。哀れまれたいと思っているわけではさらにない。

 自分のことをどうこうではない。ただ私は、高等教育を受ける機会を与えられておきながら、モラトリアムだのニートだのフリーターだのと称して怠け、寧日をむさぼっているスネ齧りの馬鹿者たちを腹の底から軽蔑し抜いているだけだ。

 手放しで誉められ、甘やかされてきた若者たちは、祝福されるにふさわしい人間となれるよう、自分たちを責め抜き、鍛え上げ、懺悔しなければならない。そうしなければ、今日という日は永久に、誰からも本当の本心からは祝ってもらえない、ゴミか痰唾のような蔑まれるべき成人式のままである。

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