「ロング・グッドバイ」、ところで

投稿日:

 昨日の帰りの電車の中で読了した「ロング・グッドバイ」、村上春樹訳の「長いお別れ」だ。

ロング・グッドバイ ロング・グッドバイ
価格:¥ 2,000(税込)
発売日:2007-03-08

 19歳か20歳代ぐらいにかけて、ハヤカワミステリの清水俊二訳でこの本を読んだものだ。当時は当時で夢中になったものだが、今の私は43歳。改めて読むと、また違う印象だ。

 ところで、20年以上前に読んだ頃は気にならなかったのだろうか、覚えていなかったのだが、今回村上春樹訳を読んで改めて印象に残ったことがある。この本を書いた頃、筆が闊達であったらしいチャンドラーは、筆に勢いでもあって滑るのか、登場人物にしょっちゅうこんなことを言わせるのだ。

「我々はデモクラシーと呼ばれる政体の中に生きている。国民の多数意見によって社会は運営されている。そのとおりに動けば理想的なシステムだ。ただし投票をするのは国民だが、候補者を選ぶのは政党組織であり、政党組織が力を発揮するためには、多額の金を使わなくてはならない。誰かが彼らに軍資金を与える必要がある。そしてその誰かは――個人かもしれないし、金融グループかもしれないし、労働組合かもしれないし、なんだっていいのだが――見返りに気遣いを求める。私のような人間が求めるのは、プライバシーだ。人に邪魔されずに静謐のうちに暮らすことだ。私は新聞社をいくつか持っているが、個人的には新聞など好きではない。新聞がやっているのは、人がやっとこ手にしているプライバシーに絶え間なく脅威を与えることだ。連中は何かといえば報道の自由を標傍するが、その自由とはごく少数の高尚な例外をべつにすれば、醜聞や犯罪やセックスや、薄っぺらな扇情記事や憎悪やあてこすりや、あるいは政治や経済がらみのプロパガンダを世間にばらまくための自由に過ぎない。新聞というのは、広告収入を得るためのただの入れ物商売なのだ。広告収入は部数によって決定されるし、部数が何によって決まるかは知っての通りだ。」

大金持ちの有力者、ハーラン・ポッター

「まとまった額になると、金は一人歩きを始める。自らの良心さえ持つようになる。金の力を制御するのは大変にむずかしくなる。人は昔からいつも金で動かされる動物だった。人口の増加や、巨額の戦費や、日増しに重く厳しくなっていく徴税――そういうもののおかげで人はますます金で左右されるようになっていった。世間の平均的な人間は疲弊し、怯えている。そして疲弊し怯えた人間には、理想を抱く余裕などない。家族のために食糧を手に入れることで手一杯だ。この時代になって、社会のモラルも個人のモラルも恐ろしいばかりに地に落ちてしまった。内容のない生活を送る人間たちに、内容を求めるのは無理な相談だ。大衆向けに生産されるものには高い品質など見あたらない。誰が長持ちするものを欲しがるだろう?人はただスタイルを交換していくだけだ。ものはどんどん流行遅れになっていくと人為的に思いこませ、新しい製品を買わせるインチキ商売が横行している。大量生産の製品についていえば、今年買ったものが古くさく感じられなかったら、来年には商品がさっばり売れなくなってしまうのだ。我々は世界中でもっとも美しいキッチンを手にしているし、もっとも輝かしいバスルームを手にしている。しかしそのような見事に光り輝くキッチンで、平均的なアメリカの主婦は、まともな料理ひとつ作れやせんのだ。見事に光り輝くバスルームは腋臭止めや、下剤や、睡眠薬や、詐欺師まがいの連中が作り出す化粧品という名のまがいものの置き場に成り果てている。我々は最高級の容器を作り上げたんだよ、ミスタ・マーロウ。しかしその中身はほとんどががらくただ」

同じく、ハーラン・ポッター

「きれい事だけで一億ドルが作れるもんか」とオールズは言った。「一番てっぺんにいる人間は、自分の手は汚れてないと思っているかもしれん。しかし途中のどこかでいろんな人間が踏みつけにされてきたんだ。小さな商売をしている連中は足下の梯子をはずされて、二束三文で店を手放さなくちゃならない。真面目に働いている人々が職を奪われる。株価は操作され、代理委任状が宝玉品みたいに金でやりとりされる。多くの人々にとって必要だが、金持ちにとっては都合の悪い法律の成立を妨げるために利権屋や弁護士が雇われ、十万ドルの報酬を受け取る。そんな法案が通ったら金持ちの取り分が減っちまうからさ。でかい金はすなわちでかい権力であり、でかい権力は必ず濫用される。それがシステムというものだ。そのシステムは今ある選択肢の中では、いちばんましなものなのかもしれない。しかしそれでも石鹸の広告のようにしみひとつないとはいかない」
「アカみたいな話し方をするじゃないか」と私は言った。ただからかっただけだ。
「言ってろよ」と彼は鼻で笑った。「今のところまだ思想調査にかけられちゃいないぜ。」

老練な正義漢の刑事、バーニー・オールズ

「おれは博突打ちが嫌いだ」と彼は荒っぼい声で言った。「麻薬の密売人に負けず劣らず、あいつらのことが嫌いだ。あいつらは麻薬と同じで、人間の病癖につけこんで商売をしているんだ。リノやヴェガスにあるカジノが罪のないお遊びのために作られていると思うか?冗談じゃない。そういう場所は小口の金を使う庶民を食い物にしているんだ。濡れ手に粟を夢見るカモ、給料袋をポケットに入れてやってきて、一週間ぶんの生活費をすってしまう若者。そんな連中をな。金持ちの賭博客は四万ドルをすってもへらへら笑っていられるし、もっと金をつかいに戻ってくる。しかし金持ちの賭博客だけで商売が成り立っているわけじゃないんだ。やくざの稼ぎの大半は十セント硬貨や、二十五セント硬貨や、五十セント硬貨で成り立っている。一ドル札や、ときには5ドル札がたまに混じるかもしれんがな。あいつらの稼ぎは、まるで洗面所の蛇口から水が出てくるみたいに、休むことなく流れ込み、いつまでも止まることはないんだ。博突を商売にしている連中を、誰かが叩きのめそうとしているとき、おれはいつだってそっちの味方につくね。喜んで。そして州政府が博突打ちからあがりの一部を取って、それを税金と称するとき、連中は結局のところやくざたちが商売を続ける手助けをしているんだよ。床屋や美容院の女の子たちが二ドルをふんだくられる。その金がシンジケートに流れる。そいつがやつらの実質的な儲けになるんだ。人々は正直な警察を求めている。そうだろう? しかし何のために? 特権階級のお偉いさんを保護するためにか? この州には認可を受けた競馬場があって、年中競馬が開催されている。それは公正に運営されていて、州はそのあがりをとっている。しかし競馬場で動く金の五十倍の金が、もぐりの馬券屋を通して動いているんだ。 一日に八つか九つのレースがあるが、その半分くらいは誰も目にとめないような小さなレースで、誰かがひとこと声をかければ簡単に八百長が組める。騎手がレースに勝とうとすれば方法はたったひとつしかないが、勝つまいと思えば方法は二十くらいある。レース・トラックでは八本めのポールごとに監視員が立って目をこらしている。しかし心得のある騎手にかかったら、監視員なんて手も足も出ないさ。なんのことはない、そういうのが公認ギャンブルなんだよ。公明正大に運営されて州の承認を受けている。名目的には文句のつけようがない。しかしおれには納得しかねるね。どこが公明正大だ? どんなに体裁を繕ったって所詮は賭博だし、賭博はやくざを肥え太らせるんだ。害毒を流さない博突なんぞどこの世界にもない」
「気持ちはおさまったか?」と私は傷口にヨードチンキを塗りながら尋ねた。
「おれは年をくってくたびれた、ぼんこつの警官なんだ。気持ちなんておさまるもんか」

同じく、バーニー・オールズ

 チャンドラーは小説の中に突然こんな不満と言うか、愚痴みたいなことをもぐりこませて、いったい何に怒っていたんだろう。言うまでもなく「ロング・グッドバイ」はハードボイルド小説だから、社会への批判やメッセージなどとは無縁のものだ。だが、チャンドラーはこういった文章を挟み込まずにはいられなかったのだろう。

 この本は1953年というから、日本で言えば昭和28年、戦後間もない頃の小説だ。今の日本の社会への批判としてそのまま読んでもおかしくないくらいで、さすが先進国アメリカだな、と思うと同時に、作家チャンドラーの鬱屈が登場人物を借りてほとばしり出ている感じで、なかなか読ませる。

 チナミに、この引用箇所は小説の筋書きにはほとんど何の関係もない。喋っている登場人物を主人公が憎めなく思っているという設定を際立たせる効果はある。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください