歳時漫筆

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 三夏(さんか)九十日、という。今年の立夏は5月6日だったが、8月8日の「立秋」までの約90日を三夏というのである。三夏とは初夏・仲夏・晩夏の三つをいい、その一つ一つを約30日1ヶ月とするのだ。今日はそろそろ初夏も終わり、6月に入ればもう仲夏にかかろうかな、という頃おいだ。これを「四季」という。普段我々は「四季」という言葉を春夏秋冬の意味で慣用するが、詳しく述べれば上のように12の「四季」がある。

 この「四季」は、それぞれ更に三つに分けられる。例えば夏なら初夏・仲夏・晩夏の三つに分けられ、4×3=12で、12に分けられる。更にこれらそれぞれを上下ふたつに分け、名前をつけたものを「二十四節気」という。これは少し語彙豊富な人なら「立春」「啓蟄」「春分」といった言葉で馴染みがある。今日は5月31日、一番近い二十四節気は5月21日の「小満(しょうまん)」である。

 更に、二十四節気を初候・二候・三候の三つに分けて名前をつけたものを「七十二候」という。ここまで来るともう、一般の人にはあまり馴染みがない。中国と日本で少し付け方が異なる。

 今日は、七十二候ではだいたい「麦秋至(ばくしゅういたる)」にあたる。

 麦は暑くなるにしたがって色づき収穫期を迎えるので、夏は麦にとっては秋である、ということで、俳句では今頃の季語として「麦の秋」「麦秋(ばくしゅう)」という言葉がよく使われる。

麦の秋さもなき雨にぬれにけり  久保田万太郎

 
 俳句の季語には、秋を春と言い、春を秋と言いかえるような、洒落た言葉が他にもある。例えば「竹の春」「竹の秋」という言葉がある。竹は春に黄色く枯れ、秋に青く葉が茂るので、他の植物とは逆に言うのである。春と言っても秋の季語、秋と言っても春の季語、というわけだ。

祗王寺は訪はで暮れけり竹の秋  鈴木真砂女

 竹の秋・麦の秋、どちらも、万物いきいきと緑に萌える初夏にあって、一抹の寂寥感が感じられる言葉で、なかなか渋い。

 これらとは真逆のものを同じ夏の季語から挙げるとすると、やはり「万緑(ばんりょく)」であろうか。

万緑の中や吾子の歯生え初むる  中村草田男

なんと言ってもこの句に尽きる。初夏の生命感、人生の歓喜に満ち溢れている。

 ただ、この「万緑」という言葉、中村草田男がこの句によって取り上げるまでは、春の季語であった。出典は漢籍で、1000年ほど前の中国の詩人、王安石の「石榴の詩」の中にこの言葉がある。

(ばん)(りょく)(そう)(ちゅう)(こう)一点(いってん) 動人(ひとをうごかすに)春色(しゅんしょくは)不須多(おおきをもちいず)

 この詩の一節自体、緑と赤のコントラストがいきいきと立ち上がって見えるような素晴らしいものだが、書いてある通りこれは春の一景なのだ。それを初夏の語として取り上げ、かつ認められたことは、まさしく「季語は名句によって生まれる」の例である。

 王安石の石榴詠は、むしろ「万緑」という言葉の出典というよりも、現代ではダイバーシティやジェンダーフリーの立場からあまり使われなくなってしまった、「紅一点」というゆかしい言葉の出典としてのほうが知られていることも忘れずに付け加えておきたい。この詩のままに捉えれば、「紅一点」は、むしろ労せず周囲をコントロールできる、たのもしい能力ということになり、良いことのように思えるが、さも差別語であるかのようになってしまったのは残念なことだ。

 さておき、中村草田男は生命の喜びをこのいきいきとした一句で謳歌したが、同じ万緑という言葉を使っても、まったく違うものもある。

万緑や死は一弾を以て足る  上田五千石

もう、こうなってしまうと、あまりの不安、自己凝視、メランコリックのために、こっちまでどうにかなってしまいそうである。私も上田五千石を勝手にリスペクトして、

万緑や我が死は何を以て足る   佐藤俊夫

……と詠んでみたことがある。

 いずれにしても、明日は月曜、新たに6月に入れば四季は「仲夏」となり、二十四節気は6月6日の「芒種(ぼうしゅ)」、七十二候は「蟷螂生(とうろうしょうず)」(かまきりが生まれること)となる。

 月曜は憂鬱で、私などとても生命力どころではないが、万緑の初夏、歓喜の盛り上がる季節はもう、こっちのメランコリーなどお構いなしに、好き勝手に流れていくのである。

旧暦問わず語り

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 節分も立春も過ぎた。歳時記のカバーを掛け換え、角川文庫版の「春」の巻を鞄に入れる。

 さて、次は正月だ。

 ……などと書くと、「ハァ!?正月?アホかお前は」なぞと言われそうだが、今私が触れようとした正月は「本物のほうの正月」、すなわち旧正月のことである。

 今年の旧正月は2月19日の木曜日だ。大晦日はその前日で2月18日。

「へえ!。じゃ、昔の節分とか立春は、もっと先なの?」

……それが、違うんですよ。節分や立春は、たとえ旧暦に直しても全く動かず、昨日、一昨日(今年の場合で2月3日・4日、旧暦十二月十五日・十六日)なんですよ。

「それだったら、昔は年の暮れに節分や立春があったの?」

 ええ、たまに、ね。というか、年によっていろいろと……。

「そんなのおかしいじゃん」

 ええ、おかしいですよ。

「変なの。旧暦とか馬鹿みたい。めんどくさい、アンタだけ勝手にやってれば。旧暦とか言ってるから江戸幕府は倒れたんだし、戦争にも負けたんだし、グローバルなんだし、国際競争に負ける原因なんだし、日本語みたいな非合理な言葉なんか全部やめて英語で会議しようよ(ry」

 ええい、やかましいわこの似非日本人めが!!ゆかしい古来の習慣を全否定しおってからに、貴様らのような輩がいるから日本はダメになるのだ!!消えてしまえ!

……し、しまった興奮してしまった。落ち着け佐藤。いや、消えてしまえなぞという前言はたった1秒で撤回しますですごめんなさいw。

 昔の人は、日にちを月の満ち欠けで知っていた。「なんで最初から太陽にしなかったんだよ」と思う方は、自分が文字も知らず、カレンダーも何もない僻村で農業をしている民衆だと想像しよう。日にちの二三日のずれはともかく、だいたい今日がいつ頃か、ということを知るのに、空を見上げるとおあつらえ向きに毎日形が変わる月がある。月の満ち欠けは日々変わるから、空にカレンダーがかかっているようなものなのであり、人々にとってはこのほうが便利だったのである。太陽の高さは日々少しづつしか変わらないから、精密な測定具でも作れるならともかく、太陽で日にちを知ることは民衆には不便なのだ。

 だがしかし、月の満ち欠けは地球の公転周期とは一致しないから、少しずつずれていってしまう。民衆が日にちを知って何をしたいかと言うと「田植えをいつしようか」「種をいつまこうか」ということだ。これが大きくずれると、農作物の収入に影響が及ぶ。

 そこで、月の満ち欠けで知る暦のほかに、これを補助するために太陽高度をもとにした基準も設けることとなった。節分や立春、雨水・啓蟄・彼岸と言った「二十四節季及び雑節」と言われるものがそれだ。これは中国から輸入した考え方をもとに日本風のアレンジを施したものだ。その定め方は日本でも千年以上前からほとんど変わらないので、今も昔も同じである。また、月の満ち欠けと地球公転周期のズレについては、月の満ち欠けをもとにした暦のほうに「うるう月」を設けて定期的にそのずれを補正した。去年の旧九月が九月と閏九月の2回あり、「後の月」の月見が2回できたことをご記憶の方も多いと思う。

 ただ、これを求めることは無知蒙昧な一般民衆にはむずかしい。そこで、そういうことは、「陰陽寮(おんみょうりょう)」という役所で陰陽師(おんみょうじ)が計算して求め、発表していた。実はこの陰陽寮、遠く飛鳥時代から、なんと明治初年頃まで朝廷にあり、もっとも永続した役所の一つであった。

 陰陽師はそういうれっきとした天文学者集団だったのだが、太陽高度や月の満ち欠けを関連させる計算は昔の人にはチンプンカンプンの難しい作業だから、一般の人が陰陽師のすることを見るとまるで怪しげな魔術か何かに見えたであろうことは想像に難くない。そういうところから陰陽師にまつわるさまざまな怪奇伝説や超能力伝説が生まれたのではないかと私は思っている。

 月食がいつくるかなどということは陰陽師には計算で分かっているわけだが、それをあたかも「見よ!これから私が月を隠してくれる!どりゃああ!」と言って九字を切って印を結んで祈祷したら月が欠けだした、なぞという子供だましなど、いたずらでやって見せたかも知れない。何も知らない庶民はさぞかしびっくりして、「安倍の清明(せいめい)様は超能力者じゃああ」と驚いてひれ伏したことだろう。

 さておき、このように、旧暦と二十四節季は昔から併存しており、かつ、一致しないことは上のとおりだ。では、立春や節分のあとに正月が来る件は、昔の人はどうしていたのだろう。

 これが、「どうもしていない」のである。皆さんも年賀状に「謹んで新春のお慶びを申し上げます」なぞと書くでしょう。私なんか子供の頃、「なんでこのクソ寒いさなかに『新春』なんだよバカじゃねぇのか」なぞと思ったものだが、これは旧暦・旧正月の名残である。昔の正月はもう梅も咲こうかという頃おい、立春の前後の新月の日だったわけだから、実際に早春なのであった。そして、年によっては今年のように立春の後に正月が来るのだ。(ちなみに、去年の旧正月は新1月31日で、節分と立春は今年と同じ2月3日と4日だから、正月の後に立春になっている。)

 豆まきを暮れにやるかどうか、というのは、これは地方にもよるものの、江戸時代以前には古式ばった追儺式も含め、ほぼ歳末ごろの行事と位置づけられていたようだ。

 なんにせよ、今日は旧暦十二月十七日で、月は望から少し欠けたところだ。下弦の半月はちょうど来週の木曜、そこから毎夜、空を見上げておればやがて月が完全に欠けきる。そうして真っ暗になったらそれが(ついたち・さく)で、旧正月だ。

春の変わった季語

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 私の愛用の歳時記は角川のものだ。他に平凡社のものも30年近く使っていたが、落丁があり、買ったときに気づかず惜しかった。

 角川の方はスタンダードで編集にも癖がなく、この歳時記から選んだ季語であれば、俳人の先生方やマニアなどから文句が出るというような面倒臭いこともほとんどないから、選んでおいて間違いがない。

 角川の歳時記は、各季合本になったものと、角川ソフィア文庫から出ている分冊のものがあり、内容的にはどちらも同じものだ。文庫の方は持ち歩きに便利なのと、多少、合本にない「おまけ」がついていて楽しいということがある。私は随時鞄に入れておいて持ち歩く分には、文庫の方を利用している。

 さておき、春の季語も味わい深い。上記角川歳時記にはモノに関する変わった季語が少し載せられている。面白いから、いくつか抜き書きしてみたい。ほとんどが玩具や遊びに関するものだ。

● 凧

 紙鳶(しえん)、いかのぼり、字凧、絵凧、奴凧、切凧、懸凧(かがりだこ)、はた…と傍題にある。

 私などが子供の頃は、凧揚げは正月明けの遊びだったので、「へえ、これが春の季語なの?」とも思える。

 別の本で読んだのだが、現代の凧はもともとは「いかのぼり」と言っていたらしい。ところが、江戸時代に、江戸っ子たちが「へっ、上方者はこれだからシャラクセェ、江戸ではなんでも逆にいくんでぇ、イカのことはタコって言うんでえ、てやんでぇ、べらぼうめ」…と言ったかどうかは定かではないが、洒落のめしていかのぼりを「タコ」と呼ぶようになったのだと言う。

● 風船

 紙風船、ゴム風船、風船売り…と傍題にある。

 以前、クリスマス時期に子供たちをつれてディズニーランドに遊びに行った折、冬麗らかな青空にミッキーマウスの風船が持ち主の手を離れてふらふらと飛んでいくのを詠んだことがあるが、これは冬麗を季語に据えたのに風船をも詠み込んでしまい、後で春の季語だと気づいて、季節違いの二季語が残念だった。

● 風車

 傍題に「風車売り」。これも「へえ、これが春?」と誰もが言うだろう。三好達治の名句に 街角の風を売るなり風車 …というのがある。

● 石鹸玉(しゃぼんだま)

 「江戸時代には無患子(むくろじ)の実を煎じた液を用いた」とあり、石鹸がない頃も楽しまれていたことがわかる。たしかに春の雰囲気をまとうが、夏でも秋でも子供たちはシャボン玉で遊んではいる。

● 鞦韆

 予備知識なしで、あるいはまた、俳句に詳しい人以外で、この言葉の訓み方と意味を知っているという人を私は聞いたことがない。

 これは「しゅうせん」で、ぶらんこのことなのである。 鞦韆と書いて「ぶらんこ」と()ませてもかまわない。

 傍題には他に秋千、ぶらんこ、ふららこ、ふらんど、ゆさはり、半仙戯、とも載っている。

 「なんで、春?」とこれも不思議だが、どうも中国の習慣や行事がもとになっているらしい。