日が長い。今19時前、まだ明るい。今日は梅雨明け前だが、もうまる一日の烈日で、この
えーっと、「暮れ泥む」は、夏の季語だっけどうだっけ、と歳時記を繰り直して、角川の歳時記には載っていないと確かめる。
「くれドロむ」ではない。これで「くれなずむ」と
武田鉄矢が名曲「贈る言葉」で「♪暮れなずむ街の……」と良い言葉を選んだが、どうも話し言葉にはなじまない単語なので、「暮れなずむ」という言葉を「夕暮れてゆく……」という程度の意味に捉えている向きも多い。
だが、「なずむ」は「泥む」と書き、これは、「歩き泥む」と書けば即座にその意味に合点がいくとおり、遅々として進みにくい様子のことである。足に泥がまつわりついて進みにくいわけだ。
さすがは武田鉄矢、アーティストである。言葉をおろそかにしない。「遅日」とか「暮れかぬる」といえば春の季語であるから、当然、日がなかなか落ちにくくなったことが実感される春の日々、卒業シーズンともなれば「暮れ泥む」のである。その光と影の中、言葉をあなたに贈った、そういう詩である。すばらしい。「卒業」という言葉をただのひとつも使わずに卒業の春を表現したのである。
私などのあまり知性のない季節感で言うと、実際に「なかなか日が暮れないなァ……」と思うのは、今日、今のような、夏至前後、夏のことだ。
夏の日の落ちにくさは、そこをそのままに言い当てても当たり前すぎて詩にはならない。だから、そのままの季語としては歳時記には載らない。
さはさりながら、日が長く、暑いことは確かだ。これがどう扱われているかというと、「夜が短い」として季語になっているわけである。つまり、日が落ちにくいことの「ウラ」が詩になる、というわけだ。「短夜」の傍題には「明け易し」「明け早し」「明け急ぐ」などがあり、語感として熱帯夜などとも隣り合い、かつ、もっと間接的に奥ゆかしく表している。
竹下しづの
短夜や乳ぜり泣く児を
須可捨焉乎
……という一句がある。この「須可捨焉乎」というところ、漢文で訓み下せば「焉」は強意の終止形で訓まず、「
デリカシーと言語感覚のない向きはこれを読んでムキになって、「児童虐待だ」なぞと叫びだしそうだが、勿論そんな児童虐待の句ではない。簡単な句ではないのだ。手っ取り早く言えば反語で、「ああもう、こんな子、捨てちゃおうか、……違う、違う違う、そんなはずないじゃない、ああ私の赤ちゃん……!」といった読解がわかりやすいところだが、実はそれも人生を一面でしか見ていない、通り一辺の読解に過ぎないことは、何度もこの句を味わうと腑に沁みるようになる。
なんにせよ、夏の日がながいことは、悩ましく愛憎、メランコリーと繋がるものだと思う。
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