写実だけがリアルではないと改めて認める

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 最近の私の読書傾向からすると、まるで写実に異を唱える印象派のような表題になってしまっているが、そうではない。ゲームとか、映像の話である。

 さて。

 長女(大人)や次女(大学生)は家でよくゲームを楽しんでいる。任天堂の「Wii」だ。

 「スプラトゥーン」や、いわゆる「あつ森」もしょっちゅうプレイしているようだが、「カップヘッド Cuphead」というのをプレイしているのもよく見かける。

 初老のオッサンで、それでなくてもウイスキーで脳が溶けつつある私である。()(じょう)どもからコントローラを奪い取ってプレイしてみようというような気は、いくらなんでも起きない。見るともなしに横から(のぞ)き込むだけだ。しかし、そうして画面を覗きこんでいるうち、Cuphead のゲーム・デザインに、感じ()るところ実に大となってきた。

 Cuphead は、カップやマグの形の主人公たちが冒険する2Dアクションゲームで、昭和初期(1930)頃のアメリカのスラップスティック・アニメーションの世界観が中心に据えられている。映像はカラーではあるが、ところどころセピア色のモノクロで、カラーのところもポスタリゼーションを施して彩色バリエーションや彩度を下げたようなレトロな感じにしてあり、何よりも常時縦方向にリアルなフィルムノイズが入る。音声は非電気蓄音機で音楽を聴くような帯域制限がわざとかけられて(ひず)んでいる。S/N比をあえて小さくしてあって、加えてところどころアナログレコードのようなスクラッチ・ノイズが混じり、まるで本物の昔のアニメーションを見ているようだ。そして、それがプレイヤーの操作で動かせるのである。プレイヤーはレトロ・アメリカのアニメの主人公のような気分になってゲームに没入できるわけだ。

 私などが感じるところ、ゲームには、「ファイナル・ファンタジー」シリーズの映像のように、写実的リアルを追求する方向が一つあり、それは行きつけるところまでは既に行きついている。その一方で、この「Cuphead」のように、写実的ではないリアルを追求し、そこに()りまくった工夫を(ほどこ)す方向もあるのだ。

 もう15~16年も前のことだと思うが、イタリアの鬼才、マルコ・スピトーニ Marco Spitoni 氏の名作「C.O.D.E Guardian」の冒頭の凝った描写に、これは、と思ったことがあった。ナチス・ドイツのプロパガンダ映像であればこうであったろうというようなリアルな仕上がりになっている。ああいうリアリティの方向もあるということを、この「Cuphead」を見ていて思い出した。

 私としては、戦前~戦後にかけての「日本ニュース」のような表現になった戦闘ゲームなどがあれば、やってみたいと思う。陸戦であったり海戦であったり空戦であったり、あの不鮮明なノイズと音声でその世界の中の人になれたら、きっと面白いに違いない。

 誰か開発してください。

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