阪神大震災から20年が既に過ぎた。私は当時まだ30歳になる前で、若輩であった反面、中学校を卒業してすぐに自衛隊に入り、ほどなく幹部自衛官になったこともあって、「妙に若いくせに叩き上げ」の現地部隊の小隊長であったから、数十人の部下を率い、一意専心救助にあたった。
救助活動の最中にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こり、多くの人が不安を覚えたものだ。
初夏、麻原彰晃が逮捕された日。神戸から引き上げてきていた私は、その頃六本木にあった防衛庁庁舎の警備の任務にあたっていた。
都内の厳戒態勢の様子を思い出すと、一緒にその警備任務の苦しさが身ぬちに蘇る気がする。
本当にその頃と今と、ほんのひと瞬き、 須臾の間しか隔てていないように感じられる。
しかし、いくら生々しい記憶と言っても、「所詮は……」災害とか犯罪の記憶だ。戦地や戦争の記憶ではない。
私は昭和41年の生まれだから、戦争のあと、20年と少し経って生まれたことになる。私には20年経ってもあの阪神大震災がついこの間のことだと思えることからしてみれば、私が生まれた当時の大人たちにとって、「戦争などついこの前のこと」だったであろうことを感覚的に理解するのは容易だ。
たしかに、叔父や叔母、近所の人と父母が茶飲み話をするとき、聞くともなしに側耳を立てていると、空襲や防空壕の話とまじえつつ、「そういうたら、××おじさんが亡くなりはったの、戦時中やったかいな」「あの時分の疎開先の同級生で○○ちゃん言うのがおって、……」「兄さんが海軍から休暇で家に帰ってきてた時に……」「あれはたしか、姉さんが機銃掃射で撃たれたあとの話やで」などと、やたらと召集令状だの戦時中だの戦前だの疎開だの空襲だの応召だの海軍だの行軍だの軍事教練がどうしたの、焼跡、闇市、ギブミーチョコレイト、復員、そんな言葉が会話に混入されていたものだ。
父母の世代は敗戦によって画然と戦前・戦後に時間の流れが分断されたが、私は一貫した時間の中を生きている。
このように思いを巡らしてみると、若い頃理解できなかったことも、次第次第にわかりかけてくる。大人たちはどうしてあんなにも極端な平和主義や、極端な反戦主義の渦中にあったのか、また、どうしてあんなにも社会主義的であったのかも、わかる。大人たちにとっては、結局昭和40年代なんて、もはや戦後ではないなどと口先では言いながら、心の中では終戦直後に過ぎなかったわけだ。
最近はネットのせいか極端な主張の人が増えたが、私達日本人はあんまり行動力というのはない。ネットの自称愛国者はキツい言葉で中国朝鮮なにするものぞ、撃ちてしやまむなどと吠えるくらいしか能がない。自ら兵となって有事に備えようなどと言う者は九割九分おらず、要するに派手な主張はしても自分が苦労し傷つくのは
兵を出そうというような覚悟や根性は、ネットの右翼は勿論、日本人全体にしたって、政治家も含めて、そんなものはないのである。だがしかし、そうはいうものの、右翼や保守論者が目立ち始めたことに作用しているのは、あの頃からの、大集団の気持ちの揺りもどしということはやっぱり否めない。
この大きな気持ちの揺れの中を、あまりブレずに冷静に過ごすには、ちょっとしたスキルが必要なようにも思う。古臭く、流されないような、のらりくらりとした生き方がそれに近い気がするが、それだけでは満点ではない。
このエントリは、Facebookのウォールへ書いたものの転載です。