引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。第18巻、「黄河の水 中国小史」(鳥山喜一著)「史記の世界」(武田泰淳著)「敦煌物語」(松岡譲著)「長安の春」(石田幹之助著)を読みはじめた。
一つ目の「黄河の水 中国小史」(鳥山喜一著)を
前巻の「おらんだ正月――日本の科学者たち――」も少年向けに書かれたものであったが、この「黄河の水」も元々は少年向けに書かれたものだそうで、なるほど、読みやすく、面白い。大正末に出版され、戦前すでに50版を超し、戦後しばらくの間まで十数版もの改版を重ねたものだそうで、広く読まれたという。
この書は中国の歴史を、夏王朝よりも前の時代、「三皇五帝」と言われる数千年前のところから語りはじめ、一気に共産党中国まで語りつくすというものだ。テンポよく一気に数千年を経る。興味深いエピソードや教養として知っておくべき有名な話も漏らさず押さえてあり、実に面白い読書であった。
気になった箇所
他の<blockquote>タグ同じ。p.29より
始皇帝の次にはその末子の
胡 亥 というのが立って、二世皇帝となりました。この二世皇帝は、父に似もやらぬ愚かな性質で、天下を治める腕もなく、ただ自分の快楽ばかり考える人でした。皇帝は賢くなく、政をまかされた大臣等は、勝手なことをして、政をみだすということになったから、始皇帝のときには、その権力に恐れて、反抗したくも反抗のできなかった不平の民は、これを機会に方々でむほんをはじめました。その最初に事を起こしたのが陳 勝 という日 雇 人 夫 。まあニコヨンですね。かれは人夫から兵卒となり一隊の長に出世しましたが、軍規にそむいて死刑になりそうになったので、どうせ殺されるなら一つ大きなことをして見ようと、仲 間 の呉 広 と相談して、秦 政府打倒の兵を挙げたのです。それで物の最初をはじめることを「陳呉となる」という熟語もできました。陳勝につづいた中でも最も有名なのが、項 羽 と劉 邦 です。
秦についてなお一言しておきたいことは、その名が中国をいう名称として、いまに至るまで世界中に広まっているという事実なのです。皆さんは西洋で、例えばイギリスでは中国のことを、チャイナ(China)ということをご存知でしょう。これは
秦 の名から起こったのです。というわけは、中国語で秦をチン(Chin)と発音します。これがインドに伝わって、チナ(Cina, China)となり、それに国の意味のインド語がつくとチニスターン(Chinistan)となりました。それがローマに入るとシネー(Sinae)となり、これからヨーロッパ諸国の中国をいう語になるので、チャイナなどもその一つ。大体これと同じ音のものです。またインドに巡礼に来た中国の僧侶はインドのこの語を聞いて、それを本国に逆輸入すると、その音を支那・脂那または震旦などの漢字であらわしました。秦は帝国としてたった十五年で亡びましたが、その名はこういうわけでいまもなお不滅に生きているのは、おもしろいではありませんか。それからついでに申しておきますと、前にいったように中華民国の名も、中華人民共和国というのも、もとは古い中華・中国の考えから来たものですが、その国名を西洋
風 にあらわすときには、決して中華の音をローマであらわさないで、ザ・チャイニーズ・リパブリック(The Chinese Republic)とか、ザ・リパブリック・オブ・ザ・チャイニーズ・ピープル(The Republic of the Chinese People)というように、このシナの名称を使っているのです。
なお、解説を読んでみると、上の一節には著者・編集者の苦渋が見て取れる。戦前の本書の題は、「支那小史 黄河の水」だったのである。ところが、この平凡社世界教養全集に収められるにあたり、「支那」「シナ」という用語を努めて「中国」その他の用語に改めたのだという。この平凡社世界教養全集は昭和40年代の刊行であるが、その頃すでに中国を支那と呼ばないというような取り決めが、出版界では行われていたのである。
しかしそれにしても、欧米ではそんなことを全く意に介せず「支那」を語源とする China を用い、また当の中国もまったくそれに異など唱えず、ところが日本で「支那」と書いた途端怒り出すというのは、改めて言うことでもなかろうけれども、変なことである。
学者には
程顥 ・程 頤 の兄弟が、儒学に新しい説を立てましたが、それを大成したのが、朱 熹 (すなわち朱 子 )であります。朱子は多くの著書を残しましたが、その学説は次の元・明・清に影響したばかりでなく、わが国にも朝鮮にもおよびました。徳川時代などは、漢学といえばすぐこの朱子の学問の別名と思う位でした。文章の名家も多くありましたが、詩文ともにすぐれたのは欧 陽 修 や蘇東坡(名は軾〔しょく〕)です。東坡の「赤壁 の賦 」はよく知られています(この人は衛生のことにも注意し、料理法にも通じていました。その発明したというものに、おいしい東坡肉〔とうばにく〕というのがあります。中華料理でご承知の方もありましょう)。
言葉
汴京
地名であるが、この「汴」という字の読み方が難しい。これで「
しかしこの戦争の間に、宋の弱いことを見ぬいた金は、その野心
を 逞しくして、宋をも併呑 しようと、大兵を下して国都汴京を攻めおとし、徽宗とそれについだ欽宗や、皇后をはじめ、大臣以下の官吏や人民を捕虜とし、また宮中や国都の、目ぼしい財宝を掠 奪 して、北に帰りました。
次
引き続き第18巻から「史記の世界 ――司馬遷」(武田泰淳著)を読む。