読書

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 引き続き世界教養全集を読む。

 第27巻にとりかかった。まずは一つ目、リットン・ストレチー Lytton Strachey 「エリザベスとエセックス Elizabeth and Essex」を、近所のパスタチェーン店「ジョリーパスタ」でビアンコのスプマンテを一杯やりつつ読み終わった。

 どんな内容かも知らないまま読み進んだのだが、これがけっこう面白かった。

 実在の人物、英国女王エリザベス1世と当時の大貴族エセックス伯爵の伝記だ。エセックス伯爵は平たく言えばまあ、処女王と(うた)われたエリザベス1世の彼氏である。だが、この物語の主要部分の頃、既にエリザベス1世は老婆といってよく、二人が知り合った頃でさえエリザベス一世は既に53歳で、エセックスは20歳であった。

 伝記は二人の最晩年に焦点を当てている。ひそかに()かれ合い、愛し合い、肉体をも交えた筈であろう二人の心の機微が破滅へ破滅へと揺れ動いていく。結局エセックス伯爵は反逆の(かど)、それも当時の英国の最大重罪「大逆罪」に問われ死刑になる。

 一般に、当時の英国では、大逆罪に対しては死刑の中でも最も残虐な「首吊り・内臓(えぐ)り・四つ裂き Hanged, drawn and quartered」刑という恐るべき刑罰が科された。

 初めの首吊りも「死なない程度に……」吊られ、悶絶しているところを腹を裂かれて内臓が引き出され、息のあるうちに性器を切り取られて眼前に見せつけられた挙句それは目の前で火にくべられてしまう、その合間合間に法官や死刑執行人から「苦しいだろう? 許しを乞え、楽に死なせてやるぞ」などと耳元でささやかれ、許しなど乞おうが乞うまいが苦悶の果てに首を()ねられ、死体は牛馬に手足を四方を引かせ、四つに引き千切られてバラバラにされ、ロンドン橋の獄門場をはじめとしてイギリスの各地に(さら)されるという凄惨極まりないものだ。名作映画「ブレイブ・ハート」でスコットランドの闘士ウィリアム・ウォレスがこの刑に処せられるところを名優メル・ギブソンが熱演しており、これを見れば刑の様子がどれほどのものかがわかる。

 本作中でも、登場人物がそうした刑に処せられる描写がある。だが、エセックス伯爵はエリザベス1世の恩情により、首を刎ねられるだけで済んだ。大伯爵の名誉というものが無視できなかったのだろうし、エリザベス1世は、かつて、どころか、死刑にしてしまうまで愛人であったところの伯爵を恋うていたからである。

 そうした心の通い合いと機微が余すところなく書き留められてある。

 内容とは別に、この本は翻訳が非常によく、堅確な文章が楽しめる。特に、往古の英国流の大時代な表現だったのであろう原文の往来書翰の翻訳には、訳者の教養の面目躍如たるところが表れ、いかにも日本であればこうであったろうと思わせる候文が駆使されて翻訳されており、読んでいて楽しい。訳者片岡鉄兵は知る人ぞ知る戦前のプロレタリア小説家である。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第27巻「エリザベスとエセックス」より引用。他の<blockquote>タグ同じ。
p.49~50より

 そのような状態だから、防衛の処置としては、ただ一すじの道が役立つのみである。他のあらゆる考慮は、女王の生命を護るという最高の必要の前には無力たるべきであった。正義の判断などを云為するのはむだだった。なぜなら、正義の判断そのものが、その性質上、不正確を含蓄するからであり、そして、政府は絶対に危険を冒してはならないからだった。古来の諺は逆になった、「十人の無辜が虐げられようとも、一人の犯人を取りのがすよりは好い」嫌疑を起こすことがすなわち犯罪それ自身になったのである。犯行の証拠は審査するのではなく、拡大しなければならない――スパイによって、煽動刑事によって、拷問によってである。

p.71~72より

とはいえそこに一対の目があった――ただ一対だけ――それが瞬きもせずに、じっとこの壮観を見守っていたのである。フランシス・ベエコンの冷ややかな毒蛇の目だった。物の内的本質を透視する目だった。

p.86より

 エセックスよ、このうえわたしの愚かな寛容につけ上がるなかれ。「正気の沙汰にもあらぬ朕のお人よしが、御身を放胆ならしめざるよう……御身がいよいよ失策を重ねて我らの憐れみとならざるよう自らを警戒せん。……御身は、朕をあまりにも悩ます人なり、朕がなにをいとい、なにを命じるかをいささかも顧慮せぬゆえに」 彼もまた用心深くあらねばならぬ。「一たび奇跡を冒したる御身なれば、これを再びして、かの善き貯えをも泡と化する、季節外れの時化に遭う危険を重ぬるなかれ。このことのみぞ、いまは御身のなすべき務めなり、そはかつて御身のものたりしことなき性格を役だたしむることにて、かくて一身の安きをえば、もって事たれりとすべきのみ」 ほんの一触か二触で、彼女は相手の失敗を衝いておいて、さて 「もはや責めまじ、されど朕が思いはなおいいたらじ。朕が憂いは、ひとえに万全なる軍備の補強にありてひと時も忘れざるなり。

p.104より

「この荘園に滞留しながら、私の待望するものは、ただご命令を接受せんことのみでございます」 彼女はその返答を口授した使者を送った。「伯爵に伝えよ、朕が自らを高価と見做すこと、御自身を評価するに異ならず」 エセックスは再び手紙を書いた 「男としての告白を申し上げますれば、じつは私は、王公としてのあなたさまの権力に従順であった以上に、あなたさまの天然の美に従順でございました」そこで一度、謁見を許された。

 こういうところなど、二人して、なかなか可愛いものなのである。

p.130より

ロバアト・セシルは実際、単に受動的であり、女王の行動に従うだけの者であった。だが、受動的もまた行動の一種であろう――ときには、行動そのものよりもいっそう大きな成果を伴って見せることもある。

言葉
二六時中

 本書中では、「二六時中(しょっちゅう)」とルビをふってある。「二六時中」という言葉自体、例の西村賢太の作品でしか見たことがない。明治時代の文学などには使われていたと思うが、「しょっちゅう」という()みは初めて見た。

下線太字は佐藤俊夫による。p.39より

 もちろんそれは、あまりにもできうることだった。検事次長の椅子は十八ヵ月以上も空のままで残った。その間、エセックスはつねに力を落とさなかった。二六時中(しょっちゅう)女王を攻撃し続けた。宮内大臣パッカリングにもベエコン推挙の手紙を書き、同じ目的でロバアト・セシルにさえ書いた。

切諫

 切諫(せっかん)と読む。読んで字の如く強く諫めることである。しかし、読みも意味も簡単なのに、知らなかったなあ、こんな言葉。訳者の教養が垣間見える。

p.104より

彼はホレエスからの引用や義務の誓言などを交えた、長い切諫の手紙を書いた。

チロオヌ

 これが最初全然わからず、山賊か何かを表す英語なのかなんなのかさっぱりだったのだが、これは Tyrone という人名で、現代のカタカナ表記では「ティロン」だ。 第2代ティロン伯ヒュー・オニール(アイルランド語: Aodh Mór Ó Néill、英: Hugh O’Neill, 2nd Earl of Tyrone)というアイルランドの活動家である。

p.102より

 すべてが終わったとき、エリザベスの、その涙のまだ流れ尽きぬとき――バアリイの死から僅か十日後に――なおもう一つの不幸が彼女を襲った。サア・ヘンリイ・ベエジナルが、黒河河畔の城砦救援のため、強力な軍隊の先隊に立って進軍する途中、チロオヌに襲われた。彼の軍隊は潰滅し、彼自身、戦死した。

愬え

 「(うった)え」と()む。「訴え」と同じ意味ととらえて差し支えないが、「訴」の部首が「ごんべん」で、ちょっとうるさい感じが混じるのに比べ、この「愬」は部首が「したごころ」であることから、より心からの思いが入った感じを表すものと言ってよいのではないか。

 約5年弱前、長谷川如是閑の「日本的性格」を読んだ時にも出ていた漢字であった。すっかり忘れ、すぐには読めなかったが、そういえば前にもこの漢字出てたな、などと思い出した次第である。

p.150より

エセックスは何の愬えも発しなかった。涙の哀訴がなんの役にたつであろう。

 次は同じく第27巻の二つ目、「ディズレーリの生涯 La Vie de Disraeli」(アンドレ・モロワ André Maurois著・安藤次男訳)を読む。これも、いつの時代のいかなる人物の伝記なのか、まるっきり知らない。予備知識ゼロで読む。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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