俗に、ヤサグレ、という言葉がある。これは本来は「家出」のことで、昔の不良若者の隠語だ。この本来の意味でなら、オダサクとか野坂昭如描くところのむしろ戦後の闇市あたりの情景に、ヒンブルだのバラケツだのテンプラだのルンペンだのという死語と共に散りばめられているのが似つかわしい。
「おい、そこのセイガク。お前何してる。どこへ行く」
「……。いや、別に」
「何だ、ヤサグレかい。近頃めずらしくもねえ」
先に声をかけたバラケツは声を落とすと次郎の胸ぐらをぐいと掴み、「デケエ面すんじゃねえぞ兄ちゃんよ」と凄みのヒンブルである。
……などという昭和近代小説の一場面の会話によく
だが、最近は「やさ」とか「ぐれ」という語感からか、気分が悪くムシャクシャしたりフクれたり、正確に言えば「デカダンス」に似たような状況や、時には「アンニュイ」のような気分、なげやりでやる気のないようなことを言うのにもつかわれることが多くなったようだ。
今本来の「家出」の意味で「お前なんだ、やさぐれたのか?」などと言ってもまず通じないことは疑いない。
ちなみに、なぜ家出をヤサグレというのかというと、「やさ」とは家のこと、「ぐれ」とは不良化することを「ぐれる」というが、それを名詞的に用いたものだ。
グレかたにもいろいろあって、この「ヤサグレ」の他に、女の家に寄生する「ヒモグレ」「スケグレ」、最近では昔でいうところのバラケツや愚連隊のことをさして「半グレ」なぞというようになったようだ。
家の事を「やさ」ということには諸説あり、「家作」をつづめたもの、とか、「鞘に収まる」という場合の「鞘」を隠語的に逆にしてヤサと言ったもの、などと言われているようだ。
昔の家出は今とは違って、「公民権を放棄して棄民になる」ぐらいの捨て鉢な覚悟が必要であった。なぜかというと、家長制度がきつく、相続でも結婚で住み処を借りるにも、何をするにも戸主の許可がなければならなかったからである。家長、すなわち多くの場合は父であるが、そのそばを離れて行方不明になれば、もう、家に住むことすらできなかったわけだ。だから不良仲間の家に転がり込んだり、橋の下で寝泊まりするようなことになり、まっしぐらに転落していく。
家長に見つけ出されて連れ戻されても、もはやその怒りを解くすべとてなく、勘当を申し渡される。この勘当というのは、「お前など出ていけ!」と叱りつけるというような単純なものではなく、れっきとした法律行為で、権利の多くを制限されて通常の暮らしができなくなるような処分であった。
その点、こうした背景にあって、家出のために作る気持ちのやけっぱちさ、どうとでもなれという捨て鉢な態度が一連の行動に含まれているとすると、最近の「やさぐれ」の使い方も、あながち離れすぎてはいない。