引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。
第14巻、「新文章読本(川端康成)/日本文芸入門(西尾実)/世々の歌びと(折口信夫)/俳句読本(高浜虚子)/現代詩概観(三好達治)」のうち、五つ目、最後の「現代詩概観(三好達治著)を、朝、行きの通勤電車の中、御茶ノ水駅のあたりで読み終わった。
著者の三好達治は自身が “読書” の続きを読む
オッサンは生きている。
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。
第14巻、「新文章読本(川端康成)/日本文芸入門(西尾実)/世々の歌びと(折口信夫)/俳句読本(高浜虚子)/現代詩概観(三好達治)」のうち、五つ目、最後の「現代詩概観(三好達治著)を、朝、行きの通勤電車の中、御茶ノ水駅のあたりで読み終わった。
著者の三好達治は自身が “読書” の続きを読む
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。
第14巻、「新文章読本(川端康成)/日本文芸入門(西尾実)/世々の歌びと(折口信夫)/俳句読本(高浜虚子)/現代詩概観(三好達治)」のうち、四つ目の「俳句読本(高浜虚子著)を、帰りの通勤電車の中で読み終わった。
改めて記せば、私は “読書” の続きを読む
私はあまり乱読はしないほうで、入手した本は一冊一冊、直列に読む。
しかし、このところ、私には珍しく2冊を混交しながら読んでいる。
ひとつは最近ずっとこのブログにも書いている平凡社の「世界教養全集」全38巻で、今第14巻を読んでいる最中だ。もう一つが左リンクの「存在の耐えられない軽さ l’Insoutenable légèreté de l’être(仏) Nesnesitelná lehkost bytí(捷)」(ミラン・クンデラ Milan Kundera 著、千野栄一訳)である。
帰宅後の家で読んでいて、今日、夕食後に読み終わった。
突然、普段読まないヨーロッパの小説なぞなんで読みたくなったのかと言うと、ある尊敬
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。
第14巻、「新文章読本(川端康成)/日本文芸入門(西尾実)/世々の歌びと(折口信夫)/俳句読本(高浜虚子)/現代詩概観(三好達治)」のうち、三つ目の「世々の歌びと(折口信夫著)を、帰宅後の自宅で読み終わった。
自ら歌人として著名な釈迢空折口
今はとて影をかくさむゆふべにも 我をば送れ。山の端の月 (玉葉集巻十八、二四九三)此歌もはっきりしている。はっきりし過ぎている。ただ「影をかくさむ」と言うのが、月の事を言っているのか、自分の事を言っているのか、直接には来ない所があるが、月の縁語――かげを使っただけなのだから、身を隠すということはわかる。此が遁世することなどでなく、死ぬる事を言っていられるのだとすれば、亦もっとはっきりして来る。此以上はっきりしたら、歌の持っている空想がなくなって、この歌としての、又その頃の歌としての表現の特徴をも失うであろう。
窓近き竹の葉 すさぶ風の音に、いとど短き うたたねの夢 (新古今集、三、二五六)此歌には、恋愛の気分が這入っている。
……。いや、わからんわー、……と思った。
何れにしても、社会において、一流人として女性が認められぬ間は、其文学も、一流の水準にはのぼって来ないのである。
子規という人は、健康であったら、可なりうるさい人であったろうと思われる。
鉄幹に比べれば短命であった子規、題材の範囲の狭かった子規、彼が佳作を残すことが少かったのが当然であり、其が又、彼の価値を鉄幹より低めなかった理由である。高市黒人の作物は、十数首に過ぎないが、殆、すべて名作であり、この為に傑作の多い人麻呂に比べて、どちらが高い作家だとは定められないのと同じである。
日本短歌史とは、ある意味では、日本文学史のバックボーンともいうべき意義を持っている。本書はそのもっとも平明な、具体的な記述であって、折口学説の立論の根拠にある、解釈・鑑賞の具体的なたしかさを
読みとるべきものであろう。
「陳ぶ」と書いて「のぶ」の他に「ならぶ」とも
宮内省派の人々も、実は其をしようとしたのだが、古典の教養の乏しさから、其が一々低俗になり、又新しさも卑俗な程度にとどまり、其に附随して奏でる調子も、陳套を極めたものであった。
次は引き続き第14巻から「俳句読本」(高浜虚子著)を読む。言わずと知れた
……の、あの高浜虚子による俳句論である。
私の趣味は俳句を詠むことだが、実は、恥ずかしいことに、こうしたまとまった俳句論を読んだことがない。そのため、読むのが少し楽しみである。
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。
第14巻、「新文章読本(川端康成)/日本文芸入門(西尾実)/世々の歌びと(折口信夫)/俳句読本(高浜虚子)/現代詩概観(三好達治)」のうち、二つ目の「日本文芸入門(西尾実著)を、通勤途上の朝7時前、秋葉原駅のホーム上で読み終わった。
本書は、表題こそ「文芸」と記してあるが、内容は「国文学入門」「国文学研究の手引き」とでもいったようなものだ。わかりやすく述べてあるのだろうとは思うが、真面目な研究ガイドであるだけに、直前まで川端康成の端正で解りやすい文章を読んでいた私には、いささか難解、
さらに、近年、いちじるしい業績を日本文芸研究のうえにもたらしている民俗学は、本来において、文芸研究を目ざすものではないけれども、これまでの文芸研究が、文芸を文字に表記されたものに限定して考えていた関係上、口誦文芸の分野を全然といってよいほど研究していなかったのに対して、生活伝承の一事実として、口誦文芸をその研究対象としてとりあげ、文字表記の基底に、また、その背後にあった口誦文芸の研究に着手したことは、文芸研究における新分野の開拓として、その功績は大である。わけても、音盤やラジオの発達・普及が、新しい口誦文芸の発展を予告するものである点にかんがみ、これは、今日的意義を含んで重要視されなくてはならぬ研究であるとおもう。
文芸作品の研究のごとき、それは、すでに創作でもなければ、また観賞でもないけれども、そうかといって、創作体験も観賞体験もないところに、文芸作品を文芸作品として研究する出発点は見出し得ないであろう。
次は引き続き第14巻から「世々の歌びと」(折口信夫著)を読む。著者
葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
……といった作品が出て来るから、知らぬ人はあるまい。
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。
第14巻、「新文章読本(川端康成)/日本文芸入門(西尾実)/世々の歌びと(折口信夫)/俳句読本(高浜虚子)/現代詩概観(三好達治)」を読み始めた。第13巻とは打って変わって、日本文学一色である。
まず最初の「新文章読本」(川端康成著)を帰りの通勤電車の中で読み終わった。
著者川端康成は、この全集出版時はまだ存命だったようだ。
本書は、川端康成自身が認める文章を広く引用しながら、優れた小説の文章とはどういうものであるか、徹底的に論ずるというものである。さすが、不世出の文章家、ノーベル文学賞・川端康成の論で、論じている文章そのものが名文である。変な言い回しや難しい単語などはほとんどなく、現在で言うと村上春樹の文章のように気持ちよく飲み込める。私の感覚としては、これまで14巻にわたって読んできた世界教養全集の中で、最も読み易い文章だったと思う。
表現を通じてより以外に作者の現わそうとした内容を知る道はない。
横光氏の文章の歴史などをふりかえると、私はいまさらに、作者にとって文章は命である、との感は深い。命といってもよい程大切なものだ……という表面の意味ばかりではなしに、文章はペンで書くものではなく、命の筆先に血をつけて描く……といったなまぐさい子供っぽい形容さえしたい気持なのである。
深くなやむ者だけが、いつも正しい。
と私はそんな言葉さえ今は不用意に書きつけそうである。
金脈を発掘する日まで、書きに書くこと……その不屈の魂が文章上達の第一の要素でもあろうか。
「
里見氏は次から次へとすばしっこく慧しく変転して、分解し、一物からその周囲、周囲から一物、と眺めている間に、志賀氏は一中心を凝視し、それに透徹してから、稍〻静かに次へ移って行く。
「
「逡巡」は言うまでもないが、「趦趄」とは「なかなか進まない」ことから「思い悩む様子」を言う。「趦」は進まない、「趄」はかたむいて斜めになってうまくいかない、という字である。
それならば――ああ、誰か徒に趦趄逡巡して、己を欺くの愚を敢てしよう。
「倫」という字には「みち」という意味がある。「倫理」という言葉を思い浮かべれば納得できる。すなわち、「ひとの歩むべきみちの理」、これが倫理であるからには、「倫」とは辿るべきすじみちのことである。
その「みち」が「絶えている」のである。つまり、他にその筋道を通ることの出来る人がいない、「空前」つまりその人の前に人がなく、「絶後」その人の後に人がいない、前人未到の状態を「倫を絶する」という。
これは、そのまま漢語として「絶倫」とつづまる。本来よい言葉なのだが、ところが、「絶倫」と言った途端、「精力絶倫」という後世の熟語とつながってしまい、今や「絶倫」という言葉には、男性ホルモン過多、カザノバ、油ハゲみたいな、そんなイメージが付着してしまって拭えない。私のような者にとってはまことに悲しむべきことと言えようか。
引用については次の語「溘然として」と、その次の語「属纊につく」でまとめて引用する。
「
しかし、こんな言葉、近代日本では芥川龍之介以外誰も使っていないらしく、上のgoo辞書内での文例も、次の「属纊」の項目にまとめて引用した芥川龍之介の文章そのままである。
「
「纊」というのは「わた」のことであるそうな。
そして、「属纊」というのは臨終の人の呼吸を確かめるのに口鼻に綿をあてることなのだという。つまり、「属纊に就く」とは、「臨終を迎える」ということである。
かうして、古今に倫を絶した俳諧の大宗匠、芭蕉庵松尾桃青は、「悲嘆かぎりなき」門弟たちに囲まれた儘、溘然として属纊に就いたのである。
「
広岡の継母に、恁くて垣越に出会ひしは、ふるさとに帰りし日の、二十日過ぎたる夕暮なりけむ。
次は引き続き第14巻から「日本文芸入門」(西尾実著)を読む。著者西尾実は戦前から戦後にかけて活躍した国文学者である。
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。
第13巻「世界文学三十六講(クラブント)/文学とは何か(G.ミショー)/文学――その味わい方(A.ベネット)/世界文学をどう読むか(ヘルマン・ヘッセ)/詩をよむ若き人々のために(C.D.ルーイス)」のうち、最後の「詩をよむ若き人々のために Poetry for You」(C・D・ルーイス Cecil Day Lewis 著・深瀬基寛訳)を読み終わった。
題名こそ「詩をよむ『若き人々』のために」となっているが、著者は少年少女向け、私の読後の印象では小学校高学年から中学生くらいまでを対象にこの本を著したように思われる。というのは、恋愛に関する詩の解説で「みなさんくらいの年齢の方々にはちょっとわからないかと思いますが」というふうに書いてあるところがあるからだ。だが、その割には高度な英詩論がこれでもかと満載にしてあり、はたしてこれがイギリスの中学生に理解できたのかどうか、多少疑問も感じる。さればこそ、訳者による解説には、少年少女だけでなく広く一般に読まれた、という意味のことが書かれてあるのであろう。その点でなるほどと納得できるのである。しかも本書は、その高度な詩論が、平易に、わかりやすく噛み砕いて書かれてある名著だと思う。
じつのところ、みなさんが旧約聖書をおよみになればみなさんはヘブライの予言者たちの多くはほんとの詩人であったことを知るでありましょう。太古のむかしから詩と魔術とのあいだにはある密接な関係があったのです。
これはなるほど、本当にそうだ、と同感した。
してみると俗語というものは、それを見て、ひとびとがじぶんの想像力をさかんに使用していることが証明されるばあいには、いいものであるが、俗語が惰性的に機械的にしゃべられることを示しているばあいにはわるいものであると考えていいでしょう。
上の引用は「ことばのひびきはピカピカ光る」と題された一節の最後の一文である。この節は、「詩の機能は、言葉と言葉の出会いによる、言葉の絶え間ない再創造にある」という意味のことをテニスンの詩の一行を例に引いて説いている。私の趣味は俳句を詠むことだが、本節はその上でも重要な示唆を与えてくれている。この一節を読むだけでも、この書を開いた価値が多大にある。
皆さんの中には『
ハムリン の笛吹き』Pied Piper of Hamelin というブラウニングの詩をご存じの方もたくさんあるでしょう。
ブラウニングというと、妻のエリザベス・ブラウニングも名詩人だ。以前、この全集の第5巻中「現代人のための結婚論」の中に引用されていたエリザベス・ブラウニングの詩を翻訳して書き留めておいたことがある。
さておき、「ハーメルンの笛吹き」の童話と言うと、私はグリム童話という認識を持っていたが、実はいろいろな記録があるようだ。ブラウニングの詩にこの話があるとは知らなかった。青空文庫にその古い日本語訳がある。
次は第14巻、「新文章読本(川端康成)/日本文芸入門(西尾実)/世々の歌びと(折口信夫)/俳句読本(高浜虚子)/現代詩概観(三好達治)」である。第13巻とは打って変わって、日本文学一色である。
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。
第13巻「世界文学三十六講(クラブント)/文学とは何か(G.ミショー)/文学――その味わい方(A.ベネット)/世界文学をどう読むか(ヘルマン・ヘッセ)/詩をよむ若き人々のために(C.D.ルーイス)」のうち、四つ目、「世界文学をどう読むか Eine Bibliothek der Weltliteratur」(ヘルマン・ヘッセ Hermann Hesse 著・石丸静雄訳)を朝の通勤電車の中で読み終わった。
前書「文学――その味わい方」同様、
ここらで前置きはたくさんだとしよう! 努力するめいめいの人にとって、世界文学の尊ぶべき画廊は開かれている。量が問題ではないのだから、その豊富さにびっくりする必要はない。一生の間に十二冊ほどの本ですましながら、しかも真の読書家であるという人がいる。また、あらゆるものをあさり散らして、何についても心得顔で意見を述べるが、しかも彼らの骨折りはすべてむだだったという人もいる。なぜなら、教養とは、なにか教養されるべきものを前提とするからである。それらが存在しない場合、教養が実体なしにいわば空虚のなかでおこなわれる場合、知は生じ得るかもしれないが、愛と生命とは生じえないのだ。愛のない読書、畏敬のない知、心情のない教養は、精神にたいする最悪の罪の一つである。
高い意味での読書を学ぶことは、新聞とか、たまたま目にふれた現代文学とかによってはできない。傑作によってのみできることである。傑作は流行の読み物ほど甘い味も刺激的な味もしないことが多い。傑作は真剣に受けとられ、獲得されることを欲する。あざやかに演ぜられる舞踏を受け入れるほうが、ラシーヌの戯曲の厳格な、鋼鉄のように弾力のある措辞、あるいはスターンやジャン・パウルのような人の微妙なニュアンスのある、ゆたかに戯れるユーモアを受け入れるより、容易である。
傑作がわれわれによって真価を証明される前に、まずわれわれが傑作によって自分の真価を証明しなくてはならない。
次は引き続き同じく第13巻より、「詩をよむ若き人々のために Poetry for You」(C・D・ルーイス Cecil Day Lewis 著・深瀬基寛訳)である。
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。
第13巻「世界文学三十六講(クラブント)/文学とは何か(G.ミショー)/文学――その味わい方(A.ベネット)/世界文学をどう読むか(ヘルマン・ヘッセ)/詩をよむ若き人々のために(C.D.ルーイス)」のうち、三つ目、「文学――その味わい方 Literary taste」(A.ベネット Arnold Bennett 著・藤本良造訳)を帰りの通勤電車の中で読み終わった。
本書は英文学入門、英古典入門と言ってよい内容で、この本に沿って多くの古典を読んでいけばよいように書かれている。本書の終わり近くに
数学や競技は大したもので、チェスは手ごわく、ヴァイオリンではハイドンがこなせる、というある若い数学の教授が、かつてなにかの本についてのおしゃべりを聞いたあとで、わたくしにいったことがあります。「そうだ、文学をものにしなけりゃ」と。これはいいかえれば「ぼくはうっかり文学のことを忘れかけていたが、他のことはみんなやってしまった。こんどは文学をやってやろう」ということであります。
こうした態度、あるいはこれに似たものは間違っております。
古典は喜びの源泉でありちょうどミツバチが花を見過ごすことができないと同じように、少数の熱情的な人々にはそれをうち捨てることができないので、存続しているのであります。かれらは正しいからというので「正しいもの」を読むのではありません。それは本末を転倒しています。かれらがそれを読むのを好むからこそ、「正しいもの」はそれのみで正しいものなのです。ですから――そしていまこそわたくしがいおうとするところにきたのですが――文学の趣味にたいする一つの重要で欠くことのできないことは、文学に激しい興味を抱くことであります。もしあなたがそれをもっていらっしゃるならば、他のことは自然についてきます。
ある特定の本の価値について議論をしているときに、人々がこういっていることがあります――それは文学者の前では自身の文学的見解を述べるのに臆病な人々ですが――「文学的に見ては拙いかも知れないが、ひじょうにいいところがある」とか、「おそらく、文体はかなりひどいものだろうが、じつにこの本は面白くて、示唆に富んでいる」とか、「わたしは専門家でないから、文体のよさなどはどうでもいい。問題なのは内容のよさだ。それさえよければ批評家がなんといおうとかまわない」などその他同じような意見でありますが、どれもこれも話し手の気持ちのなかには、文体とはなにか補助的なもので、内容と区別できるものといった考え方、つまり古典として残るようなものになろうとしている作家は、まず内容を見つけだして、それを纏めあげ、それからいわゆる批評家という連中のお気に召すように、文体という
衣 装 でお上品に身づくろいさせる、という観念のあることを示しています。これは誤解であります。文体は内容と区別することはできません。作家がある考えを思いつくとき、かれはそれを言語の形で考えます。
悪い文体だが内容がいい、ということはありえません。その点もっと綿密に調べてみましょう。ある人があなたにあるすばらしい考えを伝えたいとします。そしてその人は言葉の形を用います。この言葉の形がかれの文体なのです。
……いやもう、一刀両断、バッサリ、である。
文学を失った世界では、ごくわずかの例外的な天分に恵まれた者は別として、すべての人々の知的、感情的活動は急速に狭い範囲のものに衰え、かつ委縮してしまうことでしょう。広範で、気高いとか、寛容といったものは、じきに姿を消し、それにつれて人生は堕落してしまうでしょう。なぜなら人を欺く思想やくだらない感情が、天才の思想や感情によって向上されるようなことはないでしょうからです。文学のない社会を考えあわせることによってのみ、文学の機能が平野を山頂の高みにたかめうることを、はっきりと理解できるのであります。
著者は文学の入り口としてチャールズ・ラム Charles Lamb の「エリア随筆」に収められた一編、「幻の子ども――夢想」を熟読玩味することを勧めている。この作品から読み始めれば、それを糸口に、広大無辺、莫大な英文学の世界へ入っていける、というのだ。
日本でも早くからあらゆる文学者に激賞されてきた作家なのだそうだ。だが、恥ずかしいことに、私は名前も作品も聞いたことがなかった。
桂冠詩人の本来の意味はギリシア・ローマの詩人の代表格のことなのであるが、英文学に関して言うかぎり「英王室お抱え詩人」のことだそうな。なんと今でも桂冠詩人はおり、今はサイモン・アーミテージという詩人が桂冠詩人をつとめているという。
一方、湖畔詩人は「湖水詩人」とも言い、19世紀にイギリスの北の方の「湖水地方」が「詩人ファーム」の様相を呈しており、詩人がうじゃうじゃいたのだそうで、かれらを十把ひとからげに湖畔詩人と言うもののようだ。どうも「湖畔詩人」という言葉自体には、文学への尊敬や古き良き時代への憧憬と同時に、そこはかとない揶揄のようなものも含まれているような感じがする。
その人たちのうちにはワーズワース(イギリスにおけるロマン派に一時期を画し、のちに桂冠詩人となった。一七七〇―一八五〇――訳者)、サウジイ(ワーズワースとともに湖畔詩人と呼ばれ、のちに桂冠詩人となる。一七七四―一八四三――訳者)、ハズリット、リイ・ハント(イギリスのジャーナリスト、キーツ、シェリーと交わり、詩人としても名がある。一七八四―一八五九――訳者)があります。
次は引き続き同じく第13巻より、「世界文学をどう読むか Eine Bibliothek der Weltliteratur」(ヘルマン・ヘッセ Hermann Hesse 著・石丸静雄訳)である。
ヘルマン・ヘッセと言えば、名作「車輪の下」の作者として知らぬ者のないドイツの大作家であるが、彼が著した文学ガイドとは、果たしてどのようなものだろうか。
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集第13巻、「世界文学三十六講(クラブント)/文学とは何か(G.ミショー)/文学――その味わい方(A.ベネット)/世界文学をどう読むか(ヘルマン・ヘッセ)/詩をよむ若き人々のために(C.D.ルーイス)」を読んでいる。
帰りの通勤電車の中で、二つ目の「文学とは何か Introduction à une science de la littérature」(G.ミショー Guy Michaud 著・斎藤正二訳)を読み終わった。
文学についてそれが一般的な論なのかどうかは私はよく知らないのだが、本書で著者ミショーは、「文学の完成は8割は読者や批評家・評論家によってなされる」と主張しているように思う。実際、本書の物理的分量の、ざっと8割は読者が何をなすべきかという論に
厳密な意味では――文学とは「美しい文章」ということである
上記は、下記の部分に
そこで、われわれは、ごく狭い意味での文学を、定義づけて、こんなふうに、いおうと思う。
「文学とは、すべて、『美しい文章』をさしていうのである。」と。
しかし、それにしても、「美しい文章」の名に値するものとは何かということになると、その判定の仕方は、はなはだ困難である。それに、いったい、だれが、「美しい文章」としての価値のある無しを、聞かせてくれるのだろうか。……
サルトル流にいうならば、“作品はまず存在し、出会い、世界のなかに出現するものなのだ”。
太古のひとびとの心のなかでは、詩と文学とは、ひとつに溶け合っていた。そこにあるものといえば、ただ歌であり、ただリズムであり、ただ諧調であった。それというのも、太古のひとびとには、「自然」と「超自然」のけじめがつかなかったからである。たとえば、
眼前 にめらめらと音を立てて燃える火がある場合にも、かれらには、それが物理現象としての燃焼であるのかそれとも、何かの怨 霊 が焔をあげているのであるのか、このふたつのもののけじめは、はっきりとはつけられていなかったのである。
われわれは、文学については、ハーモナイゼーション、そしてオーケストレーションを語ることが、正当の権利として、なしうるのである。じじつ、マラルメがいみじくも
喝 破 したように、文学は、ペンと紙とによって書かれたものであるという点からは、ページにおける一種の同時性が存在するとも、いいうるのである。
上記の部分は、私には「果たしてそうか?」と感じられ、疑問である。著者はこの部分を含む章で文学を音楽と対比しているのだが、多数の楽器や声部が同時に演奏される音楽に比べ、文学はどうしても、鑑賞の瞬間瞬間には、シリアルに流れる一文字一文字の羅列を消化していかざるを得ず、同時に別のページや段落を著者ミショーが言うように味わうには、一度作品を読み終わった読者の記憶によるしかないから、どうしても音楽と同レベルのハーモニーを楽しむことはできないのではないか。
この部分は、むしろミショーが、文学が音楽に対して劣る部分を羨望を含めて「ああ、もし文学がこうであったなら!」と言い立てているようにも感じられる。
結論的にいえば、ほんものの作品においては、すべてが切り離しがたく結びついているのである。そして、ひとつの書きかたしかないように、ひとつの読みかたしかないのである。だから、われわれが、ひとつの作品を理解し、またその作品とともに生きようと思うならば、われわれは、つねに、作品のもつ多様性を、統一性に従属せしめうるように努めなければならないのである。
正しい意味での“調和の追求”。これこそが、文学作品を読む唯一の仕方であり、究極の目的なのである。
次は引き続き同じく第13巻より、「文学――その味わい方 Literary taste」(A.ベネット Arnold Bennett 著・藤本良造訳)である。