読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第16巻の二つ目、「世界文化小史 A short history of the world」(H.G.ウェルズ Herbert George Wells著・藤本良造訳)を帰りの通勤電車の中で読み終わった。中央線水道橋のあたりだった。

 著者ウェルズはSF小説の創始者として誰知らぬ人のない大家であるが、平和運動や歴史書の執筆でも多くの功績がある。本書は第16巻約600ページのうち300ページ以上を占める大著なのだが、これをしもウェルズは「小史 short history」と題している。さもあろう、ウェルズは本書より先に厖大浩瀚(ぼうだいこうかん)の一大著作「世界文化史」を(あら)わしており、本書はその入門編であると自身の手になる序文に記しているのだ。

 本書はなんと、地球の生成から語り始められ、一気呵成に第2次世界大戦前夜までを語り尽くす。欧州史に重心が置かれていることはウェルズの立場から言って当然ではあるが、公平にアラビアや東洋についても語られ、日本についても特に一項を割いてその歴史を通観している。

 著述の姿勢は実に公平・公正と言える。戦争について記すにしても、弱者が劣っていた、誤っていた、敗者がすべて悪かった、というような見方を徹底的に排除しているように感じられる。

 ここで、翻訳者藤本良造による看過すべからざる悪辣な加筆が加えられていることを指弾しておかねばならぬ。解説に記されているが、藤本は翻訳するにあたり、第2次大戦後に出された本書の改訂版に、ウェルズによって付け加えられた巻末の「補遺」を「大した意味がない」(p.499の藤本による解説)として切り捨て、あたかもウェルズの手になるかのような誤解を招く形で自分が書いた文章を挿入しているのである。その文章は下手糞な筆致で敗戦した日本への不満を垂れ流したものであり、歴史に冷静な視線をもって対しているとは言いがたく、ウェルズの公平無私の著述態度とは正反対の下らないものだ。ウェルズの闊達で俯瞰的な姿勢には到底及ばない。この無残な改変は原書に対する甚だしい侮辱であり暴挙であって、翻訳の労による折角の功績をゼロにするばかりか、マイナスにもしかねない。藤本は「ウェルズはこの改変を許すであろう」という意味のことを書いているが、こんな下らぬ内容の文など決して許されまい。その一点のみ、読書していて残念であった。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第16巻「世界文化小史」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.227より

 どんな未開人でも一種の因果論をもたないほど低級なものはない。しかし原始人は因果関係についてはあまり批判的ではなかった。かれらはひじょうに簡単に一つの結果を、その原因とはまったく異なった他のものに結びつけてしまうのである。「そうしたからそうなった。だからそうすればそういうことになる」と考える。子供にある果実を与えると幼児は死ぬ。剛勇な敵の心臓を食べれば強くなる。この二つの因果関係の一つは真実であり、一つは誤りである。われわれは未開人の考える因果の体系を「庶物崇拝」と呼んでいる。しかし庶物崇拝はたんに未開人の科学にすぎない。それが現代の科学と異なっているのは、それがまったく非体系的、非批判的であり、それゆえに時々誤っていることである。

 原因と結果を連絡させるということが困難でない多くの場合もあり、また誤った考えが経験によってただちに訂正される場合もたくさんあった。しかし原始人にとってひじょうに重大な出来事のうちには、かれらが辛抱強くその原因を探求して発見した説明が誤ってはいたが、といってその誤りを見破られるほど、明白な誤りでもなかった場合が数多くあった。狩りの獲物が豊富なことや、魚がたくさんいて容易に獲れるということは、かれらにとっては重大な事柄であり、たしかにかれらは無数の呪文や前兆によって、この望んでいる結果の解決をえようと試みたり信じたりしていた。

p.228より

原始宗教はわれわれがいま宗教といっているようなものではなくて、むしろ習慣であり、行事であり、初期の聖職者が指図したことは、実際には独断的で原始的、実用的な科学だったのである。

p.334より

どんな帝国も、どんな国家も、どんな人類社会の組織であっても、つまるところは理解と意思によって成り立つものなのである。ところがローマ帝国のための意思はなにものこっていなかった。そしてローマ帝国は崩壊していったのである。

p.350より

九世紀の初めのイングランドは、シャールマーニュの臣下のエクバート王が支配するキリスト教化された低ゲルマン語国であった。ところがノルマン人はこの王国の半分を、エクバート王の後継者であるアルフレッド大王(八八六年)から強奪し、ついにはカヌート(一〇一六年)の指揮のもとにその全土の支配者となった。また一方のノルマン人の隊長ロルフ(九一二年)のひきいる別の一群のノルマン人はフランス北部を征服したが、これはノルマンディ公国となった。

 カヌートはイングランドだけでなくノルウェーやデンマークさえ支配していたが、そのはかない帝国はかれの死によって、領地をその息子に分配するという未開種族の政治的な欠点のために分裂してしまった。このノルマン人の一時的な統一が継続されたとしたら、どんなことになったかを考えてみるのは面白いことである。

p.425より

人間はもはやたんに無差別な動力の源泉として求められはしなくなった。人間によって機械的になされていたことは、機械によってさらに速く、いっそう巧みになされるのであった。人間はいまや選択力と知性を働かすべきときだけに必要となった。人間は人間としてのみ要求されるようになった。これまでのすべての文明を支えていた労役者、たんなる服従の動物、頭脳のない人間、そうしたものは人類の幸福には不用のものとなったのである。

 上の部分は産業革命について述べた部分であるが、これについてはしかし、多少疑問も覚える。というのは、現在も同じようなことが人工知能(AI)に関して言われているが、労役者としての人間が不要とされる時代はこの情報革命後の現在においても、結局来てはいないからである。

p.452より

 ロシア軍は、指揮も下手で供給品にも不正があったため、海上でも陸上でも敗北した。しかもロシアのバルチック艦隊はアフリカを回航していったが、対馬海峡で完全に撃滅されてしまった。そしてこうした遠方での無意義な殺戮に憤激したロシア民衆の間には革命運動が起こり、そのためにロシア皇帝は仕方なく戦争を中止することにしたのであった(一九〇五年)。かれは一八七五年にロシアが奪った樺太(からふと)(サハリン)の南半分を返し、撤兵して朝鮮を日本にまかせた。こうしてヨーロッパ人のアジア侵略は終りとなって、ヨーロッパの触手は収縮し始めたのである。

 そうした意思を日本が持っていたかどうかは別として、欧州人の東亜侵略を他ならぬ日本が終わらせたのだとウェルズは言っているわけである。私がウェルズの著述姿勢を公平無私であると思う所以(ゆえん)は、こうしたところにある。

言葉

 これで「(けり)」と()み、チドリ科の鳥の一種のことなのだが、本書中では次のように使われている。

下線太字は佐藤俊夫による。訳者藤本良造による「補遺」p.477より 

そして交渉の結果は、ついにソヴェトの連続的爆撃によって高価にはついたが三ヵ月の後に、ともかくも問題の(けり)はつけられることになった。

 「ケリをつける」という慣用句のよってきたる(いわ)れは、文語体の助動詞の「けり」が、文の「おしまい」を「切る」働きがあることから、「おしまいにする」「結論を出す」というところにある。俳句の切れ字で「やみにけり」などと句の終わりなどに使われることからもわかる通りだ。

 だが、古い文章などでは洒落(シャレ)のめしてか、この「鳧」という字を使うことが多いようだ。しかし、鳥の鳧と、ケリをつけるという意味の「鳧」との間には、直接の繋がりはない。

 次は同じく第16巻から「歴史とは何か History」(G.チャイルド Vere Gordon Childe著・ねず まさし訳)を読む。著者のチャイルドはオーストラリアの学者で、「マルクス主義考古学」なる変わった学問の提唱者である。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第16巻を読み始めた。この巻には「人間の歴史」(M.イリーン著・八住利雄訳)「世界文化小史」(H.G.ウェルズ著・藤本良造訳)「歴史とは何か」(G.チャイルド著・ねず まさし訳)の三つが収められている。

 まずは一つ目の「人間の歴史 Kak stal chelovek gigantom / Как человек стал великаном」(ミハイル・イリーン Mikhail Il’in / Михаил Ильин著・八住利雄訳)を往きの通勤電車の中で読み終わった。

 私は子供の頃に「燈火の歴史」でイリーンに親しんだ。これは短い本だったから、小学生の頃読んだ。しかし、この「人間の歴史」を読み通したのはこれが初めてである。

 「人間の歴史」はもともと子供向けの読み物だそうだが、なかなかどうして、大人が読むに足る。

 人類の発生から有史直前までを壮大な視野とスケールで語るもので、これはそのまま、著者イリーンと言う人がどういう視野を持つ人であったかを物語る。

 最近は国際的に「SDGs」が提唱されている。しかし一方で、人間は環境との不適合による困難と、その克服によってかくまでに地上の王、万物の霊長たりえた。本書を読むとそういう思いが深くなる。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第16巻「人間の歴史」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.146より

 他の民族に対する古代の敵意の名残りや断片は、現在でも見られる。これは不思議なことである。鉄器時代、いや、さらにアルミニュームや電気の時代になっても、他の民族に対する敵意や人種的な憎悪を説いている人々がいる。その人々は、人間は自分たちだけだと考えている。彼らの意見によれば他の人々は人間ではなく、低い種類の存在であるようである。

 他の人々(異種族)、他の血縁の人々に対する敵意は、古代原始人たちの感情や信仰の名残りである。

 歴史は、私たちに、この地上には高い民族も低い民族もないということを教えている。進歩した民族と、文化の途上でとり残された民族とがあるだけである。仕事の暦によれば、いっさいの現代人たちは、まったく同じ時代には属していない。進歩した民族は、おくれた民族を助けてやらねばならないのだ。

 が、ヨーロッパには、黒人たちや、オーストラリア人や、その他の「未開人たち」に対しては、上から見おろすような態度が取られている国がある。

 そのような国の人々は、たとえば、現在のポリネシア人は過去のヨーロッパ人であるということを理解しないし、また理解することを欲しないのである。

p.148より
アメリカの発見

 アメリカを発見したヨーロッパ人たちは、新しい世界を見つけだしたと考えたのである。

 コロンブスは、次のような言葉をきざんだ勲章を贈られた。

カスチリア(スペイン王国)とレオンのために
コロンブスは
新しい世界を発見したのである。

 が、この新しい世界は、実際は古い世界であった。ヨーロッパ人たちは、アメリカにおいて、もうとっくに忘れてしまった自分たち自身の過去を発見したのであったが、それには気がつかなかったのだ。

 イリーンは上の記述に続けて、コロンブスがアメリカを訪れた頃の先住民が母系社会を作っていたこと、また、多くの地域、もちろんヨーロッパでも古代は母系社会であったことを紹介し、論拠としている。

 次は同じく第16巻から「世界文化小史 A short history of the world」(H.G.ウェルズ Herbert George Wells著・藤本良造訳)を読む。著者のH.G.ウェルズは、SF小説の中でのことではあるが、「タイム・マシン」を世界で初めて「発明」した作家として知られる。ジュール・ヴェルヌと並ぶSF小説の父であるが、評論や論説も数多く残しており、本書はそのうちの一つである。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、五つ目、「第二貧乏物語」(河上肇著)を()きの通勤電車の中で読み終わった。本巻の(ほぼ)半分を占める大著であった。

 著者は戦前の筋金入りの共産主義者である。当時「赤旗」の編集などしていたため、刑務所(ムショ)で5年も臭い物相(モッソウ)(めし)を喰らい込んだ古強者だ。

 その著者が「貧乏とは何か。なにゆえ我々はかくも貧困にあえぐのか」というところから共産主義を説くのが本書である。

 今本書を読むと、批判、非難や弾圧にも屈せず切々と共産主義の正しさを説き続けている著者の筆致が、誠実を尽くしているだけに、むしろ悲しくさえある。

 刊行当時は検閲が厳しく、多くの部分が伏字で出され、それを戦後発見された原稿によって修復した旨が序や解説に記されてある。当時伏字であった部分には亀甲括弧〔〕や二重山括弧《》が付され、それと判るようになっている。だが、今日(こんにち)本書を読んでみると、そうした当時の伏字部分には大した単語は書かれておらず、逆にそれしきの単語に過敏に反応した当時の検閲がどれほど厳しく馬鹿らしいものであったかが想像される。

 この本が書かれておよそ40年が経った後、高度経済成長期後の、一億総中流社会と言われた日本の、程よく共産主義的味付けの効いた日本流修正資本主義の隆盛ぶりを著者が見たら一体何と言っただろうか。随喜の涙を流して満足したろうか、それとも「そうじゃない」と、毛沢東の言う「矛盾による成長、止揚、揚棄(アウフヘーベン)」のようなことを資本主義と共産主義との間に見出し、修正資本主義と市場社会主義は相互作用による成長の結果であるとして、目標を先へ延伸したろうか。

 そうした点で今は本書が共産主義の古典的理解になってしまっているという見方もやむを得ない。末川博による解説にも、ブハーリンの「史的唯物論」の偏向と誤謬を取り入れている点などで、昭和5年(1930)に出された本書は一時代前のものとなっている、という意味のことが書かれている。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「第二貧乏物語」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.300より

 人間の頭のなかから地球や日月星辰やが生まれ出るのではない。人間はもちろんのこと、いっさいの生物がまだこの地球上に発生しない以前から、地球そのものは存在しておる。それからずっと後になって、この地球の上に、はじめて人間が発生し、そしてその人間の頭脳へ地球や日月星辰やが反映して、それが人間の意識となり観念となるのである。これは極めて理解しやすいことだ。

 著者河上肇はマルクスとエンゲルスにそれこそ逆に宗教的とすらいえるほどに帰依し、徹底して弁証法的唯物論の正しさを唱え、形而上学を排撃している。そんな著者による上の一文には、本書の過半が代表されているように思う。著者の弁証法的唯物論は、デカルトの「我思う故に我あり」など吹き飛ばさんばかりの勢いで、堂々とその対極にある。

言葉
六合(りくごう)括嚢(かつのう)する

 「括」には「(くく)る」、「嚢」には「(おさ)める」との()み方がある。一方、「六合(りくごう)」とは上下と左右前後を合せた6方向のすべてをいい、世界や宇宙のことを言うものと思ってよい。そうすると「六合を括嚢する」とは、「世界をすべてひとまとめにする」という意味となる。

下線太字は佐藤俊夫による。p.247より
(引用者注 以下は著者河上肇による江戸時代の書『混同秘策』(佐藤信淵(のぶひろ)著)の引用である。)

()深く()(いく)の大恩に感じ、ひそかに六合を括嚢するの意あり、しかれどもいかんせん家貧にして年の老いたることを、ここにおいてこの書を筆記し、題して混同秘策と名づけ、いささか以って晩遠の鬱憤を写し、固封して児孫に遺す、云々」

喣育

 上の「六合を括嚢する」の引用文中、「()(いく)の大恩に感じ」という句が出て来る。この「喣育」の「喣」には「色を出す、あらわし、しめす」という意味がある。そうすると「喣育」とは、「形になるよう育てる」という意味となる。

老残羸弱

 「老残(ろうざん)(るい)(じゃく)」と読む。「羸」は疲れ弱ることで、「羸弱」で著しく疲れ衰えることを言う。

p.366より

 今まではだいたい気持ちのうえだけで嵐のなかに立っていたが、今年からはいよいよ奮発して、老残(るい)(じゃく)のこの身を現実に嵐にさらすつもりだ。

 さて、第15巻を読み終わった。さながら「共産主義まつり」のおもむきすらあり、辟易したりウンザリしたりこそしなかったものの、論の数々は右翼の私には腹の底から(うべな)えるものではなかった。

 次は第16巻。収載作品は「人間の歴史」(M.イリーン著・八住利雄訳)「世界文化小史」(H.G.ウェルズ著・藤本良造訳)「歴史とは何か」(G.チャイルド著・ねず まさし訳)だ。今度は人間そのものの歴史を俯瞰するものとなる。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、四つ目の「矛盾論」(毛沢東著、竹内好訳)、帰りの通勤電車の中で本編を、帰宅してから解説を、それぞれ読み終わった。40ページ弱なので、すぐに読んでしまった。

 毛沢東と言えば無論、かの毛沢東である。「はて、矛盾とな?なんのことやら?」と最初は思ったが、「矛盾」という言葉を聞いて我々が思い浮かべる、「議論してもどうにもならない馬鹿々々しいパラドックス」というようなことではなく、現代風な表現で言うと「対立」のことを毛沢東は「矛盾」と言っている。そして、さまざまな事象に見られる「対立」が、物事を前進させ、成長させると説く。対立には様々な軸があり、「東と西」なども毛沢東流にいえば矛盾であり、その他、学問でも、数学の正と負、微分と積分、力学の作用と反作用、電気のプラスとマイナス、等々、さまざまなものが対立、すなわち矛盾である。

 共産主義者は無神論者、唯物論者と決まったものだが、この本を読んで、毛沢東が形而上学を嫌い、弁証法的唯物論を称揚していることがよくわかり、ますます共産主義者の唯物的なことに納得がいった。また、弁証法につながる共産主義の唯物論から、ふと冷厳な「OR(オペレーションズ・リサーチ)」を連想した。日本の共産主義者はどうもヒステリックで情緒的だが、本当のマルクス主義者は科学的なのだ。

 現代の修正資本主義、毛沢東が否定した教条主義、封建社会からブルジョア社会を経ずに社会主義革命をなした毛沢東流テーラリングというかカスタマイズ、「現実への適合」を毛沢東が強く唱えていることなども印象に残った。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「矛盾論」より引用。p.203より

 レーニンも、矛盾の普遍性を、こう説明した。

「数学では、正と負、微分と積分。
力学では、作用と反作用。
物理学では、陽電気と陰電気。
科学では、原子の化合と分解。
社会科学では、階級闘争」

 戦争における攻守、進退、勝敗は、みな矛盾した現象である。一方を消せば他方も存在しなくなる。双方が闘争し、かつ結合して、戦争の全体を形成し、戦争の発展を推進し、戦争の問題を解決する。

 次は引き続き第15巻から「第二貧乏物語」(河上肇著)を読む。共産主義に関する著作で、戦前のものだ。著者は学者だが、戦前、「赤旗」の編集などしていたため、刑務所(ムショ)で5年も臭い物相(モッソウ)(めし)を喰らい込んだ筋金入りの共産主義者だ。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、三つ目の「職業としての政治 Politik als Berf」(マックス・ヴェーバー Max Weber 著、清水幾太郎・清水礼子訳)、行きの通勤電車の中で本編を、帰りの通勤電車の中で解説を、それぞれ読み終わった。

 著者マックス・ヴェーバーはドイツの社会科学者で、第1次世界大戦の頃の人である。本書は第1次大戦でドイツが敗北した直後、ミュンヘンで行った講演をまとめたものだ。当時の欧州の政治の形を時間・空間双方に沿いながら幅広く概括し、わかりやすく述べたものである。そして、この講演の次の年、ヴェーバーは亡くなっている。

 今の日本を含む各国の政治について、こうした書籍があればどんなにかよいが、とも思った。何しろ、第1次大戦以前の政治の詳細像は、今の私には遠すぎる。

 別談。訳者の清水幾太郎は解説において、微妙にマックス・ヴェーバーをディスっていて、かつ、本人は翻訳にあまり手を出していないことがわかる。戦前版のものは知人市西秀平氏の翻訳を清水氏の名前で出し、印税は市西氏に全額渡した、と書かれている。戦後、市西氏の翻訳とは別に改訳したのが本書だそうだが、今度も清水氏はあまり手を出さなかったようだ。共同翻訳者として名前の出ている清水礼子氏というのは清水氏の息女で、本書は彼女の翻訳に負うところが大きい、との旨も解説に記されている。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「職業としての政治」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.175より

戦争は終戦によって少なくとも道徳的には埋葬が済んでいるはずなのに、数十年後に新しい文書が公開されるたびに、下品な悲鳴、憎悪、憤怒をよみがえらせるのです。埋葬は、現実性と騎士道精神とによって、なかんずく、品位によってのみ可能になるものです。しかし、「倫理」によっては絶対に不可能で、「倫理」は、実は、双方の側における品位喪失を意味するものなのであります。「倫理」は、将来および将来に対する責任という政治家にとって大切な問題を考えずに、過去の罪という政治的に不毛な――というのは、解決がつかない問題ですから――問題に没頭するものであります。もしも、政治上の罪というものがあるとすれば、これこそ、それであります。

 上の部分は、まるで現在の日韓関係を遠く100年以上の昔に喝破したもののように感じられ、ううむと唸ってしまった。

p.181より

昔から、インドの兵士は、インドラの極楽へ行けるものと固く信じて戦死を遂げたものですが、これはゲルマンの兵士がヴァルハラを固く信じていたのと同じであります。けれども、インドの兵士は、ゲルマンの兵士が天使の合唱が聞こえるキリスト教の楽園を軽蔑していたように、()(はん)を軽蔑していたのでしょう。

 次は引き続き第15巻から「矛盾論」(毛沢東著、竹内好訳)を読む。そう、あの毛沢東である。なんだか、本巻を読んでいる間は「共産主義祭り」みたいなもののような気がしてきた。

訃報

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 人気漫画、ダークファンタジー「ベルセルク」の作者、三浦健太郎氏が亡くなったという。

 「ベルセルク」は私が20代の頃、昭和末から連載され続けている漫画だ。50歳を過ぎた今も愛読している。月刊誌連載にもかかわらず40巻を刊行して今もなお未完であり、続刊が待たれていた。

 最近は連載も間欠的となり、三浦氏が執筆に苦労されている様子が察せられていた。大動脈解離による急逝との事であるが、恐らくは強いストレスなども関係していたのだろうと想像される。

 亡くなるにはあまりにも若すぎ、その才能は惜しんでもなお惜しみ足りない。祈冥福(めいふくをいのる)

読書

投稿日:

 「カラオケ行こ!」という漫画を長女が購入している。チラッと見たところ、いつぞやツイッターで誰かが一部を引用していて、見覚えのある絵柄だ。

 興味を覚えたので読んで見た。

 さすがは話題作である。物語にはスピード感があり、しかも笑わせる。面白かった。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、二つ目の「共産党宣言 Historisch-kritische Gesamtausgabe. Im Auftrage des Marx-Engels-Lenin-Instituts Moskau herausgegeben von V. Adoratskij. Erste abteilung Band 6. Marx-Engels-Verlag, Berlin, 1932.」(K.マルクス Karl Marx ・F.エンゲルス Friedrich Engels 著、宮川実訳)を帰りの通勤電車の中で読み終わった。

 言うことのない程の世界的名文である。共産主義者には不滅の経典でもあろう。

 前回の読書エントリの末尾に少し、訳者の宮川実について触れた。ふと興味を覚えて検索してみると、「秋丸機関」という言葉が出てきた。陸軍の情報分析機関である。秋丸機関は戦前に世界各国の経済的継戦能力を調査し、すぐれた報告を出しているそうだが、秋丸機関の一員にこの宮川実も入っていたのだという。共産主義者に近いマル経学者、しかも治安維持法違反でムショに放り込まれるような人物を調査機関の一員として迎えるとは、意外に陸軍も懐が広かったのだな、と思える。むしろ、2.26事件の将校たちが、自分ではそれと知らずに「天皇制共産主義」のようなものを構想していたのだと仮定してみると、逆に貧農出身が多数を占める陸軍軍人には、共産主義者に同感を覚える者が意外に多かったのかもしれない。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「空想から科学へ」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.90より
一八八三年ドイツ語版への序文

 この版の序文には、悲しいことに、私一人が署名しなければならない。マルクス――ヨーロッパとアメリカの全労働者階級が他の誰に負うよりも多くを負うている人、マルクスはハイゲートの墓地に眠っており、彼の墓の上にはすでに新しい草が生えている。彼が死んでから後には、宣言を改訂したり、補足したりすることは、いうまでもなく、もはや問題となりえない。

p.97より

 一つの妖怪がヨーロッパを歩き回っている――共産主義という妖怪が。旧ヨーロッパのすべての権力は、この妖怪を駆りたてるという神聖な仕事のために、同盟をむすんでいる。法王とツァーリとが、メッテルニヒとギゾーとが、フランスの急進派とドイツの官憲とが。

p.120より
c ドイツ社会主義すなわち「真正」社会主義

 支配的なブルジョアジーの圧迫のもとで生まれ、この支配に対する闘争の文献的表現であった、フランスの社会主義的および共産主義的文献は、ブルジョアジーがちょうど封建的絶対主義に対する闘争を始めたときに、ドイツに輸入された。

 ドイツの哲学者や半哲学者や文芸家は、むさぼるようにこれらの文献を自分のものにしたが、これらの著作がフランスからはいってきたときに同時にフランスの生活諸関係ははいってこなかったことを、忘れていた。ドイツの諸関係に対しては、フランスの文献はすべての直接的な実践的意味を失い、純粋に文献的な相貌をおびた〔それは、人間の本質の実現に関するひま人の思弁として現われざるをえなかった〕

p.128より

 万国のプロレタリア団結せよ

 これは、本書の一番末尾の段落で、共産党宣言を読んだことのない人でもこのくだりは知っている。右翼を称して(はばか)らぬ私のような人物でさえ、このくだりは知っていた。

言葉
ルンペン・プロレタリアート

 「ルンペン」という言葉は、もはやほぼ日本語と言ってよいように私には感じられていたが、昭和の初期頃に共産主義の思想などとともに移入されたドイツ語だという。日本語としてとらえられるのと同じく、直接には「襤褸(ぼろ)」のことを言い、つまり下層民、貧民のことである。

 マルクスはプロレタリアートの一般層よりもまだなお下層底辺の貧民を「ルンペン・プロレタリアート」と定義し、軽蔑していたという。

下線太字は佐藤俊夫による。p.107より

 ルンペン・プロレタリアート、旧社会の最下層のこの無気力な腐朽分子は、プロレタリア革命によって、ときには運動に引き入れられることもある。だが、かれらの生活状態全体からみると、彼らはむしろ、反動的陰謀のために買収されることをいとわぬであろう。

 次は引き続き第15巻から「職業としての政治 Politik als beruf, 1919」(M.ヴェーバー Max Weber 著、清水幾太郎・清水礼子訳)を読む。第1次大戦敗戦後のミュンヘンで、学生に対して行われた講演の講演録だという。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、最初の「空想から科学へ(F.エンゲルス Friedrich Engels 著、宮川実訳)」を読み終わった。

 邦題こそ「空想から科学へ」と付けられてはいるものの、原題は「Die Entwicklung Des Sozialismus Von Der Utopie Zur Wissenschaft 社会主義の空想から科学への発展」であり、言わずと知れた共産主義本である。

 「科学」としてあるが、私には科学と言うよりも「哲学」に沿って社会主義を論じているように感じられた。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「空想から科学へ」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.30及びp.37より

しかしなんという多額な費用のかかったことであろう! だから、イギリスのブルジョアはまえから平民を宗教的雰囲気にしっかりしばりつけておくことの必要を確信していたのであるが、今では、これらすべての経験のあとでは、どんなに痛切に、この必要を感じないではいられなかったことか! 大陸のなかまたちの嘲笑をすこしも意に介することなく、下層民に対する福音伝道のために彼らは毎年幾千幾万の金を投じつづけたのである。自国内の宗教機関だけで満足しないで、彼らはさらに、当時、営業としての宗教の最大の組織者であったブラザー・ジョナサ((9))に訴えた。

(9) アメリカ合衆国を人称化した言葉(イギリスを「ジョン・ブル」というのと同じ)。このあだ名はその後「サムおじさん」に変わった。
p.77より

社会的生産の無政府性が消滅するにつれて、国家の政治的権力もまた眠りこむ。ついに自分自身の独自の社会化の主人になった人間は、それによって、同時に自然の主人に、彼ら自身の主人になる――すなわち自由になる。

 こういう世界解放の事業を成し遂げることが、近代プロレタリアートの歴史的使命である。この事業の歴史的諸条件をそれとともにその本性そのものを、究明し、そうすることによって、行動の使命をおびた今日の被抑圧階級に、彼ら自身の行動の諸条件と本性とを意識させること、これがプロレタリア運動の理論的表現である科学的社会主義の任務である。

p.80、訳者宮川実による解説より

エンゲルスがこれを書いた時から、今年はちょうど八十年めにあたる。その間に、科学的社会主義の理論は実現されて、今日では世界の人口の三分の一、十億人以上の人々が、すでに資本主義をたおして社会主義か人民民主主義(社会主義にいたる過渡期)の社会に住んでいる。しかも、社会主義世界体制の資本主義世界体制に対する優位は、科学においても、経済においても、政治においても、誰の目にもはっきりするようになっている。

 ……。い、いや……。それは、ないワ~(笑)。まあ、この解説が書かれたのはソ連崩壊より30年も前のことで、結果としてではあるけれども、さ。

言葉
ヘーファイストゥスの(くさび)

 人間に火を与えたプロメテウスがどこから火を手に入れたかと言うと、造兵の神ヘーファイストゥスの炉からであるという。

下線太字とルビは佐藤俊夫による。以下の<blockquote>タグ同じ。p.67より

相対的過剰人口または産業予備軍を絶えず資本蓄積の範囲と精力とに均衡させる法則は、ヘーファイストゥスの楔がプロメティウスを岩に釘づけにしたよりももっとかたく労働者を資本に釘づけにする。

 次は引き続き第15巻から「共産党宣言 Historisch-kritische Gesamtausgabe. Im Auftrage des Marx-Engels-Lenin-Instituts Moskau herausgegeben von V. Adoratskij. Erste abteilung Band 6. Marx-Engels-Verlag, Berlin, 1932.」(K.マルクス Karl Marx ・F.エンゲルス Friedrich Engels 著、宮川実訳)を読む。「空想から科学へ」と同じ訳者、宮川実による翻訳だ。宮川実は戦前、治安維持法違反で臭い物相飯(モッソウめし)を喰らったマル経学者である。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第14巻、「新文章読本(川端康成)/日本文芸入門(西尾実)/世々の歌びと(折口信夫)/俳句読本(高浜虚子)/現代詩概観(三好達治)」のうち、五つ目、最後の「現代詩概観(三好達治著)を、朝、行きの通勤電車の中、御茶ノ水駅のあたりで読み終わった。

 著者の三好達治は自身が高名な詩人であり、学校の教科書にも作品が載っているから、知らぬ人はない。その三好達治が、和歌・俳諧といった定型詩から離れた日本の明治以降の詩について、起点のメルクマールとも言える「新体詩抄」から昭和の口語自由詩まで、闊達(かったつ)に概観するものだ。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第14巻「現代詩概観」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.396より
落葉(らくえふ)

秋の日の
ヸオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

(ヴェルレーヌ「詩集」)

 純粋な日本詩ではなく、上田敏という人がフランスのヴェルレーヌの詩を翻訳したものだ。翻訳詩集「(かい)(ちょう)(おん)」に収められているそうである。

 私は小学生の頃からこの詩を知っていた。詩が好きだったからではない。小学生向けの、たしか、「スパイの秘密」という娯楽本にこの詩が載っていたのだ。なぜ「スパイの秘密」なんていう、しかも小学生向けの本にこんな大人びた詩が載っていたのかと言うと、「スパイ」―「暗号」という関連で、第2次世界大戦の欧州戦線、連合軍のノルマンディ上陸作戦に先立って、フランスのレジスタンスたちに向けてイギリスから放送された「上陸作戦決行近し」の暗号が、この詩の冒頭「秋の日の/(ヴィ)オロンの/ためいきの」で、「上陸作戦下令さる」(D-Day)が「身にしみて/ひたぶるに/うら悲し。」であった、と紹介されていたのである。

 何分、私も子供の頃であったので、「なんでフランス人が、日本の難しい言葉で書かれた詩を暗号にするんじゃい」などと思ったもので、すぐにフランスの詩を訳したものであることは知ったものの、今度は「なんで外国の詩をこんな昔の言葉で、俺ら子供向けの本に書くんじゃい」とも思ったものだ。それが印象に残り、50歳を過ぎた今でも、この詩の冒頭をそらんじていたわけである。

 三好達治の本書中での評論によれば、この訳詩は当時のフランス訳詞中の白眉とされたもので、翻訳そのものが日本の詩壇に与えた影響は極めて大きかったらしく、日本でヴェルレーヌの詩と言うと、この上田敏の翻訳をもってまず知られるのだそうである。

 ゆえに、子供向けの娯楽本にまで、この訳詞が引用されたようだ。

p.409より

見るとなく涙ながれぬ。
かの小鳥
在ればまた来て、
茨のなかの紅き実を(ついば)み去るを。
あはれまた、
啄み去るを。

女子(をみなご)
()はかなし、
のたまはぬ汝はかなし、
ただひとつ、
一言(ひとこと)のわれをおもふと。

 天才・北原白秋の「思ひ出」という詩集からの抜粋である。

 三好達治は、本書中で北原白秋についてかなりのページ数を割き、もはや「ベタ褒め」と言ってよいほどの激賞ぶりである。

 実際、私などの素人から見てさえ、白秋の詩は他の近代詩のどれと並べても群を抜いているように感じられる。

 次は第15巻である。「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」の5作品が収載されている。

 えっらくまた、共産主義色が濃厚な一冊である。私は右翼であるが、読み進めてみようではないか。私は夜間大学を中退したのだが、学部は経済学部で、「マル経」を学んだことも、実はあるのだ。