読書

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 引き続き60年前の古書を読んでいる。平凡社の「世界教養全集」だ。目下3冊目の「第3」を読んでいる。

 「第3」には収載作品が五つある。その内、倉田百三の「愛と認識との出発」、鈴木大拙の「無心ということ」、芥川龍之介の「侏儒(しゅじゅ)の言葉」の三つを読み終わった。

 「侏儒の言葉」は、子供の頃にこの本で一度読んだことがある。その頃は皮肉な感じが好もしく感じられたが、今はそれを、あまり魅力とは感じられなくなっている。子供の頃の読後感に比べると、どうしても、自殺直前に書かれたという作品の性格の方が、皮肉さよりも気になってしまう。

 作品の後半に向かって「芥川龍之介が堕ちていく感じ」が、大人になって芥川龍之介の自殺のことを、子供の頃よりも深刻な事件として再認識している私には、何やら薄ら恐ろしく感じられ、寒々とした荒涼を覚えざるを得ない。

言葉
綵衣(さいい)

 「美しい模様のある衣服」とか「種々の色で模様を施した衣」等と辞書等にはある。

 しかし、どうやらそれだけの意味ではないようだ。漢籍に「綵衣(もっ)て親を(たのしま)しむ」などとあり、これはある人が老年になっても親を楽しませるために子供の服を着て(じゃ)れて見せたという親孝行の故事である。

 そこからすると、この「綵衣」という言葉には、「幼児が着る明るい色の衣服」というような意味合いがあるようだ。

筋斗(きんと)

 「筋斗(きんと)」と聞いてすぐに思い浮かぶのは西遊記だ。孫悟空が乗る自由自在のエア・ビークルが「筋斗雲(きんとうん)」である。

 しかし、今「筋斗雲」で検索すると、大ヒットアニメ「ドラゴンボール」に関することばかりが出てくる。

 「ドラゴンボール」については、私はよく知らないから話を戻す。

 単に「筋斗」という場合は、これは筋斗雲のことではない。

 「筋」というのは「觔」の別字だそうな。筋斗雲も本当は「觔斗雲」と書くのが正しいらしい。で、この「觔」というのは、木を切る道具のことだそうである。「頭が重く柄が軽い道具」らしい、ということまではネットでわかるが、どのような形のどういう物かまではよくわからない。

 さておき、この道具は頭が重いために「くるくるとよく回る」ものだそうである。回して使う物なのかどうかもよくわからないが、ともかくそういうものだそうだ。そう言えば、頭が大きくしっぽが小さいオタマジャクシのことを「蝌斗(かと)」と書くが、このことと関係があるかも知れぬ。

 ともあれ、上述のようなことから、「とんぼ返りを打つ」ことを「筋斗を打つ」と言うそうな。「筋斗」とだけ書いて「とんぼ」と()ませる例もあるようだ。

(『侏儒の言葉』(芥川龍之介)から引用。他のBlockquoteも特記しない場合同じ。)

 わたしはこの綵衣(さいい)(まと)い、この筋斗(きんと)()(けん)じ、この太平(たいへい)を楽しんでいれば不足のない侏儒(しゅじゅ)でございます。

 文脈から推し測るに、「侏儒(しゅじゅ)」というと辞書的には「こびと」とあるが、ここで言う「侏儒」は、お祭りや盛り場で軽業(かるわざ)を見せて生業(なりわい)にしているような道化者、ピエロとか芸人などのことを言っているようだ。これが派手な「綵衣」を着て、「筋斗の戯」、つまりとんぼ返りなどの軽業を見せているわけである。「綵衣」にせよ、子供のような面白おかしい服、というような意味合いを含めているのだと思われる。

 更に前後の文脈を読むと、要するに芥川龍之介は志も何も持たない鼓腹(こふく)撃壌(げきじょう)太平楽(たいへいらく)の「賤業の者」の代表として「侏儒」を選んでいるように思う。

 そして、作品を「侏儒の言葉」と題しているのは、もちろん反語的皮肉であろう。

管鮑(かんぽう)の交わり

 これは学校の国語で習うから、確認は無用だ。次のサイトさんに詳しい。

……(いにし)えの管鮑(かんぽう)(まじ)わり(いえど)破綻(はたん)を生ぜずにはいなかったであろう。

啓吉の誘惑

 文中にも菊池寛の作品であることは触れられている。

 しかし、この「啓吉の誘惑」なる作品のあらすじは、ネットでチョイと検索したくらいでは出てこず、また作品も青空文庫等にはない。無料(タダ)では確認できないような感じがする。

 しかし、ご安心あれ。「啓吉の誘惑」は、「国会図書館デジタルコレクション」を使えば、無料で読むことができる。

 「啓吉の誘惑」は、上の「啓吉物語」の後ろの方、401ページから収録されている。「コマ番号」は全245コマ中第207コマから229コマまでだ。

 短編で、すぐ読める分量だ。私もたった今読んでみた。

 なるほど、触れられている通りの作品である。題名からだと啓吉という人が誰かを誘惑した物語であるように感じられるが、そうではなく、啓吉が誘惑を感じる、あるいは誘惑される、という筋書きで、むしろ「啓吉の『誘惑』」と括弧つきで題するか、単に「誘惑」とのみ題するか、どちらかが相応(ふさわ)しいような内容だ。

 以下「啓吉の誘惑」のあらすじ(ネタバレ注意)

 作家の啓吉は妻と幼児の三人家族で暮らしている。育児も手がかかって大変であるため、かねがね女中を雇い入れたいと考えていた。

 そこへ啓吉のファンであるという美しい女が雇ってほしいと訪ねて来る。地方から上京してきたその女は妻とも打ち解けて仲良くなり、歓迎されて啓吉の家の女中となる。やがて、啓吉はその女の無邪気さに心惹かれてゆく。

 女は妻にも気に入られているため、啓吉は妻公認で女を連れて浅草へオペラを見に行くことになる。その際、女の着物が地方から着てきたままのみすぼらしいものだったので、妻は快く女に着物を貸す。

 オペラの帰り、女と夜の隅田川辺りを歩いた啓吉は、夜のムードもあって恋愛の感情が女に対して高まるのを覚える。しかし、女の着物が妻からの借り着であるのを見、妻のことを考え直して自制する。

 やがて女は地方へ帰ってしまう。

 しばらく経って、風の噂に、その地方では女の評判は好ましくなく、「高級淫売」ではないかとの推測もあることを啓吉は聞き、嫌な後味を感じるとともに、女の誘惑に乗らず、自制してよかったとも思うのであった。

 (ちな)みに菊池寛はこの啓吉という人物が登場する作品をシリーズで残しており、ファンはこれを「啓吉もの」と称するようである。

 少なくとも女人の服装は女人(にょにん)自身の一部である。啓吉(けいきち)誘惑(ゆうわく)(おちい)らなかったのは勿論道念にも依ったのであろう。

庸才(ようさい)

 「凡才」と読み替えても差し支えない。

 しかし、「凡庸」などという言葉などもあるものの、「凡才」というほどには馬鹿者・愚か者的な蔑視感はなく、なんとはない才能もなくはないが、全然人並みだ、というようなニュアンスを含めて「庸才」と言っているように思う。

 庸才(ようさい)の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。

木に()って魚を求む

 意味は簡単で、「手段を誤っていること」だ。

 だが、文中での用法はなかなか反語的で味わい深いというか、理解しづらいところがある。

「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に()って魚を求むる論法』よりも信用を(はく)(やす)いかと思います。……

偏頗(へんぱ)

 「かたよること」だ。

 「偏」は「かたよる」だが、「頗」は「(すこぶ)る」とも「(かたよ)る」とも、どちらでも()む。

  •  (漢字ペディア)

 まあ、「すこぶる偏り、(かたよ)ること」で間違いはない。

……『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』は痛快を極めている代りに、時には偏頗(へんぱ)の疑いを招かないとも限りません。

 この難しい「偏頗」なる言葉、「偏頗返済」「偏頗行為」などと言って、債権~債務などにかかわる法律用語である。

陳套(ちんとう)

 「陳」という字は仮名を「い」と送って「(ふる)い」と()み、又同様に「ねる」と送って「()ねる」とも訓む。「(ひね)る」の意ではなく、「()ねる」の意である。従って、「陳腐」というよく見聞きする言葉の意味を言えば、「古くて腐り果てている」という程のことになろうか。

 一方、「(とう)」という字は「外套(がいとう)」「手套(しゅとう)(てぶくろ)」という言葉からもわかるように、覆い、重ねることを言う。こうしたことを踏まえつつ、「常套句」という言葉を味わってみるとわかる通り、「套」という字には、何度も何度も同じように繰り返し重ねるという意味が生じる。そこで、「套」という字そのものにも、何度も同じことを繰り返していて古臭い、という意味を含めるようになった。

 こうした意味・字義から、「陳套語」とは、古くて古臭い、新鮮味もクソもない言葉のことを言う。

……東洋の画家には(いま)(かつ)落款(らくかん)の場所を軽視したるものはない。落款の場所を注意せよなどというのは陳套(ちんとう)()である。それを特筆するムアァを思うと、(そぞろ)に東西の差を感ぜざるを得ない。

雷霆(らいてい)

 「雷」は言わずと知れた「カミナリ」であるが、「(てい)」という字にも同じく雷の意味がある。

……哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆の怒りを(やわ)らげる(わけ)には()かないであろうか?

 「雷のような怒り」と書けばよいところをわざわざ「雷霆の怒り」と書くのは、雷よりもなお雷であるところの大きな激しさ、また文学上の誇張・拡張・表現をガッチリと詰めた書き方と思えばよかろうか。

一籌(いっちゅう)()する

 「籌」とは竹でできた算木のことだそうだ。

 「輸」の字の方には、「輸送」という言葉があることから見ても解る通り、「おくる」「はこぶ」という意味があるが、また別に「負ける」「敗れる」の意味があるそうな。

 その心は、(いくさ)などに敗れ、財物をそっくり「もっていかれてしまう」(すなわち輸送されてしまう)というところにある。それで、「輸」という字には「負け」という意味が生じてくる。

 ここで、「一籌を輸する」である。上記を併せて味わうと解るように、「ひとつ、もっていかれてしまう」即ち「一歩負ける」という意味なのである。

 わたしも(また)あらゆる芸術家のように(むし)(うそ)には巧みだった。がいつも彼女には一籌を輸する外はなかった。彼女は実に去年の譃をも五分前の譃のように覚えていた。

恒産(こうさん)恒心(こうしん)

 一定の収入(恒産)のない者は安定した穏やかな心や変わらぬ忠誠心(恒心)を持つことは難しい、という意味で「恒産なくして恒心無し」との故事成語がある。「衣食足りて礼節を知る」と似たような意味であろう。

 (ただ)し、出典の漢籍「孟子」には、「たとえ恒産がなくても恒心を持っているのは立派な人のみであり、一般の人々にこれは無理というものである」というようなことが書かれていて、もう少し複雑な意味のことを言っているようだ。

 恒産(こうさん)のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日(こんにち)では恒産のあるものは(むし)ろ恒心のないものらしい。

メーテルリンク

 ノーベル文学賞作家。江戸時代~大東亜戦争終戦後くらいまで。

……「知慧と運命」を書いたメーテルリンクも知慧や運命を知らなかった。

新生

 「新生」というのは、ここでは島崎藤村の同題の小説のことを指しているが、芥川龍之介はこれをたった数語で痛烈に批評している。

 「新生」読後

 果たして「新生」はあったであろうか?

 島崎藤村は相当にダメな人物で、よりにもよって自分の姪を妊娠させてフランスへ逃亡し、(あまつさ)えそれを小説「新生」に書いて発表し、自分だけ目立ちまくって名声を得、姪の人生はメチャクチャにしてしまった。

 当時、芥川龍之介はこのことを批判して()まなかった。このあたりのことは、当時の文壇では知れ渡った醜聞(スキャンダル)であったようである。

ストリントベリィ

 スウェーデンの変人小説家。ニーチェの影響を受けていた。

 ストリントベリィの生涯の悲劇は「観覧随意」だった悲劇である。

マインレンデル

 ニーチェがむしろ愛しているふしのある、ドイツの哲学家。

 マインレンデル(すこぶ)る正確に死の魅力(みりょく)を記述している。

スウィツル

 「スウィツル」。これがまた、サッパリわからない。

 或日本人の言葉

 我にスウィツルを与えよ。(しか)らずんば言論の自由を与えよ。

 検索してみると、どうやら「スイッツル」というのは古い「スイス」の呼び方のようではあるのだが、だが、もしそうだとして「私にスイスを下さい。そうでないなら言論の自由を下さい」というふうにこの文を理解しても、その真意や背景がまるで判らないので、意味もサッパリ解らない。

ジュピター

 またしても、サッパリわからない。

 いや、ジュピターは言わずと知れた「木星」、ローマ神話の主神「ユピテル」のことではあるのだが、問題はそれが現れる文脈である。

 希臘人

 復讐(ふくしゅう)の神をジュピターの上に置いた希臘(ギリシャ)人よ。君たちは何も()も知り(つく)していた。

 ローマ神話をさかのぼるギリシャ神話で、復讐神をジュピターの上に置いていたのかどうかがわからない。だから、この一節の言わんとするところが全然わからない。

 ともかく、そんなことで「侏儒の言葉」は全部読み終わった。

 目下、次の著作、三木清の「人生論ノート」を読み進めつつある。半分ほど読んだろうか。

読書

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 平凡社の世界教養全集第3巻のうち、最初の収録、倉田百三の「愛と認識との出発」を読み終わる。

 現代かなづかいに直してあるので読みにくくはないが、内容は苛烈・苦悩・極端・懊悩・煩悶・煩悩と言ったもので、私に限っては心地よい共感や同感はなかった。「こういう腹の立つ若い奴って、実際にいるよな」などとも思えて、なじめない。

 キリスト教者で文芸評論家の佐古純一郎は解説において本作を「誰しもが若き日の過程において通る道筋」とでも言わぬばかりに大肯定しているのだが、若き日の私はこんな小難しくてかつ惰弱(だじゃく)な性情は持っていなかったし、そんな奴は嫌いでもあった。

 しかも作品を通底しているのはキリスト教礼讃である。それも、まるで、「畢竟人間など皆原罪を持つのだから、生まれ落ちた瞬間から詫び続けろ、謝れ!」と、こっちを睨み据え、唸り、迫り続けているように感じられる。そこには切々とした詩というものがまるでない。

 性欲を霊的なものと勘違いしたような興奮を「異性の内に自己を見出さんとする心」に書き付けたかと思えば、あっという間に冷めて、一部が表題ともなっている「恋を失うた者の歩む道――愛と認識との出発――」では、所詮ただの失恋を、またイジイジ恋々(れんれん)と言い訳している。見ちゃおれないほど痛い。

 中でも、「地上の男女」なる一篇などは、私にとっては狂人の所説、しかも完全に狂っていないだけに始末の悪い屁理屈にしか思えず、到底共感することはできなかった。こんな世迷言を若者に薦めることも到底いたしかねる。

 なによりも、この著作は女性を蔑んでいる。女性を大事なものの如くに気を付けて文章を書き付けていながら、その蔑視の内心がまるで隠せていない。江戸時代の文章であるならまだしも、せいぜい戦前の著作でこれでは、落胆せざるを得ない。

 こんなものがよく記念せられるべき古典として後世に残ったものだと思う。

 ただ一点だけ、少しここは良いかな、と同意できたのは、キリスト教を全面狂信というのではなしに、汎宗教のようにとらえ、同時に仏教、特に浄土真宗、親鸞と言った方向にも深い愛着を寄せていることである。実際、倉田百三の代表作「出家とその弟子」は親鸞伝をモチーフにした文学作品である。

言葉

 「愛と認識との出発」の文章は、今日び(きょうび)見かけない難解語のオンパレードである。漢字・漢語だけでなく、ドイツ語の哲学術語が多く使われ、前後のコンテキストだけに頼って読み進めることは極めて難しかった。辞書なしで読むのは無理である。通勤電車内の読書だから、まさか広辞苑・ドイツ語辞書・漢和辞典・英和辞典・和英辞典の5冊を担ぎ込むわけにもいかない。いきおい、スマホでネットの辞書を頼りながら読むこととなった。

オブスキュリチー

 Obscurity曖昧(あいまい)さ。

……身オブスキュリチーに隠るるとも自己の性格と仕事との価値を自ら認識して自ら満足しなくては、とても寂しい思索生活は永続しはしない。

(えら)

 これで「えらい」と訓むそうな。

……エミネンシイに対する欲求も無理とは言わない、がそこを忍耐しなくては豪い哲学者にはなれない。

エミネンシイ

 Eminency。傑出。

……後生だからエミネンシイとポピュラリチーとの欲求を抑制してくれたまえ。

向陵(こうりょう)

 向陵と言うのは、旧制一高のことだそうである。

……月日の((ママ))つのは早いものだ。君が向陵の人となってから、小一年になるではないか。

エルヘーベン

 Erheben。高揚。

 今年の私のこの心持は一層にエルヘーベンされたのである。

デスペレート

 Desperate。絶望、自暴自棄、やけ。

……君は(すく)なからず蕭殺(しょうさつ)たる色相とデスペレートな気分とを帯びてる((ママ))如く見えたからである。

インディフェレント

 Indifferent。無関心。

……私だって快楽にインディフェレントなほどに冷淡な男では万万ない。

自爾(みずから)

 これで「みずから」と訓む。連体詞のような副詞のような。

「現象の裡には始終物自爾(みずから)がくっついているのだから驚いた次の刹那にはその方へ廻って、その驚きを埋め合わせるほどの静けさが味わいたい」と私が言った。

 「始終物自爾」で始終(しじゅう)(もの)自爾(みずから)、である。

口を(かん)して

 「口を()じて」の誤植かな、とも思ったが、音読みどおりの「口を(かん)して」でよいようだ。

 私は口を(かん)してじっと考えた。((ママ))け放した障子の間から吹き込む夜風は又しても蚊帳の裾を翻した。

ザイン

 Sein。実在。

……自然は生死に関しては「ザイン」そのままを傲然として主張するのだ。

ヴント

 ヴィルヘルム・ヴント。

……氏はむしろヴント等と立脚地を同じくせる絶対論者である。

プラグマチズム

 Pragmatism。実用主義、実利主義。

……氏は誠にプラグマチズムの弊風を一身に集めた哲学者である。

Wollen(ウォルレン)Sollen(ゾルレン)

 主体と客体、主観と客観、というようなことだそうで、特に「Sollen」はドイツ語の難しいところであるようだ。自分の主張か、他人がそう主張しているか、というような解説もネット上にはある。

……実にこの本然の要求こそ我等自身の本体である。Wollenを離れてはSollenは無意義である。

斧鑿(ふさく)

 文字通り斧と(のみ)のことであり、転じて技巧のことを言うそうであるが、鑿の音読みが「サク」であるとは知らなかった。

  •  斧鑿(デジタル大辞泉)

……何等斧鑿の痕を((ママ))めざる純一無雑なる自然あるのみである。

Vorstellung

 フォーシュテルン。「表象」である。

……私はどう思っても主観のVorstellungとしての外は他人の存在を認めることができなかった。

Nachdenken・Vordenken

 ナハデンケン・フォーデンケン。内的な思考と他に関連する思考、とでも言うような意味か。特にVordenkenについては、抽象的な解しかなく、なんだかよくわからない。

……苦しんでも悶えてもいい考えは出なかった。先人の残した足跡を辿って、わずかにnachdenkenするばかりで、自ら進んでvordenkenすることなどはできなかった。

 わかりにくいぞ百三ッ!(笑)。

Leben・Denken

 リーブン。「生活」である。

 デンケン。「思考」である。

……私は子供心にも何か物を考えるような人になりたいと思って大きくなった。私はlebenせんためにはdenkenしなければならないと思った。

 ……いや、あの、百三(モモゾー)さぁ、なんで「生きていくためには思考しなければならないと思った」ではダメなわけ?変だよ、お前(笑)。

裂罅(れっか)

 なんと難しい、一般の日本語の文脈では見かけぬ単語であることか。しかし意味はそんなに難しくなく、「裂けてできた隙間」のことである。「裂」はそのままの意味、「()」は訓読みすれば「(ひび)」と()む。

……知識と情意とは相背いてる((ママ))。私の生命には裂罅がある。生々(なまなま)とした割れ目がある。

 別件だが、上の引用の「生々とした」という語が変換できなかったので、IMEに素早く登録しようとして品詞で困った。「生々」が語幹なら、これは「だろ・だっ・で・に……」の活用が完全にできない不完全形容動詞になるが、「生々し」が語幹になると「かろ・かっ・く・い・い……」と活用できる形容詞になる。

 似た単語としては「堂々」がある。普通の形容動詞のように「堂々だろう」なんていう使い方はないのだが、これは口語文法ではうまく整理できない。ところが、文語文法だと「堂々たる」「堂々たり」という「タリ」活用というのがあって、これは形容動詞である。では「生々」は「生々たる」なんて言い方があるかというとどうも怪しく、分類が難しい。

 「生々と」までを語幹としてその後を活用させず、「する」を動詞と見れば「副詞」だ、という整理もできる。

(ひそ)める

 「屏風(びょうぶ)」の「屏」の字に「める」を送った言葉である。

 この()み方はどうもネットの辞書等には見当たらない。「屏」の訓読みは「(おお)う・(かき)(しりぞ)く・(しりぞ)ける・(ついたて)」が一般的であるようだ。

 しかし、前後の文脈から言って「ひそめる」が最も妥当な読み方だと思う。

 私は何も読まず、何も書かず、ただ家の中にごろごろしたり、堪えかねては山を徘徊したりした。私の生命は呼吸を屏めて何物かを凝視していた。

コンヴェンショナル

 Conventional。月並み・ありきたり。

 私の傍を種々なる女の影が通りすぎた。私はまず女のコンベンショナルなのに驚いた。

ツァルト

 Zart。優しい。

……自分が今日キリスト者に対して、あるツァルトな感情を抱いているのは君に負う処が多い。

ウィッセンシャフトリッヒ

Wissenschaftlich。科学的。

……私はもっとしっかり(、、、、)した歩調で歩けるであろう。それには私の思索をもっとウィッセンシャフトリッヒにしなければならない。

……なんで普通に「科学的」って書かないかな、百三ェ……(笑)。

シュルド

 Schuld。有罪、借金、責任、……等々の意味がある。

……自分のある友は「彼と交わってよかったことは無い。自分は彼との交わりをシュルドとして感ずる」と言ったそうである。

 前後の文脈から言って「責任」「負い目」「責め」というふうに解するのが適当であろうか。

ベギールデ・ミスチーヴァス

 Begierde。欲望。

 Mischievous。いたずらな。人を傷つけるような。

……自分のやり方でこの少女の運命はいかに傷つけられるかも知れない。いわんやときにはベギールデが働いたり、ミスチーヴァスな気持ちになりかねない自分等が、平気で少女に対することができようか。

遑々(こうこう)として

 「煌々として」かな、と思ったら全然違っていて、部首が「しんにょう」である。意味も全然違う。「煌々」は「きらきら光り輝く様子」のことだが、「遑々として」というのは慌ただしく心が落ち着かないことを言う。

……親鸞はその夢を追うて九十歳まで遑々として生きたのであろうか。

Tugend

 トゥゲント。徳。

……社会に階級があるのが不服なのはその階級がTugendの高下に従っていないからである。

インニッヒ

 innig。心からの、真心の、誠実な、等々の意味がある。

 第四、肉交したために愛がインニッヒになるのは肉交の愛であることとは別事である。

 しかし、この文脈から言って、ここは「睦まじい」というふうに解するのが適切か。

Seelenunglücklichkeit

 ジーレンオングリックリッヒカイト。魂の不幸。

 文中ではSeelenunglücklichkeitと長大な一単語として書かれてあるが、Seelen unglücklichkeitという二つの言葉であるようだ。

……かかるseelenunglücklichkeitは人間が、真に人間として願うべき願いが満たされない地上の運命を感ずるところから起こる。

レフュージ

 Refuge。避難所。

……仕事場にあっても、家庭にあっても、教会にあっても、絶えず心がいらいらする、レフュージを芸術に求むれば胸を刺し貫くようなことが何の痛ましげも、なだめるような調子もなく、むしろそれを喜ぶように書いてある。

 文脈から言って「逃げ道」とでも解するのが適切か。

イルネーチュアード

 Ill-natured。意地の悪い。不健全な。

……文壇はその門をくぐる人をイルネーチュアードにさせる空気を醸しているようにみえる。

 これも前後の文脈から言って、「意地悪」と解するのが適切だろう。それにしても、その数行前には

 一、私の尊敬している少数の人々も周囲に対するときは意地の悪い(、、、、、)文章を書く。

……という文章が現れるのだが、ではなんで百三(ヒャクゾー)っち、ここでは「意地悪」と書かずにわざわざ「イルネーチュアード」なんて書くのか。まるで意味がワカンネェ(笑)。

ハンブル

 Humble。謙虚な。控えめな。謙遜な。

 『出家とその弟子』がこのたび当地で上演されることについては、私はいま本当にハンブルな心持になっている。

ハンドルング

 Handlung。筋書き。

……それもハンドルングばかりに動かされるようなことではあの作は面白くないに違いない。

次の収録作

 さて、平凡社世界教養全集第3の次の収録作は、鈴木大拙(だいせつ)の「無心と言うこと」である。今度は少し爽やかな読書になるだろうと思う。倉田百三は私には合わない。