斎景漫描

投稿日:

 ここしばらく冬麗(ふゆうら)らかな好日(こうじつ)が続いていたが、昨日の朝は少し雨が降った。だがすぐに晴れ、雲の間に青空が覗いた。通夜と葬儀を通じて弔問客の足許(あしもと)を空模様が困らせることはなかった。

 位牌を捧げ持って斎場へ向かう。マイクロバスの車窓からふと前を見ると、私が子供の頃住んでいた家の跡のあたりを通り過ぎようとしていることがわかった。

 すっかり耄碌(もうろく)してしまった92歳の父に喪主をつとめることは無理で、私が喪主をした。施主は姉につとめてもらった。

 私はこの斎場の近くの田出井(たでい)町というところで育った。しかしそれは15歳の頃までで、かれこれ40年以上も前のことである。

 育った家のあった場所から数百メートルも離れると、もう今いるのがどこだかすら分からない。子供の行動範囲と言うのは狭く、改めて地図を見ると中学生までの私の行動範囲はせいぜい500メートル四方の枠に収まる(ほど)でしかない。その500メートルの枠から外へ出ると当時も今も全然知らない街だ。500メートルの枠の中でさえ40年も経つと街並みが大きく変わり、見覚えのあるものなどほとんど残っていない。

 見覚えのある数少ない地物の一つである陸橋をマイクロバスが登っていく。JR阪和線を渡る陸橋だ。陸橋を降りてきて三叉路を(ゆる)く右へ曲がる直前まで、自分と母に(ゆかり)のある場所へ向かっていることが私には分からなかった。

 斎場(さいじょう)に着く。(さかい)市立(しりつ)斎場というのが正式な名称だが、土地の人はみな「金岡(かなおか)焼場(やきば)」などという。すぐそばにあるJR阪和線の駅は「堺市駅」というが、より繁華な堺の旧市街に近い南海本線の「堺駅」と区別するため、JRのこの駅あたりは単に「市駅(しえき)のほう」と呼ばれ、土地っ子は「ちょっと田舎の駅でんなァ……」というふうなニュアンスをその呼び名に込める。私が生まれる前の昭和40年までは「金岡駅」と呼ばれていたので、大人たちは

「堺市駅……? どこや、それ」

「ああ、昔の金岡やがな」

「なんや金岡かいな、(ハナ)からそない言うてくれたら早いのに」

なぞという会話を交わしていたものだ。だから、土地っ子は斎場のことを殊更(ことさら)「金岡の焼場」などと呼びたがる。

 金岡の焼場は戦前からあった大きな火葬場だ。戦時中の大阪大空襲の時や、近くは阪神淡路大震災の時など大変な稼働であったという。この斎場は私が子供の頃の遊び場でもあった。私は怖がりのくせに火葬場や墓地で遊ぶのが好きという変な子だったのだ。斎場や墓地などと言う薄気味の悪いところに好きこのんで立ち()る人などあまりいないから、門などいつも開け放しで、火葬場や隣接している墓地に子供が入り込もうがお墓の香華(こうげ)燈明(とうみょう)で遊ぼうがお構いなしであった。

 数十年前、堺市駅の周辺は再開発されてツイン・タワーのマンションが建った。斎場も建て替わり、昔あった場所から少し西側に移された。今は壮麗な大施設になっている。無論、昔のように子供が入り込むことなど無理である。

 この堺のはずれの地域を代表する大きなものとして「仁德天皇陵」もさることながら「大阪刑務所」を忘れてはならないだろう。かつての大阪刑務所は明治時代に建てられた煉瓦造りの見事な建築だったが、40年ほど前に取り壊され、近代的な建築になった。父はその刑務所の職員だった。私が田出井町で育ったというのも大阪刑務所の官舎がそこにあったからである。今の斎場のある辺りも昔は刑務所の敷地で、野球のグラウンドやごみの廃棄場、仮出所前の懲役囚が働く農場や豚小屋があった。

 15歳頃までの年月は長く感じる。私も随分長いことこのあたりで暮らしたように感じている。しかし、亡くなった母が田出井町で暮らしたのは、私が生まれる前後から15年ほどのことに過ぎない。私は中学校を出ると自衛隊に入り、堺を離れた。その後間もなく家族は中百舌鳥に引っ越したので、大人であった母にとっては、田出井町で暮らしたのはわずかな期間でしかなかったろう。

 母の遺体を炉室へ送る。昔は日暮れから焼き始め、一晩かかったものだというし、私が若い頃も5~6時間はかかったので、骨上げの前に一旦帰宅したり葬祭場へ引き上げたりしたものだったが、今の火葬場は高性能で、せいぜい2時間ほどしかかからない。弔問客のほとんどはそのまま斎場の待合室に来て骨上げまで付き合ってくれるから、その間の時間は精進落としを食べるのにちょうどよい。

 精進落としの数をどこでどう間違ったか、ひとつ少なく注文してしまい、慌てて私の分を弔問客に振る舞った。適当にその場を誤魔化し、用事でもしているふりをして出入りし、弔問客に気をつかわせないようにした。人々もどうやら「喪主ってのは忙しいのだな、食べている暇がないみたいだ」と思ってくれたようである。実際、忙しかった。

 しかし、母は高齢で亡くなったから、伯父伯母も同時に高齢であり、残念ながら葬儀には来られない人ばかりだ。そのため弔問客はさして多くない。たかだか十数名程度の食事の数を間違えているようでは、私は大人失格だ。とは言うものの、姉と二人でそれぞれ別に弔問客の名簿を作成し、精進落としを注文する際に二つの名簿を突き合わせてダブルチェックにかけ、間違いないことを確かめてあったのだがどうも腑に落ちない。待合室で食べている人々の顔を一人一人しげしげと見て確かめたが、欠けている人も多い人もない。

 後に、全部終わってから姉と二人で、なんで精進落としが足りなかったのか名簿を突き合わせて確かめたが、何度数えても間違いがないのにやっぱり一人分足りない。そのうち、姉が「いやっ、怖い!」などと言いはじめ、私も何か香典泥棒のような者が紛れ込んででもいたか、まさか「妖怪葬式あまり」などというお化けが出て食ってしまったのかなどと思って少し怖くなった。だが、なんのことはない、自分の親父(おやじ)を名簿に書いていなかっただけのことだった。父が母の葬儀に参列しているのがあまりにも当たり前すぎて、常に勘定に入っているから名簿に書き忘れていたのである。

 昔なら故人に「陰膳(かげぜん)」を()て、もし数が足りなければ「お下がり」と称して陰膳を予備にしたものだと聞くが、今はそんな(なら)わしも(すた)れた。陰膳を余らせて捨てればそれこそ「食品廃棄ロス」などと言われかねない。通夜振舞いも新型コロナウイルス蔓延を警戒して出さなかった。窮屈で下らない世の中である。

 斎場の様子は様変わりしたが、周辺の雑木林などは昔のままのものが部分的に残されているようだ。ブラインドを開けてもらって外を眺めると、紅葉黄落が眺められた。

 雑木林の木々の間に美しい黒猫が物憂げな香箱を作っている。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。