応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.47

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 しばらくの間、夜勤をしたり帰ってきたり、と不規則な仕事が続いていたのだが、ようやくひと段落し、今日はその代休だった。

 子供が学校に行ってから家内と二人で出かけ、以前に一度行ったことのある、「くつろぎ茶房・時をとめて」という店で御飯を食べた。明後日は家内の誕生日だ。御飯のあと、家内が選ぶものを誕生日プレゼントに買ってやることにし、「越谷レイクタウン」へ行って一緒に選んだ。家内が選んだのは鞄だった。

 帰ってきて「エリーゼのために」を練習する。10回ばかりも弾いたがどうしてもミスタッチのない演奏ができない。

 「エリーゼのために」、通して弾けば3分もかからない。だが一体、ピアノ演奏に限らず、私は3分と言う短い時間、誤りなく何かをするということが、出来るのであろうか。

 改めて考えると、一日中、毎時毎分、間違ってばかりであるような気がしてきた。朝起きるなり身支度の順序を誤り、おはようの挨拶を間違え、屁なんかひってしまい、家を出れば近所の交差点の信号は無視して横断、雑踏で人に道をゆずらず、駅で他人にぶつかって詫びも言わず、電車で年寄りに席を譲らず、職場について挨拶を忘れ、姿勢悪く席に座り、服装が乱れ、決められただけのスピードで仕事を進捗させず、同僚上司に間違ったことを言ってしまい、手書きで何か文書を作れば、3文字目にはもう漢字を間違っている、お茶をこぼしコーヒーをこぼし、弁当を食べこぼし・・・。こうして普段の一日をたどっていくと、たった3分の間、間違いをせず生きているのなど寝ているときだけなのではないか、否、寝ているときですら姿勢が悪かったり何か間違った夢を見たり、誤っているのかもしれないなどと思える。

 もし今、手近の新聞か雑誌を手に取り、どこでもいいから3分間朗読せよと言われてそれをしたら、必ず1箇所以上はどこかで噛むかトチるかしてしまうだろう。

 たった3分の「エリーゼのために」の演奏を間違いなくすることが出来ない私だ。それは私の生き方に比例している。

 思えば誤りを漫然と許容して歩んできた人生であることだ。私が自分に甘いため、他人や身内にも私は甘い。だから、私にかかわる人々は、私を優しい男だと思っている。だが違う。私は単に甘いだけだ。