こんなことを書いたのだが……
- ボロ靴と不平等条約(このブログ)
……意外に、「不平等条約と卸問屋―問屋―小売、そんなもん、何が関係あるんだ?」と問われるような気もするから、そこを記しておきたい。
- 黒船以前の日本の「商」
- 日本の昔の身分制度は「士・農・工・商」
- つまり、商人は下層というより、政府(幕府)からは税収源としては無視されていた状態。(米本位制経済なので、最重要なのは農民からの年貢。)
- 長崎、堺などの直轄領で商人の自治が許されていたのは、身分の低さゆえの「政府からの無視」が一要因であった。
- ヨーロッパ等では貿易や侵略から富を得るために商人はなくてなはらない存在で、政府から重要視され、大商人は貴族に肩をならべていた。つまり、日本とは真逆。
- この「無視」のせいで、日本の商人たちは幕府から過剰な干渉をうけることがなかった。そのため、逆に商業制度をのびのびと発展させることができた。
- 日本の商人は江戸時代にはすでに銀行制度や通信制度を独自に発達させ、全国統一相場なども持ち、先物市場すらあった。度量衡や家屋の寸法まで、関西関東のちがいはあるにもせよ、全国規格化されていた。同じ時期のヨーロッパには、まだそんなものはないか、幼稚なものしかなかった。銀行制度だけは、イギリスのものがまさる。
- 同じ時期のヨーロッパをはるかに凌ぐ高度な商業の仕組みを持つに至った江戸時代の商人たちであったが、悲しいかな、鎖国であったために、商品は完全に国内飽和状態であり、売り手が低姿勢になる「買い手市場」が長く続いた。これは、現在の日本の商業のサービスの良さにもつながっている。数百年にわたる鎖国が日本のサービスのクオリティを高からしめた。
- 商品が飽和状態であったため、同じ一つのものにできるだけ多くの人がぶら下がってその利益を享受する仕組みが発達した。大問屋、卸問屋、問屋、仲卸、卸、小売…といったヒエラルキーが頑強につくられた。そのヒエラルキーのどこかにいる限りは、ものを売って食っていける。
- 不平等条約以来
- 黒船―開国、というのは輝かしいグローバリズムでも何でもなく、欧米白人による収奪の開始であった。
- 関税自主権がなく、教科書に出てくる通商条約では「5%付帯条項」が厳しく約束され、5%を超える関税はつけることができなくなった。
- 条約後、日本の貿易収支は壊滅的な赤字となった。
- 明治維新後、明治時代を通じてこの不平等条約の撤廃について交渉が重ねられたが、米英仏蘭露独のいかなる国も日本など相手にもしなかった。その頃の5%付帯条項撤廃の条件を見ると、「キリスト教の宣教師に無条件に門戸を開く」などというのはまだしも、「すべての白人に無条件に土地の売買と相続を認めよ」「日本の裁判所の裁判官の半分以上は白人にすること」などといったキチガイのような条件がつけられており、到底飲めるものではなかった。
- 放置すると、ほとんど無関税で流入する欧米の製品のみで国内が塗りつぶされてしまう。
- そこで、政府は江戸時代を通じて培われてきた、巨大な商業ヒエラルキーに目をつけた。
- 輸入業者、超大商社、大商社、中間業者、…それやこれやを紆余曲折して欧米の商品が渡り歩く間に、またたく間に値段が上がり、その利益は国民であるところの商業ヒエラルキーの中を潤わせる。かつ、そんな高価なものに、最終消費者は「舶来は高いねえ」と見向きもしない。
- しかも、政府が関税をかけているのとは違う。政府が作り上げたのとは違う、江戸時代に商人がまことに民主的、自主的につくりあげた商業ヒエラルキーに乗せるだけで自然に値段が上がっているのだから、欧米列国はこれに文句をつけることができなかった。
- 日露戦争を経て、大正時代に不平等条約が撤廃されるまで、この密やかな抵抗と工夫は功を奏し、国内市場と産業を十分に育成することができた。条約撤廃時、十分な競争力が日本には培われていた。戦前、日本製の自転車が世界市場を席巻し、イギリス製の自転車を市場から駆逐し去ってしまったのだが、これは最近の自動車市場の状況に似ている。自転車の貿易摩擦はイギリスの怨恨となって沈潜し、太平洋戦争の遠因ともなった。
- 時間をポンと飛ばして、現代
- 今でも、アメリカ人はことあるごとに「日本の商業習慣は古臭く、中世的で、効率的でない。もっと開かれたビジネスをすべきだ。」と言っている。
さて、ここまで見てきてから、ネットでの商品流通を見てみる。
ネットでの流通は、中間段階の利益取得を最小限にするから、売り手はたくさん儲かるし、買い手は安く買える。つまりこの逆である。そのかわり、ひとつのものにぶら下がって食っていける人は少なくなる。就職氷河期などというが、こうしたことも無関係ではあるまい。
(この記事は、当時Facebookに書いたものである。)