戦争ルール雑想

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 欧米白人はかつて戦争を「馬鹿ばかりでも構わないから()(かく)人手さえ()き集めて並べればどうにかできる技術体系」にまで練り上げ、それで世界を席巻した。第1次欧州戦争頃までがそうであったと言っていい。それ以前は、如何に戦争マニアの欧米白人と(いえど)も、ノーブレス・オブリージュの高い精神性に裏打ちされた貴族と騎士の高度な技術がなくては戦争はできなかった。だが、彼らはそれを「馬鹿と馬鹿を効率よく殺し合わせる技術」にまで引き下げた。

 アジアはそうではなかった。極端な例として明治維新前までの日本を見ればわかる。百姓町人にとってみれば、「(いくさ)なんどというのはお(さむらい)様がなさることで、()(まえ)(ども)には鋤鍬(すきくわ)算盤(そろばん)のことは分かりましても、弓鉄砲(ゆみてっぽう)のこととなりますと、とんと……」というところである。それまでの日本人にとって、戦争は誰にでもできるものではなく、刀槍弓鉄砲のいずれもが長い期間の熟練と精神性を要する特殊技能であった。

 馬鹿でもなんとかなる殺し合いの技術というのは、言い換えれば「誰でも使える銃」すなわち狙って引き金を引きさえすれば女子供でもなんとかなる技術ということである。仮に、射撃が下手糞で2発に1発しか当てられぬ馬鹿兵士揃いでも、これは確率の算段で、10人がところ頭数を掻き集めて一斉に撃たせれば 1-(\cfrac{1}{2})^{10}=0.9990234375 という計算、つまり、99.9%の確率で、少なくとも1発は当てられる。銃の威力は強い。たとえ相手を殺せなくても、手の先であろうと足の先であろうと、体のどこにでもいいから当てさえすれば、それでもう相手は戦う力を失う。欧米白人が考え出したのはこういうこと、つまり「愚か者の殺し合い」である。

 だが、「遅れてきたアジア人ども」が、漸々(ようよう)白人流の「馬鹿でもできる戦争の()(かた)」を身につけて、よちよちと戦争をはじめるや、欧米白人は再びルールを変えてしまった。「特殊で高度な兵器を、しかも大量に駆使しなければ勝てない戦争」にしてしまったのだ。いまや、核兵器はもとより、宇宙船、航空機、艦船、各種地上用兵器はおろか、かつて「馬鹿でも使える兵器」の代表であった小銃(ライフル)ですら、相当な訓練を積まなければ素人には扱えない複雑なものになってしまっている。地域によって歴史は相前後するとは思うが、これが大日本帝国敗戦前後までのことと思ってよいだろう。

 殺す者だけではない。戦争の一方の参加者、殺される者の範囲に関するルールも、欧米白人は変えた。都市無差別爆撃を最初にやらかしたのは誰だと問うと、欧米白人はむきになって大日本帝国による渡洋爆撃、上海への強行空襲、南京だと言いたがるのだろうが、ゲルニカやロンドン、ベルリンのそれに比べれば、否、広島、長崎に比べれば、これなど実に行儀のよいものであった。

 自分が作ったルールで自分が苦しむ。愚かなことである。しかし、今の欧米白人は、自分が苦しんではいない。苦しんでいるのは他の人種である。欧米白人は戦争の世紀から涼しい顔で脱し、悠揚迫らざる物腰で楽をしている。悔しいと思うが、そういう成り行きなのであるから悔しがっても仕様(しょう)がない。

時事遅見

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訃報

 「ノストラダムスの大予言」で大ヒットした文筆家、五島勉氏が死去したそうである。

 祈冥福(めいふくをいのる)

 私などは当時小学生であったが、「立ち読み」が庶民の公然の娯楽であった頃でもあり、ゾクゾクしながらタダでこの本を読み(ふけ)ったものだ。今にして思うに、当時の個人経営の街の書店というのは、随分と寛容だったものである。そのかわりに、当時の大人の慣例として、その書店で大部の全集ものを購入するなどしていたのだと思う。

 私が最近読み耽っている平凡社の世界教養全集は、父から貰い受けたものだが、これも、父が街の書店との持ちつ持たれつの付き合いで買い込んだものではなかったろうか。

馬鹿なことを

 欧米土人に納豆のような高度な食品が食えるわけはあるまい。ハナッから笑止千万である。

 納豆は日本人のように高度な味覚を持つ選民によって賞玩されるものであって、毛唐にその価値を評論されるなど、不愉快そのものである。

はやぶさ2任務続行

 驚くべきその耐久性。驚愕。

購読者を愚弄してんじゃないよ(笑)

 な~にバカにしたようなこと書いてんのさ。数万の票を投じた有権者の多くは、毎日新聞の上得意客、購読者様だろうがってのよ。よくこんな取り澄ましたようなこと書いてトボけておれるよ。ネトウヨ煽ってんじゃないよ糞新聞が。

結果から言えば

 結果から言えば、日本政府の生ぬるくていい加減な「緊急事態風な国民の皆様へのお願い」と、諸外国が行った強制的で武力をも実際に国民に向けた「ロックダウン」との間には、それこそ霄壤(しょうじょう)(ただ)ならぬ逕庭(けいてい)があったと言えよう。無論、霄は日本で壤が諸外国だ。諸外国のロックダウンにはまるで意味がなかった。日本と英国の死者と感染者の数を比べて見たまえ。

 だが油断してはならぬ。夏休みに開放感に浸り、いい気になってあちこち出掛けたりなんかすれば、たちどころに数万人の感染者を生じて死者を出し、「日本人はやはり劣等で愚かな未開有色人であった」などと米英仏独伊の欧米土人どもから嘲笑の的になるばかりでなく、厳しく病気を制御しつつあるアジア諸国からも「ハハッ、やっぱり日本人など『半欧米土人』に過ぎなかった(笑)」と憫笑(びんしょう)されるだろう。

 オリンピックは中止されたが、そのかわりに、新コロによって思わぬ国威レースがスタートされたと言ってよい。また、私に言わせれば、欧米土人は核開発とその実戦使用、すなわち広島、長崎の惨劇が咎となり、彼らが信じる神の罰を受けて死につつあるのだ。歓喜のうちに罰を受け止めるがいい。

 更に書けば、神罰を神によるものならしめるのは人間の精神に他ならぬ。「精」に「神」と書いて「精神」という言葉は成る。日本人の神仏は文字通り人間の精髄にあるが、欧米人の神は人間の精髄にはない。その結果をこそ見ざらめや、というほどの気概を持ちたい。

時事抛向(ほうこう)

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なるほど、浮いた経費を従業員に還元するわけか

 なるほど、家で仕事すれば、勤め先の運用コストが下がらなければ道理にあわぬ。それを従業員に還元するというのは、確かに名案である。

「三密」はあたらず、「三業」と言うべし

 新型コロナウイルス蔓延の世相、「三密」なる言葉が出てきた。曰く、「密閉、密集、密接」を略して三密と言うのだそうな。

 私としては、まったくこの命名には不満である。

 私の宗旨は真言宗であるが、真言宗で三密と言うのはそのような不潔なことを言うのではない。仏の身体・言葉・心、すなわち聞き(がた)くして受け(がた)至高至尊(しこうしそん)の「(しん)()()」三つの働きを三密と呼ぶのである。

 新型コロナウイルス蔓延の原因を断ずるなら、むしろ「三業(さんごう)」になぞらえた方がよかろう。三業とは「身体の慾、言葉の災い、心の悩み」を言う。まさしく、いまや神仏に罰されようとしている人類に反省を迫る言葉ではあるまいか。密閉・密集・密接、これらすべて人間の身体の慾、言葉の災い、心の悩みの三業によって行われるものだ。

カルロス・ゴーンと新コロ

 カルロス・ゴーンが満を持して放とうとしていた自身がモデルのハリウッド映画は、思いがけぬ新コロ禍で完全にダメになった。もはやゴーン本人が新コロで死んで話題を提供しないと、興業的成功はないだろう。

新コロ禍後の欧米の野望

 新コロ禍で間違いなく欧米の力は縮減する。

 縮減を取り戻すべく、奴らは戦争を起こし、有色人種を抑圧減退させようとするであろうことは想像に難くない。

 これを未然に(くじ)き、彼らの復活を阻止することだ。縮減による反動で更に繁栄するが如き、どうあっても阻止すべきだろう。

 そうすれば、自由な世界が再びやってくる。

時事雑片

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この驚くべき後進性。欧米白人如き。

 土人、ですかな。家の中でも土足だしねえ。

 欧米白人は、今後も永久に「マスクは嫌だ」という生理的嫌悪感に固執して、バタバタと死に続けることだろう。気の毒だが、それは世界の平和のためになるとも言える。

米国人と言うのは、馬鹿なのかね

 米国では新型コロナウイルスが猖獗(しょうけつ)(きわ)め、既に1万6千人を超える人々が亡くなったという。感染者数ではなく、亡くなった人の数であるから、その恐ろしさは日本人が彼らをせせら笑っておれる(てい)のものではないと言わざるを得ない。深甚に失われた人命を哀悼したい。

 しかし、そのような国難の中、米国人たちは日本人に想像もできないことを突き進めようとしている。大統領選挙だ。

 これが日本だったら、選挙を先送りにするとか、さまざまな措置が講じられたことと思う。しかし、大国にしては動きの敏捷な米国政府も、大統領選の予定だけは止められないとは、なんとも憫笑すべき後進性ではないか。日本で喩えると、この「緊急事態宣言」の最中(さなか)に「内閣総辞職・衆参同時選」を敢行するようなものだ。ありえないだろう。

 人を死なせて「間接選挙制の皇帝を選ぶ」。まるで理解しがたい、アホな国情である。選挙がなけりゃ自動的に変なデブが選ばれる北朝鮮の方がまだマシなのではないか?。

しかし、アホというと日本人もアホの見本市である。

 さいたま市岩槻区表慈恩寺、無職、橋本佳朋容疑者(54)。

 本当に知能の低い奴はやり切れぬ。マスクがないなら自分で工夫して作るなりなんなり出来ぬものなのか。(よわい)五十、天命(てんめい)も過ぎた男が人騒がせな。

 真面目に働いて金を貯め、それを学費にして幼稚園から通いなおすがよかろう。

大林宣彦氏死去

 「時をかける少女」「ねらわれた学園」など、懐かしい。祈冥福(めいふくをいのる)

時事寸片

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よほど腹が立ったんだろうなあ

 思うに、こういうのって、記事通りの悪辣非道なドコモ側、って話ではなくて、根拠のない憶測ではあるけれども、客の方がよほど腹の立つ、態度の悪い者だったんだろうなあ、という想像が何となくつく。

 接客というのは、実に大変な仕事だ。

 逆に、こんなことが問題になるほうがおかしい、接客する側にも人格というものがある、日本の接客が丁寧過ぎるのだ、……というような論もある。

 日本の接客が諸外国に比べると過度なほどに丁寧な理由というのは、江戸時代の鎖国にまでその因を(さかのぼ)ることができると何かで読んだことがある。

 すなわち、鎖国のために商品の需給は完全に内向し、極端な供給過剰となったため、一つの商品にできるだけ多くの関係者がぶら下がって利益を得る構造が出来上がった。これは問屋、卸、仲卸、小売り、……といった再販方式や、傘の骨作り、渋塗り、組み立て、皮貼り、などと言った手工業製品の過度の分業などに表れた。当然、価格は上がる。そのため「買い手市場」を招き、売り手はとことん低姿勢を追及し、慇懃(いんぎん)を尽くして売ることに努めるようになった、ということだそうな。

 今に至って尚、日本の接客は極めて低姿勢である。

 逆に諸外国、特に欧米の接客は、客と対等に口をきき、尊大だったり、チップを要求したりする。客も、日本では「いらっしゃいませ」と店員が挨拶してもプイッと無視するが、欧米だと店員が「ハイ」と言うとあべこべに客の方で「ヘロゥ」と返したりする。これは重商主義時代のヨーロッパでは、商人は貴族の経済を支えるものとして地位が高く、「一般人より偉い人」ということになっていたから、というのも一因だという。日本の商人が、金は多く持っていても、「士農工商」ということで社会の低層に位置付けられていたのとは対照をなしていると思う。

 欧米の商人は、王や貴族の行う侵略により外需を得、商品、ひいては経済が侵略先を巻き込んで回るから、自国内で低姿勢になる必要などなかったわけである。

 遁走(トンズラ)をキメ込んだカルロス・ゴーンが、商人のくせして妙に自信たっぷりで尊大なのは、そのせいかもな、などと思う。

女房まで指名手配とは

 カルロス・ゴーンの逃走というと、これがまたなんだか、女房までが追い込みをかけられている。

 しかしまあ、アレだな、前の女房のリタ・ゴーンなんて、文春あたりの扱き(コキ)(おろ)し記事によると、日産の会社のカードで自分のレストランで使う食材なんか仕入れたりしてたと言うから、今の女房のキャロルにしたって、(いず)れ、後ろ暗いところも多いんだろ。

「寵愛」て(笑)

 しかし、どうでもいいことだけど、上の文春の記事、言葉が変だなあ。

提携交渉の際に企画室次長だった志賀は「ルノー派」だったことから、ゴーンに寵愛されたのだ。

 「寵愛」て……。オッサンの職場の話やろ?ホモかっちゅうねん(笑)。国王の後宮とか側室の話じゃねェんだから、ここは「重用された」とか、「気に入られた」というふうに書くべきだろうね。……っていうか、いや、もしかしてホンマに寵愛されてたのか?最近「おっさんずラブ」とかいうのが流行してるからなあ……。

 しかし、いくらダイバーシティってったって、モノには限度っちゅうもんがあるわな。時代によってその限度は変わるにしてもさ。

ホモで逮捕されたチューリング

 時事ではないけれど、ダイバーシティからの連想で、チューリングのことを思い出した。

 私など計算機関係の技術者にとって、英国が生んだ天才「アラン・チューリング」というのは、記憶しておくべき人物のひとりである。

 チューリングというと、「チューリング・マシン」「計算可能問題」等についての提唱(テーゼ)のほか、戦時中にドイツのエニグマ暗号を解く機械を開発したということで、イギリスにとっては救国の英雄とされている。

 で、このチューリング、戦後、逮捕された。その後、失意の内に自殺したと伝わる。

 その逮捕容疑が「ホモ」なんである。

 「へ?ホモで逮捕?!」と、若い方なんかは思うかもしれないが、そう、イギリスではごく最近まで、「ホモは犯罪」だったんである。ホモで逮捕されると、ホルモン剤なんかを注射され、強制的に治療されたんだそうである。

 多様性(ダイバーシティ)が尊重される今の世からは、まるっきり想像もつかないことだ。幕府の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)極まった江戸時代の日本ですら、「おかま」は別段違法ではなく、「陰間(かげま)茶屋」などというホモの淫売屋すら公然とあったのである。

 その後、ごく最近になって、イギリスの当局はチューリングの名誉を復活すべく、謝罪声明を出したのだそうな。

 私は未見であるが、チューリングについては、4~5年前に「イミテーション・ゲーム」という題で映画化されている。左のようにAmazon Prime Videoでも見ることができる。

 聞いた話では「ホモに関するくだりは含まれていない」のだそうで、主題はエニグマの解読にあるようだ。

悪い冗談だろ

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 いつもの習慣でGoogleニュースを開いたら、ありがたがれと言わぬばかりにローマ法王猊下の平和のための御高説記事がトップに出て、そのすぐ下に、バグダディを殺した軍用犬の顕彰記事が出ている。

 犬に人を襲わせるような外道と、嘘臭いローマ法王の説教。

 皆さん、これがね、白人の正体ですわ。平和だクソだと言う口先の一方で、お前を愛していると言いながら両手で人間の首を絞める、それがヨーロッパとアメリカの人々ですよ。

 ああ、嫌だ嫌だ。

何がサマータイムだ、馬鹿馬鹿しい。

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 報道によると、なにやら東京オリンピック開催を睨んで、戦前から再燃しては消えていた「サマータイム導入」の(くすぶ)りがまた再燃しかかっているらしい。

 何がサマータイムだ、馬鹿馬鹿しい。

 日本は明治維新まで、不定時法、すなわち日の出を明け六ツ、昼を順次五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツ、日の入を暮れ六ツ、五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツとし、毎日連続量で変化させるとともに、鯨髭のぜんまいを使用した機械式振り子時計でこの不定時を正確にシミュレートさせるなど、明るさや気温、季節に合わせた刻時方法を実現していた。つまり、とうの昔に「連続式サマータイム」を実現していたのである。

 この「九・八・七・六・五・四、九・八・七・六・五・四」という数字の繰り返しは、古く支那文化に由来する五行説によるものだ。

 だが、そういう天然・自然に即した刻時が合理的でないとして無理にやめたのだ。

 それを今更、「欧米が皆やっているからサマータイム導入だ」などと、人工的で不自然なことをワケのわからない理由で強制しようとする。愚劣の骨頂である。どうして「欧米が~ッ」ではなく、「日本ではこうである」と言えないのか。主体性のなさに憫笑すら覚える。

条約と再販制度

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 こんなことを書いたのだが……

 ……意外に、「不平等条約と卸問屋―問屋―小売、そんなもん、何が関係あるんだ?」と問われるような気もするから、そこを記しておきたい。

  •  黒船以前の日本の「商」
    •  日本の昔の身分制度は「士・農・工・商」
    •  つまり、商人は下層というより、政府(幕府)からは税収源としては無視されていた状態。(米本位制経済なので、最重要なのは農民からの年貢。)
    •  長崎、堺などの直轄領で商人の自治が許されていたのは、身分の低さゆえの「政府からの無視」が一要因であった。
    •  ヨーロッパ等では貿易や侵略から富を得るために商人はなくてなはらない存在で、政府から重要視され、大商人は貴族に肩をならべていた。つまり、日本とは真逆。
    •  この「無視」のせいで、日本の商人たちは幕府から過剰な干渉をうけることがなかった。そのため、逆に商業制度をのびのびと発展させることができた。
    •  日本の商人は江戸時代にはすでに銀行制度や通信制度を独自に発達させ、全国統一相場なども持ち、先物市場すらあった。度量衡や家屋の寸法まで、関西関東のちがいはあるにもせよ、全国規格化されていた。同じ時期のヨーロッパには、まだそんなものはないか、幼稚なものしかなかった。銀行制度だけは、イギリスのものがまさる。
    •  同じ時期のヨーロッパをはるかに凌ぐ高度な商業の仕組みを持つに至った江戸時代の商人たちであったが、悲しいかな、鎖国であったために、商品は完全に国内飽和状態であり、売り手が低姿勢になる「買い手市場」が長く続いた。これは、現在の日本の商業のサービスの良さにもつながっている。数百年にわたる鎖国が日本のサービスのクオリティを高からしめた。
    •  商品が飽和状態であったため、同じ一つのものにできるだけ多くの人がぶら下がってその利益を享受する仕組みが発達した。大問屋、卸問屋、問屋、仲卸、卸、小売…といったヒエラルキーが頑強につくられた。そのヒエラルキーのどこかにいる限りは、ものを売って食っていける。
  •  不平等条約以来
    •  黒船―開国、というのは輝かしいグローバリズムでも何でもなく、欧米白人による収奪の開始であった。
    •  関税自主権がなく、教科書に出てくる通商条約では「5%付帯条項」が厳しく約束され、5%を超える関税はつけることができなくなった。
    •  条約後、日本の貿易収支は壊滅的な赤字となった。
    •  明治維新後、明治時代を通じてこの不平等条約の撤廃について交渉が重ねられたが、米英仏蘭露独のいかなる国も日本など相手にもしなかった。その頃の5%付帯条項撤廃の条件を見ると、「キリスト教の宣教師に無条件に門戸を開く」などというのはまだしも、「すべての白人に無条件に土地の売買と相続を認めよ」「日本の裁判所の裁判官の半分以上は白人にすること」などといったキチガイのような条件がつけられており、到底飲めるものではなかった。
    •  放置すると、ほとんど無関税で流入する欧米の製品のみで国内が塗りつぶされてしまう。
    •  そこで、政府は江戸時代を通じて培われてきた、巨大な商業ヒエラルキーに目をつけた。
    •  輸入業者、超大商社、大商社、中間業者、…それやこれやを紆余曲折して欧米の商品が渡り歩く間に、またたく間に値段が上がり、その利益は国民であるところの商業ヒエラルキーの中を潤わせる。かつ、そんな高価なものに、最終消費者は「舶来は高いねえ」と見向きもしない。
    •  しかも、政府が関税をかけているのとは違う。政府が作り上げたのとは違う、江戸時代に商人がまことに民主的、自主的につくりあげた商業ヒエラルキーに乗せるだけで自然に値段が上がっているのだから、欧米列国はこれに文句をつけることができなかった。
    •  日露戦争を経て、大正時代に不平等条約が撤廃されるまで、この密やかな抵抗と工夫は功を奏し、国内市場と産業を十分に育成することができた。条約撤廃時、十分な競争力が日本には培われていた。戦前、日本製の自転車が世界市場を席巻し、イギリス製の自転車を市場から駆逐し去ってしまったのだが、これは最近の自動車市場の状況に似ている。自転車の貿易摩擦はイギリスの怨恨となって沈潜し、太平洋戦争の遠因ともなった。
  •  時間をポンと飛ばして、現代
  •  今でも、アメリカ人はことあるごとに「日本の商業習慣は古臭く、中世的で、効率的でない。もっと開かれたビジネスをすべきだ。」と言っている。

じゃかましいわ!!(笑)

 さて、ここまで見てきてから、ネットでの商品流通を見てみる。

 ネットでの流通は、中間段階の利益取得を最小限にするから、売り手はたくさん儲かるし、買い手は安く買える。つまりこの逆である。そのかわり、ひとつのものにぶら下がって食っていける人は少なくなる。就職氷河期などというが、こうしたことも無関係ではあるまい。

(この記事は、当時Facebookに書いたものである。)

ボロ靴と不平等条約

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 日常をできるだけ質実剛健にするよう心がけている。身の回りのものや食べるものなどに関して、「あてがいのもの」に文句を言わないことを子供の頃から身につけてきたので、そこのところにはあまり苦労はない。

 むしろ、妻に「お父さん、晩御飯なにがいい?」とか、「シャツの色これでいいかしらん」と聞かれると、逆に困ってしまうのだ。若い頃はつっけんどんに「そんなもん、何色でもエエ」みたいな答え方をしてしまっていたが、今は「そうさなァ、黒のほうが歳相応じゃないかな」くらいの好みは言うようにしているので、無駄に妻をふくれさせることは昔に比べて少なくなった。

 靴なども一度買うと、破れて指が出てしまうほど履きつぶしてしまう。前革と底が漫画の浮浪者みたいにパックリと口をあけたのを履いたまま靴屋に飛びこんで新しい靴を買い、店員さんが顔をしかめるのにもかまわず古いほうをグイと渡して、「コレ、捨てといてください」なぞと、そんな靴の替え方も一再ならずやった。めったにないこととは言うものの、 あんな、たださえ異臭を漂わせる乞食じみたブツを始末させられるのだから、うら若い靴屋の店員さんもたまったものではなかったろう。

 今、数年前にそんな買い方をしたホーキンスの「トラベラー」という靴を毎日履いているのだが、これがなんとも良い買い物であった。6千円ほどのお安いところだったのだが、薄手なのに本皮、縫製もしっかりしており、内側外側、今に至るもほつれも破れもない。こういう製品はめったにないものだ。

 さすがに、踵や底はやわらかく作られているので激しくすり減り、踵は斜め45度にくっきりと削れあがり、前の方は「スリックタイヤ」(笑)の如き様相を呈してきた。丁度梅雨どきだ。雨に濡れた駅のタイルでツルツルすべるのには閉口もする。大方4年は履いたのだから、モトはとれている。他の部分はなんともなくても、さすがに買い換えようかなという気持ちに傾いてもくるのである。

 しかし靴屋に行くべく腰を上げるのが億劫で、なんとはなしに躊躇していた。ネットでぼんやり同じ靴を検索してみると、こんなこと一つとっても「ショウウィンドウ化」の実例はさながら手に取るがごとし、である。すなわち、ABCマートのページでは8千円ほどで直接販売している。しかも、店頭と違って品番で欲しいものが探せる。しかも安いと来ている。

 外へ買い物に出かけたところで、店頭でサイズと形を合わせて、品番メモって、店を出てタブレットかスマホでポチれば、手ぶらで帰れるし翌日には家に届く、というわけである。しかも条件によっては送料も無料、値段は店より安いのだ。

 小売業というのはたいへんなものだ。これではネット方面のチャンネルにうまく手を出しておかないと商売あがったりである。こんな消費者の行動に振り回されなきゃならんのだからたまったものではないだろう。こうして、デジタルに飲まれて後手後手で小売業界も再編されてしまう。

 これを、もろ手を挙げて賛成ばかりしておれないのは、私のような商業や流通のことに詳しくない者にも知れきったことだ。

 日本は、江戸・明治の不平等条約時代このかた、一つのものを何度も何度も再販する多層流通の仕組みの保持により、関税をかけずに国内市場を保護し育成することに成功した。これは言うなれば政治・外交の離れ業(はなれわざ)であった。この社会に根付いた習慣を上手く運用し、現在の大経済立国を可能ならしめたのである。

 まあ、その代わり、私などが子供の頃は、モノは大変高かった。大人になってからしばらくしてもモノは高く、この前捨てたソニーの14インチのテレビだって、20万以上したもので、薄給の私はボーナスをはたいてそれを買い、とても嬉しく、大切に使ったものだ。今20万払ったら、どんなでかいテレビが買えることか。

 そんなことからよくよく考えると、あてがいのものに対して文句をあまり言わないという私の従順な消費性質は、古い再販流通の仕組みなどがもたらしていた高度成長期のゆるやかなインフレによって作られたのかもしれないぞと思い当たる。

 TPPなんていうのはまたしても経済の黒船みたいなものなのだろうが、明治のひとびとが古い再販流通組織を密やかに運用して不平等条約から日本の経済を防御したように、だれか賢い人が上手にTPPの不利を避けてくれればいいんですがねえ。

(この記事は、当時Facebookに書いたものである。)

年号の表記がわかりにくい

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 先ほどニュースを読んでいたら、
  ↓
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090929-00000080-mai-bus_all

 ・・・文脈中に

「HVを持たないマツダはガソリンエンジンの燃費性能を追求。「清」をベースにした小型車を10年代前半までに発売する方針だ。」

などと、平気で書いてある。どうも最近こういう記事が増えてきた。ナニがおかしいかって?「10年代」ですよ、10年代。約10年前の平成10年からの10年間のことかと思った。先だってなどは、別の何かの記事で「9年度」とあって、一瞬とまどった。

 もちろん、「ああ、『10年代』と言うのは、おそらく2010年代のことであろう。無論、『9年度』というのは2009年の年度であろう。」と想像はつく。この程度ならまあ、寛容しよう。だが、簡単に想像がつかない記事もたまにある。以前など、昭和30年代の話と、太平洋戦争前の世界恐慌の話がゴッチャ混ぜに書かれた新聞のコラムを読んで、反吐が出そうになった。西暦の30年代と昭和30年代が、なんの断りもなく記事中に混在するのである。

 日本は元号を用いる国だ。新聞やマスコミも、基本は元号で年号を記すべきだ。

 「2010年」に「西暦」を冠せよとまでは言わない。だが、2バイト文字で「10」なんて書くなら、「2010」だって嵩は同じはず。だいたい、4月始まりのいわゆる「会計年度」なるものは、元号を使用するべきではないか?

 結婚式を教会でやるなとか、そんな偏屈なことを言うのではない。西暦は宗教色が強いなどと言えば「そんなことを言うなら、元号だって国家神道の総本家、皇室・皇統がよりどころでしょ」と反駁されることもよくわかっている。いや、でも、キリスト教なんてものは侵略宗教なんですがね。おっと、脱線しちゃいかん。

 ややこしいでしょうと言いたいのだ。

 西暦で書きたいときは、よりわかりやすくするため、4桁で書くべきである。百歩譲って、和暦で書くときは必ず元号を接頭する、としてもよいが、もしそうするなら、西暦で書くときは必ず「西暦」と接頭しなければならない。