何がサマータイムだ

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何がサマータイムだ、馬鹿馬鹿しい。

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 報道によると、なにやら東京オリンピック開催を睨んで、戦前から再燃しては消えていた「サマータイム導入」の(くすぶ)りがまた再燃しかかっているらしい。

 何がサマータイムだ、馬鹿馬鹿しい。

 日本は明治維新まで、不定時法、すなわち日の出を明け六ツ、昼を順次五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツ、日の入を暮れ六ツ、五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツとし、毎日連続量で変化させるとともに、鯨髭のぜんまいを使用した機械式振り子時計でこの不定時を正確にシミュレートさせるなど、明るさや気温、季節に合わせた刻時方法を実現していた。つまり、とうの昔に「連続式サマータイム」を実現していたのである。

 この「九・八・七・六・五・四、九・八・七・六・五・四」という数字の繰り返しは、古く支那文化に由来する五行説によるものだ。

 だが、そういう天然・自然に即した刻時が合理的でないとして無理にやめたのだ。

 それを今更、「欧米が皆やっているからサマータイム導入だ」などと、人工的で不自然なことをワケのわからない理由で強制しようとする。愚劣の骨頂である。どうして「欧米が~ッ」ではなく、「日本ではこうである」と言えないのか。主体性のなさに憫笑すら覚える。

政府も

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 いつぞや、「ゴールデンウィーク」という言葉の起こりを聞いて、ゴールデンウィークをゴールデンウィークと呼ぶことに抵抗を覚えるようになった。

 ゴールデンウィークというのを休日が続いて黄金のように楽しいと言うような意味にとらえてしまう人が多いようだが、実はそうではない。テレビが各家庭に普及していなかった昭和30~40年代、庶民の娯楽は夕時の寄席や休日の映画であった。「ゴールデンウィーク」なる言葉は、その映画業界から出てきたものだそうだ。つまり、映画業界が連休の家族連れでザクザクと書き入れどきになるという意味の「ゴールデンウィーク」である。

 これは、映画業界、すなわち「あっち」にとってのゴールデンであって、「こっち」にとってのゴールデンではない。

 そこからすると、「ゴールデンタイム」というのはテレビ業界にとってのものであって、こちらにとってのものではない。楽しい番組が目白押しの家庭団欒の輝ける中心時間、ということではないのである。テレビ会社のヨダレ塗りたくり系視聴率猟場といったほうがよかろう。「あっち」にとってのゴールデンだ。

 子供を育てていると、夜の19時ごろから21時ごろと言うのは、正しく食事をしたり、勉強をしたり、後片付けをして風呂に入ったりするという極めて重要な時間であるということを日々認識させられる。この時間帯をどのように過ごすかが育児の鍵であると言い切っても差し支えあるまい。

 この時間帯、私自身はできる限りテレビを見ないようにし、勉強したりピアノの稽古に励んだり、活模範を展示しようと努めてはいるのだが、子供たちにとってはそんなことはまったく関係がない。この大切な時間にポカンと口を開いてだらだらテレビを見て過ごし、寝るのが23時にもなってしまっている。それを徹底矯正できない自分の指導力のなさもよく考えると父として恥ずかしい限りだ。だがしかし、テレビにはそれくらい人を毒する魔力があるのだ。

 テレビ屋は、自分たちがどれくらい毒のある手段を持ち、その毒がどれほどの影響力を揮っているかをわきまえるべきだ。もっと慎重自虐に仕事を運ぶべきなのだ。テレビ屋は自分たちでは「『ゆとり教育』はけしからん、バカな文部官僚のくだらん思い付きによって日本はバカになっている」などと好き勝手な言説を垂れ流し、すべてを行政と政府と官僚のせいにしているが、そのくせ自分たちのやっていることは全部デタラメだ。もっと反省するべきだ。

 政府も、「サマータイム」などという毛唐流のおかしな習慣の導入などにムダな時間を使っていないで、この「ゴールデンタイム」と称する腐ったテレビ屋の習俗を法律で禁止してはどうか。そのほうがよっぽど日本の国力は増進するだろう。

 低俗でつい見てしまいたくなるような番組は、すべて朝の4時30分から6時ごろに集中させればよい。国民はみな早寝早起きとなり、ラッシュアワーの緩和などにつながって住宅の問題が軽減されるし、適正な睡眠によってデブが減り、生活習慣病が減少して医療費などの問題解決に幾分か寄与するだろう。

 かわりに、夜の19~21時ごろには、「皇室アルバム」とか「浪曲アワー」、「100歳万歳」「日めくり万葉集」などの、その内容に比して不当な評価をあてられている番組を一斉集中させるのがよろしい。

 仕事が終わった夜のひととき、静謐誠実なおん人柄の天皇陛下のお姿をテレビにて拝し奉れば心気鎮まって自ずと至心起こり、また浪花節の渋声に心を浸せば、人情と武士道が綯い交ぜになって胸に迫り、あるいは100歳の寿を誇る老人の魂をその姿から感じ取れば、高齢化問題に性急な断を求めようとする不孝の罪心を恥じる気持ちが湧くであろうし、他方、夕のひとときを万葉の精神に触れて過ごせば、古の直なる言の葉は都会に荒びきった愚かな迷いの心を開放するに違いない。

 ここに一億の魂が洗われて、沈滞する日本の命運は一挙に挽回されるのであるッ。