ボロ靴と不平等条約

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 日常をできるだけ質実剛健にするよう心がけている。身の回りのものや食べるものなどに関して、「あてがいのもの」に文句を言わないことを子供の頃から身につけてきたので、そこのところにはあまり苦労はない。

 むしろ、妻に「お父さん、晩御飯なにがいい?」とか、「シャツの色これでいいかしらん」と聞かれると、逆に困ってしまうのだ。若い頃はつっけんどんに「そんなもん、何色でもエエ」みたいな答え方をしてしまっていたが、今は「そうさなァ、黒のほうが歳相応じゃないかな」くらいの好みは言うようにしているので、無駄に妻をふくれさせることは昔に比べて少なくなった。

 靴なども一度買うと、破れて指が出てしまうほど履きつぶしてしまう。前革と底が漫画の浮浪者みたいにパックリと口をあけたのを履いたまま靴屋に飛びこんで新しい靴を買い、店員さんが顔をしかめるのにもかまわず古いほうをグイと渡して、「コレ、捨てといてください」なぞと、そんな靴の替え方も一再ならずやった。めったにないこととは言うものの、 あんな、たださえ異臭を漂わせる乞食じみたブツを始末させられるのだから、うら若い靴屋の店員さんもたまったものではなかったろう。

 今、数年前にそんな買い方をしたホーキンスの「トラベラー」という靴を毎日履いているのだが、これがなんとも良い買い物であった。6千円ほどのお安いところだったのだが、薄手なのに本皮、縫製もしっかりしており、内側外側、今に至るもほつれも破れもない。こういう製品はめったにないものだ。

 さすがに、踵や底はやわらかく作られているので激しくすり減り、踵は斜め45度にくっきりと削れあがり、前の方は「スリックタイヤ」(笑)の如き様相を呈してきた。丁度梅雨どきだ。雨に濡れた駅のタイルでツルツルすべるのには閉口もする。大方4年は履いたのだから、モトはとれている。他の部分はなんともなくても、さすがに買い換えようかなという気持ちに傾いてもくるのである。

 しかし靴屋に行くべく腰を上げるのが億劫で、なんとはなしに躊躇していた。ネットでぼんやり同じ靴を検索してみると、こんなこと一つとっても「ショウウィンドウ化」の実例はさながら手に取るがごとし、である。すなわち、ABCマートのページでは8千円ほどで直接販売している。しかも、店頭と違って品番で欲しいものが探せる。しかも安いと来ている。

 外へ買い物に出かけたところで、店頭でサイズと形を合わせて、品番メモって、店を出てタブレットかスマホでポチれば、手ぶらで帰れるし翌日には家に届く、というわけである。しかも条件によっては送料も無料、値段は店より安いのだ。

 小売業というのはたいへんなものだ。これではネット方面のチャンネルにうまく手を出しておかないと商売あがったりである。こんな消費者の行動に振り回されなきゃならんのだからたまったものではないだろう。こうして、デジタルに飲まれて後手後手で小売業界も再編されてしまう。

 これを、もろ手を挙げて賛成ばかりしておれないのは、私のような商業や流通のことに詳しくない者にも知れきったことだ。

 日本は、江戸・明治の不平等条約時代このかた、一つのものを何度も何度も再販する多層流通の仕組みの保持により、関税をかけずに国内市場を保護し育成することに成功した。これは言うなれば政治・外交の離れ業(はなれわざ)であった。この社会に根付いた習慣を上手く運用し、現在の大経済立国を可能ならしめたのである。

 まあ、その代わり、私などが子供の頃は、モノは大変高かった。大人になってからしばらくしてもモノは高く、この前捨てたソニーの14インチのテレビだって、20万以上したもので、薄給の私はボーナスをはたいてそれを買い、とても嬉しく、大切に使ったものだ。今20万払ったら、どんなでかいテレビが買えることか。

 そんなことからよくよく考えると、あてがいのものに対して文句をあまり言わないという私の従順な消費性質は、古い再販流通の仕組みなどがもたらしていた高度成長期のゆるやかなインフレによって作られたのかもしれないぞと思い当たる。

 TPPなんていうのはまたしても経済の黒船みたいなものなのだろうが、明治のひとびとが古い再販流通組織を密やかに運用して不平等条約から日本の経済を防御したように、だれか賢い人が上手にTPPの不利を避けてくれればいいんですがねえ。

(この記事は、当時Facebookに書いたものである。)

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