読書

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 約60年前の古書、平凡社の「世界教養全集 第5巻」を読んでいる。

 収録著作の一つ目、「幸福論」(アラン著、白井健三郎訳)を読み終わった。

 著者のアランは本名エミール・オーギュスト・シャルティエ Emile Auguste Chartier といい、フランスの哲学者である。

 この「幸福論」は「世界三大幸福論」に数えられるのだという。

 全編を通じて、「体と心、行動と幸福は表裏一体」という点で一貫していて、上機嫌で幸福そうにすれば、それは自分にも周囲にも幸福を伝播させる、だから上機嫌でいるべきだ、というふうに説いている。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻(昭和36年(1961))より引用。以下、他の<blockquote>タグ同じ。
p.51より

 だれでも求めるものはえられる。若い者はこの点を思いちがいして、棚からぼた(もち)の落ちるのを待っている。ところが、ぼた餅は落ちてこない。そして、欲しいものはすべて山と同じようなもので、わたしたちを待っており、逃げて行きはしない。だがそれゆえ、よじ登らなければならない。わたしの見たところ、しっかりした足どりで出発した野心家たちはみな目的にたどり着いている。しかもわたしが思ったより早く着いている。

p.68より

 男が建設すべきもの、破壊すべきものがなくなるときは、たいへん不幸である。女たち、と言ってもつくろいものをしたり、赤ん坊の世話をしたりして忙しい女たちのことだが、なぜ男たちがキャフェに行ったり、トランプ遊びをしたりするか、たぶんけっして理解できないだろう。自分と暮らし、自分について考え込むことは、なんの役にもたたない。

 ゲーテのみごとな『ヴィルヘルム・マイスター』のなかに、「あきらめ会」というのがあって、その会員たちはけっして未来のことも過去のことも考えてはならないことになっている。この規則は、守られさえすれば、たいへんいい規則である。しかし、守られるためには、手や目を忙しく働かしていなければならない。知覚し、行動すること、これが真の療法である。その反対に、指をひねくってぶらぶらしていれば、やがて不安や悔恨に落ちこむにちがいない。思考というものは、必ずしも健全とは言えない一種の遊戯である。ふつうは、堂々巡りして先へ進まない。偉大なジャン・ジャック(フランス十八世紀の自由思想家ジャン・ジャック・ルソーのこと)が、「考え込む人間は堕落した動物である」と書いたのは、このためである。

p.72より

 戦争には、たしかに賭けに似たところがある。戦争を起こすのは倦怠である。その証拠は、一番好戦的なのは、仕事や心配事も一番少ない人間であるのが常であるということにある。こういう原因をよく承知していれば、大言壮語にそう心を動かされることはないだろう。金持で、暇のある人間が次のようなことを言うと、ひどく強そうに見える。「おれにとっては暮らしはらくだ。おれがこんなに危険に身をさらし、こういう恐ろしい危険を心から求めるのは、そこになにかやむにやまれぬ理由か、避けがたい必然性を見るからにほかならない」と。だがそうではない。かれは退屈している人間にすぎない。もしかれが朝から晩まで働いていたら、こんなに退屈しないだろう。それゆえ、富の不平等な分配には、なによりもまず、栄養のいい多くの人間を退屈させるという不つごうがある。そのため、かれらは退屈からのがれるために、自分を夢中にさせるような心配や怒りを、わざわざ自分にあたえるようになるのだ。そして、こういうぜいたくな感情は、貧乏人にとっての最大の重税なのだ。

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