新聞の軍事に関する記事などで、データの出典元として、かつてはよく「シプリ年鑑」などとともに「ジェーン海軍年鑑」という書名が記載されていたのをご記憶の方も多いと思う。
実は、「ジェーン海軍年鑑」という書名の本は、ない。図書館へ行ってこの書名のとおりで探しても、出てはこない。そもそも、この本は図書館にはない。
英国ジェーンズ社の
この本は大変高価で、最新刊「Fighting Ships 23/24 Yearbook」について今日現在の値段を調べてみると、その一冊だけで1,634英ポンド、日本円なら今日の為替で30万円を超えるというとんでもないしろものだ。
毎年更新される一年分の年鑑全部を「揃」にすると、一年分だけで、日本円にして600万円以上になる。
ただ、この「戦闘艦 Fighting Ships」は公平な資料として定評があり、世界各国の政府や海軍、とりわけ艦艇に備え付ける必需品だから、高価でも一定の需要がある。
こんなことに何の思い出があるのかという向きも多いと思う。
私は、一昨年陸上自衛隊を定年退官したが、40年以上にわたる自衛隊暮らしの間の一時期、陸上自衛隊を離れ、防衛省・統合幕僚監部というところにいたことがある。そこでの職務は、オペレーションズ・リサーチ(OR)だったのだが、その職務を遂行するについても、ジェーン年鑑がなければまったく仕事にならないというほど、この年鑑はデータ集としての価値が高かった。
しかし、私は本来の職務であるオペレーションズ・リサーチの他にもいろいろな係や役割を負わねばならず、その役割の一つが「予算要求」だった。
毎年、ほかの事業の予算と一緒にこの「ジェーン年鑑」全巻の予算を見積もり、1年がかりで財務省に説明し、国会にかけ、そのお金でジェーン年鑑を調達する。執行の際には、英ポンドと日本円の為替差損益が出たり、英国と日本で予算年度が違ったりして、その調整にも微妙なテクニックが必要だった。調達すると「買ったからそれで終わり」ではなく、「国有の資料」として、きちんと管理していかなければならない。
私はTOEIC零点を自称する、現代日本社会において稀にみる日本語一直線男である。日本語通だからだと言えば少し聞こえは良くなるが、単に馬鹿だから英語がわからないというだけのシンプルな話だ。であるから、営業用の案内も含めて全巻英文のこの年鑑群を調達し管理するのは非常な苦労で、毎度頭痛の種だった。
このジェーン年鑑をズラリと収めた書棚の前に私の席があり、私が出納・管理をしていた。私のいた部署の人たちは、他の係の人でもこのジェーン年鑑での調べ物は欠かせないので、私が仕舞っている「貸出簿」に名前や日付、借り出す巻名などを記帳して借りていく。
ところが、統合幕僚監部の人たちは皆頭のいい学歴の高い人たちばかりで、そういう人は、私が中卒まがいの馬鹿だということに想像が及ばず、私を自分と同類とでも思い込むのか、気楽に「佐藤さん、XXのエンジンについて調べたいんですが、どの巻を見たら載っていますか?」などと私に訊いてくるのだった。
私はたしかに四苦八苦しながらも、予算要求をし、ジェーン年鑑を購入・管理していたのだから、その内容について一番詳しいと目されるのは、まあ、仕方がないとは言えるのだが、しかし私にとってはたまったものではない。モノとしての外側を調達・管理していても、内容なんか知らないし、わからない。私の本来任務であるオペレーションズ・リサーチに関係のないところなど、知ったことではないからだ。
(そんなもん、ワシが知るわけあるかい、アホかいな)
……と腹の中でひとりごちはするが、しかし、そのような態度では国の仕事が進められない。皆で協力しなければ、任務が達成できない。そこで、私も訊いてきた人と一緒になって、書棚に梯子をかけ、首を突っ込み「ええーっと、ハテ、どれでしたかな、ちょっと探しますね」とあちこちひっくり返して探し、「ああ、ありました、これだこれだ!」と目指す資料を見つける喜びを共にしたものだ。
ところが、数か月もそういうことを続けていると、私もだんだん、内容について興味も覚え、また、TOEIC零点なりに内容が理解できるようになった。文字通り「門前の小僧習わぬ経を詠む」というやつである。
そうすると、訊いてくる人たちも「佐藤さんに
そんな日々だったが、ある時、面白いことに気づいた。二つほど。
一つめ。
ジェーン年鑑は、もちろん船だけではなく、世界中の戦闘機、戦車、銃、特殊作戦資材など、あらゆる軍事情報を網羅している。珍しいところでは「世界の鉄道 Jane’s World Railways」などという巻もある。これは、鉄道も大陸国家では軍事要素として重要でジェーン年鑑の目的に
そんなジェーン年鑑の中の一冊に、「国際軍事連絡要覧 International Defence Directory」というのがあった。これには、世界各国の政府機関の一覧が記載されていて、日本でいえば「政官要覧」のようなものだ。各国政府の官邸から個々の省庁の住所や電話番号、今の責任者の氏名などがズラリと網羅してある。値段は日本円で18万円近くする。
もちろん、日本政府のほぼ全部の役所の電話番号や住所も載っている。
私が驚いたのは、その記載順であった。
大項「Japan」の一番先頭には、次のように記載されていた。
(記載は当時のものである。)
【Japan】
Government – Head of State
The Imperial Household
Imperial Household Agency, 1-1 Chiyoda, Tokyo, Chiyoda-ku, 100-8111
Tel: (+81 3) 32 13 11 11
e-mail: information@kunaicho.go.jp
Web: www.kunaicho.go.jp
Emperor of Japan and Head of State: H M Emperor Akihito
Heir Apparent: Crown Prince Naruhito
訳する必要はあるまいけれども、一応訳す。
【日本国】
政府-国家最高機関
皇室
宮内庁 〒100-8111 東京都千代田区千代田1-1
e-mail:宮内庁メールアドレス
Web: 宮内庁ホームページ
日本国皇帝(天皇)及び国家元首:天皇明人陛下
代理:皇太子徳仁殿下
そして、その次から官邸以下、各省庁までが記載されている。
国家最高機関が皇室だというのは、日本人の認識とは違うし、日本の法律や憲法が現実に定めているところとも、違うとは思う。私のような右翼にとっては悔しいことだけれども、それが日本国内の現実なのだ。日本の政官要覧を買えば、記載順は官邸~内閣府が最初であり、皇室などは記載されていないか、宮内庁が一番最後に記載されているくらいなものだ。
だが、「外国からはこういうふうに見えている」ということだと思う。ジェーン年鑑の記載のように見えているのだ。しかもそれが、明治時代から刊行され続けている権威ある「Jane’s」にして、日本は皇帝のいる帝政国だという認識なのだ。
例えば、他の王政の国は、イギリスなどはもちろんのこと、デンマークでもスペインでもスウェーデンでもサウジアラビアでも、全部そういう記載順である。
そういうのが、国際的な標準なのだ。そう思われているということだ、日本人自身がどう思っていようと。
さておき、二つ目。
「ジェーン年鑑」には世界のあらゆる軍事に関する事柄が網羅されている、ということを前記した。その中には「世界の空軍 World Air Forces」というあらゆる軍用機を網羅した巻がある。
その頃脅威の度を日増しに加えつつあった北朝鮮の装備品に、私も少し興味を覚えていた。「ジェーン年鑑管理人」の役得で、私は昼休みなどにも割合自由にジェーン年鑑に耽溺できたから、北朝鮮の飛行機について調べてみた。
彼の国では、古色蒼然たるMiG-15がいまだに現役であることなどが興味深かった。これがアメリカでなら、とうの昔にスミソニアン博物館にでも保存されているに違いなく、骨董の類である。
だが、それよりもまだ仰天し、目を疑ったのが、布張りで複葉の、しかも木製プロペラの飛行機が現役の軍用として運用されていると記載されていたことだ。
それをまた、写真の下の解説・紹介が、英文でどう書いてあったかは忘れたが、大づかみなところでは、当時の私の読解によると、
「布張りであるため被弾しても損害が軽微で安定している【注1】。また、熱源がないので赤外線ホーミングミサイルによる追尾撃墜は不可能であり、加えてほとんどレーダに映らない高度のステルス性【注2】を持つため、特殊部隊の潜入などに威力を発揮している」
(【佐藤注1】火器で撃たれても、プスプス抜けてしまうばかりなのでダイジョーブ、ということ。
【佐藤注2】いやまあ、たしかに布は誘電体でないから、レーダには映らんが、それを天下のジェーン年鑑が「ステルス性」って言っちゃっていいのか?)
……などと書いてあった。いや、「高度のステルス性」て、……アンタちょっと(笑)……。
まあ、少し大げさに書いたが、この飛行機はAn-2というソ連の傑作機で、実はそれほど悪い飛行機ではなく、地方の旅客輸送や農業用などにまだまだ現役で飛んでいるらしい。がしかし、軍用に使ってそれを「ステルス性」はなかろう。
もう少し書いておくと、このジェーン年鑑の記述は多少大雑把だったようで、An-2はいまどき珍しい複葉機ではあるものの実際には全金属製のモノコックボディを持っており、いくらなんでも羽布張りではなく、そんな大げさなステルス性は持っていないらしい。
それをまた、「信頼あるジェーンが書いてるんだから本当なのだろう」とばかり、米国の有力者がジェーンを根拠にしたのだろうか、「北朝鮮はこういう原始的で恐るべき兵器をも運用して戦いに備えている」などというようなコメントを出していた。そのあたりのことも、ネットを適当に渉猟検索すればすぐにわかるだろう。
さて。
ジェーン年鑑の思い出を少し書いたが、日本国内でジェーン年鑑が見られるところは限られている。国会図書館にもほとんど所蔵されていない。私費で買うことは、前述したように600万円以上もするので、無理だ。
だが、興味のある方向けに書いておくと、国会図書館には、実は「各省庁分館」があり、各省庁分掌の書籍類を各役所ごとに所蔵している。もちろん、防衛省図書館も、正式には「国会図書館防衛省分館」であるので、防衛省所蔵のジェーン年鑑は、一般の方でもここで閲覧できる。私の知る限り、日本でジェーン年鑑の取り揃えが最も充実しているのはここだ。防衛省に立ち入る機会があれば、一度ご覧になってみては如何。