引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。
第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、三つ目の「職業としての政治 Politik als Berf」(マックス・ヴェーバー Max Weber 著、清水幾太郎・清水礼子訳)、行きの通勤電車の中で本編を、帰りの通勤電車の中で解説を、それぞれ読み終わった。
著者マックス・ヴェーバーはドイツの社会科学者で、第1次世界大戦の頃の人である。本書は第1次大戦でドイツが敗北した直後、ミュンヘンで行った講演をまとめたものだ。当時の欧州の政治の形を時間・空間双方に沿いながら幅広く概括し、わかりやすく述べたものである。そして、この講演の次の年、ヴェーバーは亡くなっている。
今の日本を含む各国の政治について、こうした書籍があればどんなにかよいが、とも思った。何しろ、第1次大戦以前の政治の詳細像は、今の私には遠すぎる。
別談。訳者の清水幾太郎は解説において、微妙にマックス・ヴェーバーをディスっていて、かつ、本人は翻訳にあまり手を出していないことがわかる。戦前版のものは知人市西秀平氏の翻訳を清水氏の名前で出し、印税は市西氏に全額渡した、と書かれている。戦後、市西氏の翻訳とは別に改訳したのが本書だそうだが、今度も清水氏はあまり手を出さなかったようだ。共同翻訳者として名前の出ている清水礼子氏というのは清水氏の息女で、本書は彼女の翻訳に負うところが大きい、との旨も解説に記されている。
気になった箇所
他の<blockquote>タグ同じ。p.175より
戦争は終戦によって少なくとも道徳的には埋葬が済んでいるはずなのに、数十年後に新しい文書が公開されるたびに、下品な悲鳴、憎悪、憤怒をよみがえらせるのです。埋葬は、現実性と騎士道精神とによって、なかんずく、品位によってのみ可能になるものです。しかし、「倫理」によっては絶対に不可能で、「倫理」は、実は、双方の側における品位喪失を意味するものなのであります。「倫理」は、将来および将来に対する責任という政治家にとって大切な問題を考えずに、過去の罪という政治的に不毛な――というのは、解決がつかない問題ですから――問題に没頭するものであります。もしも、政治上の罪というものがあるとすれば、これこそ、それであります。
上の部分は、まるで現在の日韓関係を遠く100年以上の昔に喝破したもののように感じられ、ううむと唸ってしまった。
昔から、インドの兵士は、インドラの極楽へ行けるものと固く信じて戦死を遂げたものですが、これはゲルマンの兵士がヴァルハラを固く信じていたのと同じであります。けれども、インドの兵士は、ゲルマンの兵士が天使の合唱が聞こえるキリスト教の楽園を軽蔑していたように、
涅 槃 を軽蔑していたのでしょう。
次
次は引き続き第15巻から「矛盾論」(毛沢東著、竹内好訳)を読む。そう、あの毛沢東である。なんだか、本巻を読んでいる間は「共産主義祭り」みたいなもののような気がしてきた。