昨日、関東甲信越では梅雨が明けた。私の住まう越谷市でも、さながら機械装置のスイッチをポンと切り替えたかのように突然雨が止み、蝉が鳴き、雲の峰がむくむくと輝きながらせり上がっている。
まさしく夏は
夏は来ぬ佐佐木信綱作詞卯の花の 匂ふ垣根に
時鳥 早も来鳴きて
忍音 もらす 夏は来ぬ
名曲「夏は来ぬ」。何度読んでも歌っても、美しい日本語だなあとしみじみ思う。
この歌詞を味わっていて、ふと思い出すことがある。
次女が中学生だったか、小学校高学年だったか。学校の国語か音楽の授業でこの歌が出たらしく、覚えて家に帰り、細く高い澄んだ声で口ずさみはじめた。
〽 う~のはな~のにおうかきねに ほぉ~ととぎぃ~すはやもきなきて しぃ~の~びぃ~ねもぉらあす~ なつ~ぅはぁこ~ぬ~
ん、あれ、「こぬ」? 何?
「おい智香、ちょっと違うぞ、そこは『きぬ』だ。」
「えっ、なんで、お父さん。だって、学校で『ここは、なつはこぬ、とよみます』って教わったよ? 先生そう言ってたもん」
おやまあ、なんてことを教えるんだ、立派な先生がこれはまた……と思ったが、文語文法をロー・ティーンの小娘に並べ立てたってしかたがないし、私もそれを即座にスラスラと筋道立てて「これはこれこれ、こう」と教えられるほど学問的に文法に通暁しているわけではないから、それ以上深入りしなかった。第一、そこで次女に「先生は間違っているよ」なんていうことを吹き込むと、他の九割九分は正しい勉強を教えて下さっている先生の権威を下げることになり、次女が先生の言うことを聞かなくなってしまう恐れがある。一分に過ぎぬわずかな誤りを全体の誤りであるかのように子供に吹き込んではいけない、とも思ったのだ。
さて、この「
少し詳しく書いてみたい。
まず「
文語の動詞の活用語尾の例は「未・用・終・体・已・命」の順に「ズ・テ・(切)・コト・バ・ヨ」である。私などは「ズテ・コトバ」などと覚えているが、学校では「ズタリ・トキドモ」なんて教えることのほうが多いだろう。この語幹「
この中で「
では、続いている「ぬ」というのはどうか。この「ぬ」は助動詞だ。助動詞の「ぬ」には、動詞の未然形に続くものと連用形に続くものの二つがある。「来ぬ」は未然形だから前者で、もう少し詳しく言うと、この「ぬ」は、打消しの助動詞「ず」が連体形に活用された「ぬ」である。
「ず」に変化した「ぬ」に続くには、「
連体形であるから、「
来 ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ定家
というのがあるが、それがこれだ。「
そうすると同じように「夏は
他方、「
そして語尾の「ぬ」だ。こちらのほうは、字は同じ「ぬ」でも、「
いずれにせよ、中卒の私が大学の教職課程を修了した立派な学士である学校の先生に説明するようなことではないから、その頃こんなことを述べ立てたこともないし、今はもう何年も経ってしまった後だ。しかし、今日のような梅雨明けの日になると、あの先生が、今もこの間違いを誰にも正されないまま生徒たちに教えているのかもしれないな、と、多少の心配を感じないでもない。