多面的にものを見る

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PHM11_0185 「多面的にものを見ている気になっているだけ」という人と、「本当に多面的に見ている人」の違いを考えてみた。

 「本当に多面的に見ている人」というのは、決心・決断が速いように思う。そうして、現地現物を重視していて、一次情報を自分で集めたりする。

 他方、「多面的にものを見ている気になっているだけ」の人は、安心したいがために情報をわんさか集め、ところがそれらは人手を借りた二次以下の情報ばかりだったりする。それらを精選できず、そのためにかえって迷いを生じ、決断できなくなり、躊躇逡巡し、その結果、機を失することが多いように思う。そして、愚にもつかない責任回避策を練ったりする。

 こういう、単に検討要素を数多く集めて並べるのが得意で、ところが何も決心できないというタイプの人は、はたで無責任に見ていると、頭の中に検討要素が単純にフラットに並んでいるばかりで、それらに優先順位などもないようだ。整理するために検討要素を書き出してみるという単純作業すらやっていないこともよくある。例えば、検討要素を紙に書き出し、次にそれらを構造化し、重みづけするという、簡単なことをやればいいだけに見えるのだが、本人は情報に溺れて青息吐息の最中、もがくだけで精いっぱいだから、そんなことすらできなくなってしまっているのだ。

 これは「これだからエラブツは」などと言ってせせら(わら)うようなことではない。他人の人生や命を預かる立場の人には無理もないことでもある。

 情報の洪水に溺れている最中の人は、決心・決断ができないことを責められると、「俺はお前みたいに小さい視野でものを考えているんじゃないんだ、これこれこういう、こ~んなに多様なことにまで目はしを利かせているんだ、だから黙ってろ!」と怒り出すものだ。

 このように、「多面的にものを見ている気になっているだけ」の人は、いたずらにものを紛糾させてしまう。

 無理もないとは言うものの、こういう溺れがちな人が人の上に立つというのは、まことに悲しむべき、そして有害なことだ。だが、人間だから、しょうがない。

 こういう人の下に、うまく問題を整理してやれる番頭役がいればいいのだが、なかなかそんなにうまくはいかない。忠実に番頭の地位に甘んじ、自分の出世など脇へ置いておいてくれる老練な人物など、いるはずもない。そういう有能な番頭は、自分が経営者や指揮官になろうと虎視眈々としている。逆に欲を捨てて枯れ切った人は、心底忠実に尽くしてなどくれないだろう。

 自分に溺れ迷う特性があり、多面的に見るのが不得手だと知っている人は、対象が小さかったり、組織が小さい場合、あるいは単に個人の問題だというとき、論理ではなく、「自分の魂に問う」というのも一つのやり方としてあると思う。決断は速くなる。だが、冷徹な数字を出さなければならないような人は、単に魂に問うのではダメだろう。ましてや魂ではなく気分や感情に問うのなど、論外と言うべきだ。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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