好悪に理屈などない

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 「俺を好きになれ!」と、拳骨を振り回しながら言われても、好きになどなるわけないし、「俺を好きになれ」と、なにやら鼻息ムフムフ、腰をうごめかしながら言われても、好きになどなるわけない。無論、「俺を好きになれ年収は¥$₣元」あるいは「俺は××大学卒業だから好きになれ」など、金や学歴を好きのパラメータにするなど論外というべきである。どれもこれもダメだ。

 好きとか嫌いとかいうものは、魂が相容れるかどうかであって、暴力も性欲も金も学歴もイデオロギーも、好き嫌いには無力だ。

 ピーマンが嫌いな子供に、ピーマンのビタミン含有量と繊維質の健康に及ぼす影響を説いたところで所詮食わないし、納豆が嫌いな野郎に納豆の効用や微生物の及ぼす健康と長寿への影響、統計上の有意な回帰式や相関係数を説明したところで、相手はやっぱり納豆は嫌いなままであろうことは知れきったことだ。

 数値ほど好悪の感情に無力なものもあるまい。

 自分が相手に受け入れられないとき、それは受け入れられないということであって、なぜ受け入れられないのかなど問うても無駄だ。栄養豊富なセロリが嫌いなあなたは間違っています、などと説得しようがどうしようが、奴は依然セロリが嫌いなのである。

 受け手の度量は小説やマンガのように広くはない。そこでジタバタもがくことは、自分自身の修行にはなり、ためにはなるが、相手に芯から底から受け入れられると期待することは無駄である。

 そしてまた、相手に好かれようとジタバタもがいて見せることは相手にとって迷惑である。彼にとって嬉しいことではないのだ。嫌いな奴が好かれよう好かれようとしているんだから、納豆の効能をくだくだしく説かれるようなものだ。「私はこんなにもあなたに好かれるに足る人物なんですよ」と、聞きたくもないゴタクを聞かされて辟易するのは、好き嫌いの激しい子供が人参やピーマンを無理やり食わされるようなものだ。如何にそれが身のためになろうが嫌なものは嫌というのが人情である。

 なのに、人間というものは、なんら好きになどなる理由のないどうしようもないハイカロリー食品を貪り食って酒を飲みタバコを吸い、ダメ相手と同棲したり結婚したりセックスして子供を産んだりするもので、それはもう、どうしようもないのである。

 人間がそんなものであるから、そんな人間から成る社会や国家が、暴力やら性欲やらカネやらなにやらで迷走するのは、もう、仕方がない。

 イスラムの連中は、やっぱりイスラエルもアメリカも嫌いだし、アメリカはやっぱりアジアもイスラムもなにもかもが「嫌い」なのである。

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