今朝の天気予報では「曇天」とあった。
やむなし今夜は無月かな、それもまた良からん、と思いのほか、深更に至って中天に青い月が見事に昇った。
虫の声が高い。いい夜である。
オッサンは生きている。
今朝の天気予報では「曇天」とあった。
やむなし今夜は無月かな、それもまた良からん、と思いのほか、深更に至って中天に青い月が見事に昇った。
虫の声が高い。いい夜である。
一挙に秋涼となり、虫が
明日は中秋の名月、十五夜だが、天文学上の「望」は明後日である。
ふと窓の外に月が煌々と照るのを見る。今日は十夜だ。
興が乗り、外に出て夜空を見上げる。煌々と照る月を真ん中に、左に土星が青く、右に木星が橙色に輝いて見える。
木星の大きいこと。オペラグラスを取り出して眺めてみると、中ほどに暗がりのような暗点があって、まさかこれが大赤斑ではあるまいけれども、ひょっとしてそうかなとも思わせる。
今日は下弦だそうな。
夜更かしをしていて目が冴えてもいるから、ひとつ真夜中に月の写真でも撮ってみようか。
昼は真っ青な空が広がり、
このところ涼しく、まことに秋らしくなった。ご近所の柿がうっすらと色づいている。ようやく秋も半ばというところか。昨日はお彼岸、秋分であった。
今夜はお月様だが、私の住む埼玉県越谷市の天気予報はあいにくと曇りで、今夜はどうやら
妻に「今夜はお月さんだよ」と言うと、「15日頃なんじゃないの」と言う。ああ、旧暦のな……、と答えると、ふうん、と興味もなさそうである。
天文学上の満月は明日の昼頃だが、暦法上は今日が旧暦八月十五日、夜は十五夜で、いわゆる「仲秋の名月」である。しかし、七夕同様、季節の変わり目で天候不順、また二百十日も過ぎたばかりで嵐が来ることもよくあり、月が隠れていることも多い。
そこで、「
富安風生に
いくたびか無月の庭に
……という名句がある。単に「月」と言えば秋の季語だが、「無月」も秋の季語で、しかも月の傍題ではなく、れっきとした「見出し季語」である。
無月のたびに、その昔理論物理学の
目をつぶろうと人類が死に絶えようと、原子の集まりである月はそこにあることは科学が証明している、とするアインシュタインに対し、タゴールは、人間がそれを月であると認めなくなれば月はなくなる、人間の意識の中にしか月はない、と述べて譲らなかったという。
私は科学者でも哲人でもないからどちらが正しいのかはわからない。それより、この対談をどちらが正しいとかどうとかいう評論の的にするのもあたるまい。しかし、名月の価値は人間が決めたものであろうし、反面、雲の裏に見えない月がある、というのも真実ではあろう。
してみると、無月と言う言葉は、詩人タゴールの側にあるようにも、アインシュタインの側にあるようにも思える。ないものを認める、というのは、死者の霊魂をどう扱うか、ということにも似ている。
仕事帰り、東の空をふと見ると、大きな月が昇り始めた。今日は旧五月十五日の望夜、さてこそ大きな月であるはずだ。
ちょうど真南に赤々とした大きな星が見える。多分木星かな、と、帰宅してから調べてみると果たして木星であり、ほぼ20時南中である。
下のようなニュースを見ると、もう、怒るとか問題点を覚えるとかいうのを通り越して、「ふはは……」と乾いた笑いさえ漏れてしまう。この場合、「笑い」と書くより「
外敵をつくりだし、市民に戦争やむなしとの感情を抱かせることにつながる
いやもう、なんでこんな変ちくりんな理屈になるのか。もはや彼らが宇宙人かなにかのように思える。
まあ、自分が正しいと信じたことを一生懸命やっているのだから、「悪」ではないと思うが、しかし、「馬鹿」なのではあるだろう。
♪ 大学出たって馬鹿だから
常識なんかは通じねェ
市民活動家に限って高学歴でお偉いと来ているから始末に悪い。
こんなの、同じ労力をかけて、北朝鮮に「ミサイル撃たないでください」と言うのが本来の
在日朝鮮人にヘイトスピーチなどで意思表示したり、
意思を表示するなら、北朝鮮政権にメッセージを伝えなければならない。
報道や外交などの「言葉によるもの」だけがメッセージとは限らない。メッセージには様々な種類があるのだ。動きをもって知らせる「戦略的メッセージ」というものもあるだろう。そうしたメッセージをどのように形作るかということを考えると、おのずと何をしなければならないかが見えてこようというものだ。
この「馬鹿な人たち」には、そのようなことはまったくわからないと思う。だが、思うに、議論するだけ無駄でもある。こういう馬鹿な人たちは、そうした大切なことどもを、永久にわからないままでいいのではないか、とも思う。彼らは