差別廃絶の先、GLBT礼賛の先、更にその先にあるもの

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PHM11_0096 理性はよく無理を()いる。太古から人間は社会性の動物たるため、個を抑制して(おおやけ)(ほう)じ、家族や村落全般が機能することにより種族全体が保存されるように歴史を重ねてきた。

 生物本然(ほんぜん)の欲求や姿のままに生きることは人間社会では否定され、その否定は「人の道」と呼ばれる。人の道に外れた行動をとれば、犬畜生呼ばわりされ、村落から放逐されるのだ。雑な例を言えば、動物のようにそこいらで脱糞放尿も交尾もしないのが理性ある普通の人間だ。

 このようなことを端的にまとめ、ものすごく嫌な、極端な言い方で表すと、「人間の歴史においては、生物としての自然に背くものが理性とされてきた」ということである。

 オスの役割の否定、メスの地位の否定、残酷さや弱者抑圧を否定すること、差別を否定することなどもその延長だと思う。

 人間の理性はゆっくりだが進歩し、いまや、あらゆる次元での差別に反省と検討、考察が加えられ、女性、病者等、弱者にも光があたるようになった。

 それは更に進み、GLBTの肯定、同性婚の肯定などにまで広がっている。

 これらが更に進んだその先には、兄弟婚、親子婚、近親相姦などの修羅場の肯定がほの見える。動物の自然な姿としては、同性婚や近親相姦は自然に忌避され、(ほぼ)このようなことは起こらないのであるが、困ったことに人間社会は動物としての自然な働きに逆行することをもって理性とするのだ。

 この先、私などの凡庸で進歩的でない者にとって、生理の根幹の部分からして到底許容できないような、それこそ兄弟姉妹婚、親子婚、幼児婚、屍婚、動物婚、植物婚、人工物婚など、あらゆる(おぞ)ましいものが大群でやってくる。そうしてそれらが法律で保護され、進歩的であるとして共感を呼び、「植物と結婚した性転換者」などの頓狂な者がテレビタレントになってのさばるようになるだろう。今日(こんにち)オカマ芸人がテレビで幅をきかせているように……。

 しかし、現代社会と現代人が、レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、これらをすべて受け入れたのと同じ忍耐をもって、忌まわしい悪鬼の魂を受け入れなければならない時代がもうすぐそこまで来ている。

 これまでの経緯、時代の趨勢から言って、この恐ろしい耐え難さに、ひたすら耐えるよりほかにあるまい。こういう恐ろしいものを受け入れ、それを「自由」と名付けて喜ぶような者は、進歩的な差別廃絶論者として称揚されるのであろう。

【妄想】戦場から差別をなくすことにより社会の差別も消える

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PHM15_0922 ジェンダー・フリーは急進してダイバーシティになり、これがラジカルな色彩を帯びるとGLBT礼賛というようなことにどうやらなるようだ。

 さてそこで考えたのである。戦場がダイバーシティないしGLBTオリエンテッドでないのは、差別であり、人間性に対する挑戦である。

 体が不自由な者、体力が劣る者、性的マイノリティなどが楽に戦闘できるような兵器の開発が急務である。これは将来の戦(しょう)獲得、戦場よりする人類そのものの進歩のため、必ず達成されなければならない。

 戦車の車椅子対応、盲人用小銃、聾人用無線機、GLBT教範、老人用戦闘機、家庭用コンバット・システムなど、日本の科学技術を余すところなくつぎ込み、戦場を多様化するわけである。多様な戦闘力は将来の戦場を支配するであろう。

 小銃一つとっても、「人と環境にやさしいエコモード」とか、女性向けの柔らかいストック、これならメイクも落ちずに安心、フェザータッチのトリガーでらくらく連射、と言ったダイバーシティ&エコ志向が求められる。指向、ではない、「志向」だ。

 人間の歴史は戦争の歴史であったが、その舞台である戦場から差別をなくせば、おのずと社会の差別も将来の歴史から消滅するというものである。

 戦前の研究者は、戦場空間は点から線、線から面、面から体へ進化し、時間軸は(べき)乗に比例して短くなり、そして、その参加者は武士や軍人から、殺される者として一般人までが幅広く参加するようになる、と予言したのであったが、シリアやパリの惨状を見るまでもなく、その言う所の中に的中したものは少なからず含まれる。既にGLBTまでが戦闘に参加する時代が到来したものと考えられる。