リーガル・ハイ

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 くぅーっ、ウィスキーはなぜかくもうまいのか、……なぞとほざいて毎日毎日酔い痴れていたら、NHKドラマ「マッサン」の大ヒットで誰も彼もウィスキーブームになってしまい、しかも皆いい酒飲んでいるのでなにやら不釈然である。

 であるにもかかわらず、日曜が暮れていくとなるともう、酔わずにはおれぬ。

 妻がレンタルビデオで「リーガル・ハイ」を借りてきたので、続けて見て大笑いする。いやもう、半沢直樹で名声不動の堺雅人であるが、怪優ぶりがこんな何年も前から炸裂しているとは知らなんだ。


NHK見れないテレビ

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 前にもどこかに書いたことがあることだが……。

 私はテレビや新聞が嫌いだが、なにもかも全部嫌いと言うわけではなく、面白そうなものはたまには見る。NHKの放送そのものも嫌いでなく、気に入ったドラマやドキュメンタリーなどは見るし、紅白歌合戦も見る。したがって、法律の定めるところに従い、NHKの受信料は全額をきちんきちんと支払っている。もったいない、カネが惜しい、などとは思わないようにしている。

 だがしかし、この受信料の支払いがどうしてもイヤだという人も多い。また、私と違って、NHKはつまらないからまったく見ない、と言う人もかなりいると思う。

 見ない放送の料金を払わされるのは、まことに気の毒である。こういう、自分とは違う価値観を理解するよう、私も日々つとめている。世の中にはいろいろな考え方があるのである。

 そこで、アイデアであるが、電機メーカー各社は、会社の責任でもって、「NHKを受信することが絶対に不可能であることが保証されたテレビ」を製造してはどうか。そして、これを「NHK受信不可能保証書」をつけて売るのだ。

 NHKに金を払うのがどうしてもいやだという方はこのテレビを購入すればよい。NHKの集金人が来たら、この保証書と自宅のテレビを示し、「私の家ではNHKは映りません」と、堂々と言えばよろしい。

 電機メーカーのほうでは、こういうものを製造するとやや企業の評判にも影響するであろうから、そのぶん、まあ、10%くらい高値で売ってもよいのではないか。放送受信料を払わなくて済むことを思うと、ユーザーのほうも十分収支が合うだろう。

 ムダ金払ってでもNHKが見たいという私のような皆さんと違う変人は、あえて少し安い「NHKも映るテレビ」を買えばよろしい。だって、NHK見てるんだもの。俺は見たもの使ったもの、食ったもののカネは払うよ、ちゃんと。

テレビを見る

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 ほとんどテレビを見ない。ニュースが嫌いだからだ。ニュースが嫌いというより、思想的なニュースキャスターが嫌いなのだ。まあ、ご本人たちも結局のところ有名人で、キャスターなぞといいつつ、実質はタレント、芸人の類いである。自分の考えなんかどうだってよく、視聴者の情緒よりする上からの命令に合わせて色々と喋りまくらなくてはならず、それで私のような安物の偏屈おやじの憎悪をよぶのだから、よくよく考えてみると金持ちとはいえお気の毒というより他ない。

 テレビを見ないから、ドラマもあまり見ない。「あまり」というのは、たまには見る、ということだ。

 このところの朝のドラマ、「マッサン」は面白いから見ている。ただ、普段は見る暇がないので、家のレコーダーに一週間ぶん録り貯めたやつを日曜日に見ている。

 これだって、最初は見る気なんかなかった。ふとしたはずみで、途中からなんとなく見はじめたので、最初のほうを見ていない。

 それで、最初の方の見てなかったやつをこの正月休暇に見てしまうことにした。幸い、今のテレビにはネット機能があり、各種のビデオ配信サービスが使える。ドラマのバックナンバーが見られるNHKのオンデマンドサービスを向こう1ヶ月ぶん買った。いながらにして昔の番組をいろいろと見られるのだから、これは便利だ。月980円である。ずっと見るわけではないから、来月はやめてしまえばよろしい。

 マッサンの見ていない回は十数回までだ。オンデマンドサービスで見ていないところを順に見て、筋書きのわからなかったところを確かめるなどし、十分楽しむことができた。単品で買うと1回108円なので、十数回で980円払ったのはまず妥当な割引だ。

 しかし、1ヶ月間見放題なのをそれで終わらせるのはもったいない。どうせ1ヶ月間同じ値段で他の番組も見放題なので、何か他に見るものはないかな、と思ってメニューをあさると、一昨年ごろのドラマの「夫婦善哉」を見つけた。当時放映されていたのは知っていたし、もとより織田作之助を愛読している私である。放映当時、見てもいいかな、と思っていたが、そういうドラマが放映されていると知ったときには第2回くらいまで放映されてしまった後だったので、もうええわ、と見なかったのである。

 それを、先程からまとめて全部見た。

 今日になってから見て、良かった。もし放映当時見ていたら、私は怒り出しかねなかったろう。なぜかというと、ドラマは、平成19年に発見された未発表の遺稿、「続 夫婦善哉」の筋書きをも存分にアレンジしてあったからだ。「正」のほうは私が若い頃からの愛読書でもあり、各節をそらんずることすらできるほど何度も読んでいるが、反面、「続」を読んだのは恥ずかしながら去年のことで、ドラマ放映当時は遺稿が発見されていたことも、それが出版されていたことも知らなかった。去年岩波の正・続他12編の合本を書店で見つけて買うまでは、新潮文庫の古いほうを一冊愛読しているきりであったのだ。

 だから、もしドラマを先に見ていたら、「な、ななな、なんちゅう改変を加えよんねん、これでは原作をレイプするようなものではないか!」と、脚本家を批判しただろう。

 だが、そうではなかった。遺稿・続編を読んだ後で見て、本当に良かった。

 ドラマそのものは、原作の忠実な映像化ではなく、「夫婦善哉イメージビデオ」の趣である。台詞の登場箇所など自由に変えてあるが不快な感じではなく、かえって面白かった。

貧困など増えていない

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 先日のことだ。見るともなし、つけっぱなしになっていたテレビから、NHKの人気番組の惹き文句が耳に入ってきた。

 「子供の6人に1人は貧困である」という。

 私の知人にはデータに取り組んでいる人も多く、統計に詳しい人もたくさんいる。この人たちは、おそらくであるが、この番組の惹き文句を聞いて、私と同じように「やれやれ…」と思っているに違いない。

 所得の分布が正規分布に従うとしよう。

 もう、こう書いた時点で、私の友人知己のみなさんは、「ああ、わかったわかった、言わずもがなのわかりきったことを言うなよ佐藤よ。ばかばかしいじゃないか」と言うだろう。だが、痛々しく、かつくだくだしく、書かずにはおれない。

 仮に、「国の貧困基準」なるものを、平均から1σ下げたところに決めるとしよう。残差自乗平均だの分散だのということは今さら解説すまい。計算するまでもなく、1σより下が貧乏人だというなら、ざっと17、8パーセントは常に貧困だ。そりゃ、6人に1人は、貧乏に決まっている。

 施策を打とうがなにしようが、貧困というのが他者との比較に基づく相対的なものである以上、そうなる。

 テレビって、なんでこういうものの言い方をするんだろう。

「1Q84」感想

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 文句なしに面白かった。何年も前に発表された大ヒット作であり、あらゆる人々に読み尽くされた後の本であるから、私如きが今更感想など書き留めておくのもなんだか痛々しい。だがそれでも、書いておきたい。面白かったからだ。「ネタバレ注意」である。

 私は、村上春樹の作品を一冊も読んだことがない。若いときにも読む気は起こらなかった。私は村上春樹に限らず、リアルタイムの話題作と言うものをほとんど読まないのだ。本屋でポスター貼りの本や平積みの本を手に取ることなど、まず、ない。話題作は、いつもかなり時間が経ってから読む。意識してそうしてきたわけではない。ただ、本屋に入って、自分の読みたいもの、興味のあるものを思ったとおりに選んでいたら、自然そうなってしまうだけだ。そして村上春樹の作品は、発表される端からすべてが話題作である。こうしたわけで、自然、手に取らないことになった。

 ただ、村上春樹が超有名であることは言うまでもない。文章が平明で正確な作家であり、読みやすいということも聞いて知っていた。もちろんノーベル賞の候補に推されるほどだから、読んでハズレがないことも最初からわかってはいた。

 最近になって、村上春樹が翻訳した海外作品をいくつか読んだ。レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カポーティ。村上春樹はアメリカ文学の翻訳家として沢山の本を訳している。それらの感想を友達に話すうち、「『1Q84』は読みましたか」という話にもなった。何か気になってきて、遅ればせながら「1Q84」を手に取った次第である。

 連合赤軍、ヤマギシ、エホバの証人、モロにオウム真理教や創価学会のようなカルト、バブル、東電OLを思わせる事件、虐待される子供、池波正太郎「仕掛人梅安」のモチーフ、かつてのNHKの集金人の印象、乱倫セックス、不倫、SF、独裁者よりも恐ろしい集合無意識やネットワークのようなもの…等々、実に多くのものがテンコ盛りに盛り込まれている。

 物語がそれらのパーツを強引に巻き込んでいく様子は、さながら大きな神社の極太の注連縄が、その尖った先端に向かって人工的にかつ強引に縒り合されていくかのようだ。男女の愛が結実するまで、注連縄は力技でギリギリと締め上げられていく。途中で多少夾雑物がこぼれ落ちようがお構いなしだ。

 都会の街の底の歳時記の趣もある。扱われる居心地の悪いパーツが時として嘔吐感をもよおす程に薄汚れているにもかかわらず、まるでそれを忘れさせるように四季の変化が美しく描き込まれ、春夏秋冬の空気が薫るようである。作者はその落差を意識でもしたのだろうか。

 この本に描かれているのは「物語」であり、主張などではないと見た。そこには問題提起も指摘も論理も、何もない。そんなものは物語に必要ではないからだ。

 本が楽しく面白く悲しく深刻に、そして美しく書かれ、楽しく面白く悲しく深刻に、そして美しく読まれる。それでよいではないか。

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☆ ツッコミのいくつか

  •  BOOK2からBOOK3(文庫4巻~5巻目)への切り替えが雑。4巻目の「青豆入り空気さなぎ」はどこへ行ったンじゃーーーッ!?ひょっとして書くのがめんどくさくなったのか~>作者
  •  最終シーンにヤナーチェクのシンフォニエッタを持ってきて、調和的に盛り上げてほしかった。また、最後に、はじめのトヨタ・ロイヤルサルーンの、オーディオ完備タクシーが登場すれば結びとして時代劇のような構図が完成したろう。だが、そうすれば、文学としては陳腐化し、二流大衆小説になったかもしれない。
  •  終章に近づくにつれて、魅力的で重要な登場人物たち(ふかえり、戎野先生、緒方夫人…)が、どうでもよくなって投げ出されていくような印象。うーん、捨てられる登場人物がかわいそうだぞ。
  •  ボーイ・ミーツ・ガールに着地させるのは、どうなのか。ちと安っぽくないか?
  •  牛河。この魅力のある登場人物。未読であるが、スターシステムじみて、「ねじまき鳥…」にも登場する人物だそうな?。しかし、雑に扱われすぎだ。4巻(BOOK2後編)まで、青豆・天吾・青豆・天吾…と美しく繰り返されてきた章立てに、突然この醜い男は一章、見事な舞台を与えられて闖入してきたにもかかわらず、なんだか、作者が最後のほうでめんどくさくなってきて扱い方に困り、エエイ殺してしまえ!と殺したような感じである。最後の登場の仕方なんか、死体である(笑)。
  •  池波正太郎の「仕掛人・藤枝梅安シリーズ」が最もヒットしていたのは昭和59年(1984年)前後であるから、この物語の素材としてそれが応用されるのは、実に面白いことだ。

欧米白人を嫌うおっさん(私)の落想

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 悪意の欧米白人が日本人を困らせ、いじめ、持っている金を巻き上げるにはどうしたらよいか。

 軍備に劣る日本を、力で追い込むと、さすがに窮鼠猫を噛むが如きことになって、大東亜戦争の轍を踏む。日本人が全員、核攻撃を浴びて死に絶えようが、それは欧米白人の知ったこっちゃないが、悪者は欧米白人だということになるのは具合が悪い。

 それなら、まずエネルギーだ。これでジャップを困らせ、金を払わせよう。欧米白人はそう考える。

 知らない人が多いが、アメリカは、実は世界一の産油国だ。

 だから、アメリカは、産油地域のイスラム・アラビアをどんなにいじめ、困らせようと、エネルギーという点ではちっとも困らないのである。困るのは、日本のような国である。そして、世界一の産油国のアメリカは、自由自在に石油の相場を決定できるのだ。

 これもあまり知られていないが、その昔、日本が対米戦争に踏み切った直接要因は、陸軍が勝手に暴走したなどというようなNHK流の荒唐無稽な妄想話ではなく、アメリカの石油の禁輸措置にあった。戦前もアメリカは世界一の産油国であったから、日本の石油の輸入は、100パーセント、アメリカに頼っていたのである。そこを衝かれたのだ。

 悲惨を極めた戦争の後、日本とアメリカは講和し友好国となった。だが、さすがに日本も馬鹿ではないから、アメリカから石油を買うことだけは、もうしなくなった。アメリカ以外の国々、特に中東諸国から買い入れるようになったのである。

 「クソッ。猿野郎。怯えやがった。もう一度ウチの石油を買いやがらねえかな」くらいのことは、内心アメリカの意思として伏在するだろう。

 たとえアメリカが凋落して、世界一等国の地位から転落するようなことがあったとしても、原住民から収奪した広大な国土から産する石油その他の地下資源を掘り出して売れば事足りる。油田の開発と掘削はテクノロジーのしからしむるところであり、簡単なことではないとは言うものの、いろいろな物を開発生産することに比べれば、基本的には力づくで地面に穴を掘るだけだから、文明度が低かろうと国民の知能が劣ろうと、それで食っていくことはできる理屈だ。

 彼らは道徳高い人を育てたりすることに欠ける。それは、別に人など育成せずとも、いざとなれば地面に穴を掘れば、カネになるようなものがザクザクと出てくるからである。だから、人を育て、その高度な知能によって物を製造して売ること、そのこと一点にのみに賭ける、というような、日本のような国づくりはしなくてよいのである。

 ともあれ、イスラム・アラビア攻めで困るのは、日本のような国だけだ。アメリカは困らない。多少、戦傷者が出る程度で済む。罪のない、貧しいイスラムの一般の人がその10倍死傷しようと、それを現地の元首や政府のせいにして澄ましかえっていればよいのである。

 次いで、食料。日本は、食糧を輸入に頼る。米以外のほとんどの食料を海外から買っていることはそこいらの小学生でも知っている。だが、確かに輸入といえば輸入だが、ほかの食料と比べて純然と輸入とは言い切れない食料が、実はある。それは魚介などの海産物である。「魚離れ」とはいうものの、日本人の蛋白源は、いまだにかなりの率が魚に頼る。

 日本人を食料の面で締め上げ、困らせたあげく、食料を売りつけて金を巻き上げる。それには、どうしたらいいのだろう、と、欧米白人は考える。どうも日本人は、金は確かにある筈なのに、こっちの押し付ける肉などを買いやがらねえ、肉なしで人間が生きられるはずがねえ、何か代わりのものを食ってやがるんだろう、調べてみよう、…などと考えたかどうかは知らないが、そうやって調べてみたら、なんと、天然資源の魚をどんどん獲って、それを食っていることが、たちどころにわかるわけだ。

 広い大洋で海産物を獲るのは、勝手である。漁にかかるコストはあるが、畜産などに比べれば、はっきり言って、魚はタダだ。そしてまた、国際的に文句のつけられるような筋合いのものではない。

 よし、それなら、日本人が海産物を獲れないようにしてやろう。そして、オーストラリアやアメリカから、牛肉を買わせてやる。

 そうするにはどうしたらよいか。

 そう、まず手始めに、「鯨を獲るな」である。牛肉を買わせたいオーストラリア人が言い出すとは、実にわかりやすい話だ。

 鯨は現在では、日本人が主として口にしている海産物ではない。だが、それを皮切りに難癖をつけ、欧米白人たちがどのように議論を広げていくつもりなのかは明白だ。現に、もう、次第に奴らの意図は見え始めている。マグロに対して、奴らは狡猾な言いがかりをつけ始めたではないか。

 「マグロが減っている。学術的にそれは明らかだ。」

 「野蛮な競り市で、マグロの屍骸を取引している。文明的でない。」

 「マグロの解体ショーとはいったい何事。血なまぐさく、民度が低い。」

 こんな難癖をつけ始めているのだ。そして国際会議の議題に持ち込み始めた。しまいには、「マグロは知能の高い魚で、人類の友達だ」などと言い出すだろう。

 そしてもうすぐそれは、魚全体そのものに関する内容に広がってしまうだろう。いわしもさんまも、じきにそうなる。

 単に嗜好や文化のことを言っているのなら、我慢のしようもある。だが、違う。彼らは彼らの低劣な収奪と侵略の意図でもってそれをやっている。それを決して見過ごしてはならない。

 だから、これ以上、欧米の文化を無防備に受け入れることをしてはいけない。ハロウィーンなどの子供の遊びにも、心の奥底にはピリッとした警戒感を常に持ち、猜疑心を持ってそれを監視し続けなければならぬ。そうしないと、「何が何でも石油化学製品を作り続けなければ文明国の地位からたちどころに転落する」とか、「獣肉を食うことは優れたことであり、海からタダで魚をとることは、卑怯で野蛮なことだ」などという、知らない間にもぐりこまされたおかしな価値観を握らされ続けることにつながってゆく。

 すでに、彼らは日本の商習慣を破壊することに成功した。

 これも、知らない人が多いが、昔、ペリーに屈服させられた日本は、欧米の言うがまま、不平等条約で不当な関税措置を飲まされ続けた。ところが、関税をかけることができなくても、日本国内ではいわゆる「舶来物」は売れなかった。なぜか。

 「大問屋・中卸・卸問屋・問屋・小売店」などといった日本の再販制度が作用したのである。それは、長い鎖国時代、飽和状態にあった国内市場で、ひとつの工業製品に、できるだけたくさんの人がぶら下がって食っていくために編み出された、流通の完成形であった。それが思わぬところで作用したのだ。

 輸入品にはさらに総代理店・代理店などが入るため、その利益が上乗せされ、舶来品は高価なものとなった。だから、大正時代に不平等条約が撤廃されても、また、その後、戦後かなり経ってからですら、日本では輸入品はさっぱり売れなかったのである。それは、民衆が勝手にやっている関税のような働きをした。民衆が勝手にやっていることだから、欧米白人はそれに文句をつけることができなかった。

 そこで、おかしな価値観を奴らは吹き込み始めたのだ。

 「日本の前近代的な商習慣は、日本の産業や商業の発展を阻害している。アメリカではそんなことはやっていない。アメリカは優れているから、アメリカのようにするべきだ。だから日本はダメなんだ」

 というわけである。

 まじめに国産品を作り、また、国産品を売っている人に問いたい。「グローバル」などという当時耳慣れなかったカタカナに妄従し、国をあげて馬鹿のようにアメリカ化に励んで、その結果、物はよく売れるようになっただろうか。否である。物事をアメリカ流に変えた結果、得をしたのは、アメリカだけだ。

ドラマ「坂の上の雲」雑感

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 さてそれにしても、このところ、常々思っていることがある。NHKのドラマ「坂の上の雲」のことである。

 このドラマは、原作にもよく沿って作られており、なかなか大作であって評価できる。製作陣営の技術と出演者の類まれな演技力を評価したい。老若男女、誰もが見てよい。

 だが、しかし、ある一点のために、ダメになってしまっている。

 それは、正岡子規が念願かなって大陸へ従軍に出るエピソードの部分だ。

 司馬遼太郎の原作では、この部分は、「須磨の灯」という章で、たったの2ページで済まされてある。問題の部分は、1ページにも満たず、わずか4行である。なぜこのように短いかというと、この部分の主題とするところが、念願の従軍も、病勢をつのらせる原因にしかならなかったということにあるからだ。病身の正岡子規が時代の空気にいてもたってもおれず、上司をかきくどいて取材に出たものの、それは「子供の遊びのようなもの」にすぎず、ほんのおさわり程度に大陸の要地を見ただけで終わってしまい、結局は帰国の船上で大吐血してしまう。「須磨の灯」の章の冒頭部分は、これらのことを、物語の進展の上で軽く述べているに過ぎない。

 ところが、NHKドラマときたら、これはどういうことであろう。侵略者の権化のような曹長率いる一隊が、中国人の集落を我が物顔に闊歩し、徴発と称して荷駄を略奪する。正岡子規は老人や子供を守ろうとし、それに異を唱えるが、軍国主義に凝り固まった曹長が無理矢理に暴力に訴えて子規を黙らせようとする。非力病身をも省みず、思わず護身のために身につけた家伝の脇差の柄に手がかかる子規。これをたまたま居合わせた森鴎外が、平和主義の代表のような表情で止めに入る…などという、原作には存在しない挿話が無理やりねじこんであるのだ。

 これは作品に対するはなはだしい侮辱である。一体どういう脚本家だ。脚本家の仕業かプロデューサーの仕業か知らないが、ひどい作り手だ。

 頭の悪い若者がこのシーンを見れば、明治時代の日本陸軍は、腐りきった略奪者の群れであったという風に、頭から信じ込んでしまうだろう。

 時代というもの、また日露双方の当時のありように関して、彼らはあまりにも不勉強というほかはない。しかもなお、これは原作の司馬遼太郎の作品に加えられた、いわば強姦にも等しい蹂躙であり、その文学的格調を大きく失わせるものである。

 これは小さいシミのようなものではあるが、見過ごすことのできない過失である。いわば、美しい反物に落とした一滴の墨汁のようなものだ。そのシミが、せっかくうまく出来ているドラマ全体を二流品にしてしまっている。

イチゴ・花壇

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 庭に植えたイチゴは、順調にしっかりした苗に育っている。育て方を書いてみた( イチゴを育てる)。
 自分もひとつイチゴでも植えてみようと思う向きは、栽培のし方をインターネットで調べるとよい。かなりの量の情報がタダで集まる。
 他に、本で調べるのなら、 「NHK趣味の園芸 よくわかる栽培12か月 イチゴ」(日本放送出版協会 ISBN4-14-040180-X)という本を買えば非常に良くわかる。
 花壇を整理して、ゴールドクレスト、シクラメン、ブルーキャッツアイ、ジュリアン、鶏頭を植えた。



花壇に花を植えた