読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第16巻の三つ目、「歴史とは何か」(G.チャイルド Vere Gordon Childe著・ねず まさし訳)、本文を往きの通勤電車の中で、解説を帰りの通勤電車の中で読み終わった。

 著者のチャイルドはオーストラリアの学者で、「マルクス主義考古学」なる変わった学問の提唱者である。

 本書は、歴史をさまざまな学問の分野から見るとき、例えば工業技術の歴史から見るとき、あるいは文字から文学への変遷の歴史から見るとき、また宗教史から見るときなど、様々な角度からどのように歴史を読み解くことができるかを論じている。結論に近づいていくにつれて、結局は次第にマルクス主義礼讃の筆致へと傾いていくが、そこが難点と言える。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第16巻「歴史とは何か」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.574より

 旧石器時代の狩人は、マンモス狩りのときには自分の一族の助けを必要とした、もっとも当時の装備があまりに貧弱であって、孤立している個人では、マンモスの群れを向こうにまわして大したこともできなかった、という事情にもよるのである。近代のライフル銃一(ちょう)をもっていれば、ヨーロッパ人ひとりでも、やすやすとゾウをうつことができるし、この点に関するかぎり、彼は旧石器時代の祖先よりも独立しているのである。ところが、この狩りをするときにもっている独立性たるや、彼が猟銃や弾薬の生産と分配に従事するすべての人々に依存しているために、得られたわけである。狩人として石器時代の未開人よりもすぐれた資格をもたせる、ただひとつのこの道具を手にいれるためには、彼はこれらの未知の人たちすべてとの間に、人間としての関係ではなくて、また自分の意思とも関係のない関係をむすばなければならなかった。

p.582より

 また「人間は自分の歴史を作るとはいえ、それは共同計画にしたがって共通の意思によるのではない、それどころか、ひとつの特定の構成をもつ社会のなかでつくられるのでもない。万人の努力は衝突する。そしてまさにこのゆえにこそ、こういった社会はすべて必然性によって支配されるのである。この必然性は偶然によって補なわれ、また偶然という形をとって出現するのである」(エンゲルス「シュタルケンベルクへの手紙」、選集、英語版三九二ページ――著者注)

 この部分などは、全体主義、結束、一本化、統一といったことと対極にあるものの考え方を示していると思う。

 次は第17巻である。第17巻は日本の著作ばかりで、「日本文化史研究」(内藤虎次郎著)「黒船前後」(服部之総著)「蘭学事始」(杉田玄白著)「おらんだ正月」(森銑三著)の四つである。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第16巻の二つ目、「世界文化小史 A short history of the world」(H.G.ウェルズ Herbert George Wells著・藤本良造訳)を帰りの通勤電車の中で読み終わった。中央線水道橋のあたりだった。

 著者ウェルズはSF小説の創始者として誰知らぬ人のない大家であるが、平和運動や歴史書の執筆でも多くの功績がある。本書は第16巻約600ページのうち300ページ以上を占める大著なのだが、これをしもウェルズは「小史 short history」と題している。さもあろう、ウェルズは本書より先に厖大浩瀚(ぼうだいこうかん)の一大著作「世界文化史」を(あら)わしており、本書はその入門編であると自身の手になる序文に記しているのだ。

 本書はなんと、地球の生成から語り始められ、一気呵成に第2次世界大戦前夜までを語り尽くす。欧州史に重心が置かれていることはウェルズの立場から言って当然ではあるが、公平にアラビアや東洋についても語られ、日本についても特に一項を割いてその歴史を通観している。

 著述の姿勢は実に公平・公正と言える。戦争について記すにしても、弱者が劣っていた、誤っていた、敗者がすべて悪かった、というような見方を徹底的に排除しているように感じられる。

 ここで、翻訳者藤本良造による看過すべからざる悪辣な加筆が加えられていることを指弾しておかねばならぬ。解説に記されているが、藤本は翻訳するにあたり、第2次大戦後に出された本書の改訂版に、ウェルズによって付け加えられた巻末の「補遺」を「大した意味がない」(p.499の藤本による解説)として切り捨て、あたかもウェルズの手になるかのような誤解を招く形で自分が書いた文章を挿入しているのである。その文章は下手糞な筆致で敗戦した日本への不満を垂れ流したものであり、歴史に冷静な視線をもって対しているとは言いがたく、ウェルズの公平無私の著述態度とは正反対の下らないものだ。ウェルズの闊達で俯瞰的な姿勢には到底及ばない。この無残な改変は原書に対する甚だしい侮辱であり暴挙であって、翻訳の労による折角の功績をゼロにするばかりか、マイナスにもしかねない。藤本は「ウェルズはこの改変を許すであろう」という意味のことを書いているが、こんな下らぬ内容の文など決して許されまい。その一点のみ、読書していて残念であった。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第16巻「世界文化小史」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.227より

 どんな未開人でも一種の因果論をもたないほど低級なものはない。しかし原始人は因果関係についてはあまり批判的ではなかった。かれらはひじょうに簡単に一つの結果を、その原因とはまったく異なった他のものに結びつけてしまうのである。「そうしたからそうなった。だからそうすればそういうことになる」と考える。子供にある果実を与えると幼児は死ぬ。剛勇な敵の心臓を食べれば強くなる。この二つの因果関係の一つは真実であり、一つは誤りである。われわれは未開人の考える因果の体系を「庶物崇拝」と呼んでいる。しかし庶物崇拝はたんに未開人の科学にすぎない。それが現代の科学と異なっているのは、それがまったく非体系的、非批判的であり、それゆえに時々誤っていることである。

 原因と結果を連絡させるということが困難でない多くの場合もあり、また誤った考えが経験によってただちに訂正される場合もたくさんあった。しかし原始人にとってひじょうに重大な出来事のうちには、かれらが辛抱強くその原因を探求して発見した説明が誤ってはいたが、といってその誤りを見破られるほど、明白な誤りでもなかった場合が数多くあった。狩りの獲物が豊富なことや、魚がたくさんいて容易に獲れるということは、かれらにとっては重大な事柄であり、たしかにかれらは無数の呪文や前兆によって、この望んでいる結果の解決をえようと試みたり信じたりしていた。

p.228より

原始宗教はわれわれがいま宗教といっているようなものではなくて、むしろ習慣であり、行事であり、初期の聖職者が指図したことは、実際には独断的で原始的、実用的な科学だったのである。

p.334より

どんな帝国も、どんな国家も、どんな人類社会の組織であっても、つまるところは理解と意思によって成り立つものなのである。ところがローマ帝国のための意思はなにものこっていなかった。そしてローマ帝国は崩壊していったのである。

p.350より

九世紀の初めのイングランドは、シャールマーニュの臣下のエクバート王が支配するキリスト教化された低ゲルマン語国であった。ところがノルマン人はこの王国の半分を、エクバート王の後継者であるアルフレッド大王(八八六年)から強奪し、ついにはカヌート(一〇一六年)の指揮のもとにその全土の支配者となった。また一方のノルマン人の隊長ロルフ(九一二年)のひきいる別の一群のノルマン人はフランス北部を征服したが、これはノルマンディ公国となった。

 カヌートはイングランドだけでなくノルウェーやデンマークさえ支配していたが、そのはかない帝国はかれの死によって、領地をその息子に分配するという未開種族の政治的な欠点のために分裂してしまった。このノルマン人の一時的な統一が継続されたとしたら、どんなことになったかを考えてみるのは面白いことである。

p.425より

人間はもはやたんに無差別な動力の源泉として求められはしなくなった。人間によって機械的になされていたことは、機械によってさらに速く、いっそう巧みになされるのであった。人間はいまや選択力と知性を働かすべきときだけに必要となった。人間は人間としてのみ要求されるようになった。これまでのすべての文明を支えていた労役者、たんなる服従の動物、頭脳のない人間、そうしたものは人類の幸福には不用のものとなったのである。

 上の部分は産業革命について述べた部分であるが、これについてはしかし、多少疑問も覚える。というのは、現在も同じようなことが人工知能(AI)に関して言われているが、労役者としての人間が不要とされる時代はこの情報革命後の現在においても、結局来てはいないからである。

p.452より

 ロシア軍は、指揮も下手で供給品にも不正があったため、海上でも陸上でも敗北した。しかもロシアのバルチック艦隊はアフリカを回航していったが、対馬海峡で完全に撃滅されてしまった。そしてこうした遠方での無意義な殺戮に憤激したロシア民衆の間には革命運動が起こり、そのためにロシア皇帝は仕方なく戦争を中止することにしたのであった(一九〇五年)。かれは一八七五年にロシアが奪った樺太(からふと)(サハリン)の南半分を返し、撤兵して朝鮮を日本にまかせた。こうしてヨーロッパ人のアジア侵略は終りとなって、ヨーロッパの触手は収縮し始めたのである。

 そうした意思を日本が持っていたかどうかは別として、欧州人の東亜侵略を他ならぬ日本が終わらせたのだとウェルズは言っているわけである。私がウェルズの著述姿勢を公平無私であると思う所以(ゆえん)は、こうしたところにある。

言葉

 これで「(けり)」と()み、チドリ科の鳥の一種のことなのだが、本書中では次のように使われている。

下線太字は佐藤俊夫による。訳者藤本良造による「補遺」p.477より 

そして交渉の結果は、ついにソヴェトの連続的爆撃によって高価にはついたが三ヵ月の後に、ともかくも問題の(けり)はつけられることになった。

 「ケリをつける」という慣用句のよってきたる(いわ)れは、文語体の助動詞の「けり」が、文の「おしまい」を「切る」働きがあることから、「おしまいにする」「結論を出す」というところにある。俳句の切れ字で「やみにけり」などと句の終わりなどに使われることからもわかる通りだ。

 だが、古い文章などでは洒落(シャレ)のめしてか、この「鳧」という字を使うことが多いようだ。しかし、鳥の鳧と、ケリをつけるという意味の「鳧」との間には、直接の繋がりはない。

 次は同じく第16巻から「歴史とは何か History」(G.チャイルド Vere Gordon Childe著・ねず まさし訳)を読む。著者のチャイルドはオーストラリアの学者で、「マルクス主義考古学」なる変わった学問の提唱者である。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第16巻を読み始めた。この巻には「人間の歴史」(M.イリーン著・八住利雄訳)「世界文化小史」(H.G.ウェルズ著・藤本良造訳)「歴史とは何か」(G.チャイルド著・ねず まさし訳)の三つが収められている。

 まずは一つ目の「人間の歴史 Kak stal chelovek gigantom / Как человек стал великаном」(ミハイル・イリーン Mikhail Il’in / Михаил Ильин著・八住利雄訳)を往きの通勤電車の中で読み終わった。

 私は子供の頃に「燈火の歴史」でイリーンに親しんだ。これは短い本だったから、小学生の頃読んだ。しかし、この「人間の歴史」を読み通したのはこれが初めてである。

 「人間の歴史」はもともと子供向けの読み物だそうだが、なかなかどうして、大人が読むに足る。

 人類の発生から有史直前までを壮大な視野とスケールで語るもので、これはそのまま、著者イリーンと言う人がどういう視野を持つ人であったかを物語る。

 最近は国際的に「SDGs」が提唱されている。しかし一方で、人間は環境との不適合による困難と、その克服によってかくまでに地上の王、万物の霊長たりえた。本書を読むとそういう思いが深くなる。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第16巻「人間の歴史」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.146より

 他の民族に対する古代の敵意の名残りや断片は、現在でも見られる。これは不思議なことである。鉄器時代、いや、さらにアルミニュームや電気の時代になっても、他の民族に対する敵意や人種的な憎悪を説いている人々がいる。その人々は、人間は自分たちだけだと考えている。彼らの意見によれば他の人々は人間ではなく、低い種類の存在であるようである。

 他の人々(異種族)、他の血縁の人々に対する敵意は、古代原始人たちの感情や信仰の名残りである。

 歴史は、私たちに、この地上には高い民族も低い民族もないということを教えている。進歩した民族と、文化の途上でとり残された民族とがあるだけである。仕事の暦によれば、いっさいの現代人たちは、まったく同じ時代には属していない。進歩した民族は、おくれた民族を助けてやらねばならないのだ。

 が、ヨーロッパには、黒人たちや、オーストラリア人や、その他の「未開人たち」に対しては、上から見おろすような態度が取られている国がある。

 そのような国の人々は、たとえば、現在のポリネシア人は過去のヨーロッパ人であるということを理解しないし、また理解することを欲しないのである。

p.148より
アメリカの発見

 アメリカを発見したヨーロッパ人たちは、新しい世界を見つけだしたと考えたのである。

 コロンブスは、次のような言葉をきざんだ勲章を贈られた。

カスチリア(スペイン王国)とレオンのために
コロンブスは
新しい世界を発見したのである。

 が、この新しい世界は、実際は古い世界であった。ヨーロッパ人たちは、アメリカにおいて、もうとっくに忘れてしまった自分たち自身の過去を発見したのであったが、それには気がつかなかったのだ。

 イリーンは上の記述に続けて、コロンブスがアメリカを訪れた頃の先住民が母系社会を作っていたこと、また、多くの地域、もちろんヨーロッパでも古代は母系社会であったことを紹介し、論拠としている。

 次は同じく第16巻から「世界文化小史 A short history of the world」(H.G.ウェルズ Herbert George Wells著・藤本良造訳)を読む。著者のH.G.ウェルズは、SF小説の中でのことではあるが、「タイム・マシン」を世界で初めて「発明」した作家として知られる。ジュール・ヴェルヌと並ぶSF小説の父であるが、評論や論説も数多く残しており、本書はそのうちの一つである。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、五つ目、「第二貧乏物語」(河上肇著)を()きの通勤電車の中で読み終わった。本巻の(ほぼ)半分を占める大著であった。

 著者は戦前の筋金入りの共産主義者である。当時「赤旗」の編集などしていたため、刑務所(ムショ)で5年も臭い物相(モッソウ)(めし)を喰らい込んだ古強者だ。

 その著者が「貧乏とは何か。なにゆえ我々はかくも貧困にあえぐのか」というところから共産主義を説くのが本書である。

 今本書を読むと、批判、非難や弾圧にも屈せず切々と共産主義の正しさを説き続けている著者の筆致が、誠実を尽くしているだけに、むしろ悲しくさえある。

 刊行当時は検閲が厳しく、多くの部分が伏字で出され、それを戦後発見された原稿によって修復した旨が序や解説に記されてある。当時伏字であった部分には亀甲括弧〔〕や二重山括弧《》が付され、それと判るようになっている。だが、今日(こんにち)本書を読んでみると、そうした当時の伏字部分には大した単語は書かれておらず、逆にそれしきの単語に過敏に反応した当時の検閲がどれほど厳しく馬鹿らしいものであったかが想像される。

 この本が書かれておよそ40年が経った後、高度経済成長期後の、一億総中流社会と言われた日本の、程よく共産主義的味付けの効いた日本流修正資本主義の隆盛ぶりを著者が見たら一体何と言っただろうか。随喜の涙を流して満足したろうか、それとも「そうじゃない」と、毛沢東の言う「矛盾による成長、止揚、揚棄(アウフヘーベン)」のようなことを資本主義と共産主義との間に見出し、修正資本主義と市場社会主義は相互作用による成長の結果であるとして、目標を先へ延伸したろうか。

 そうした点で今は本書が共産主義の古典的理解になってしまっているという見方もやむを得ない。末川博による解説にも、ブハーリンの「史的唯物論」の偏向と誤謬を取り入れている点などで、昭和5年(1930)に出された本書は一時代前のものとなっている、という意味のことが書かれている。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「第二貧乏物語」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.300より

 人間の頭のなかから地球や日月星辰やが生まれ出るのではない。人間はもちろんのこと、いっさいの生物がまだこの地球上に発生しない以前から、地球そのものは存在しておる。それからずっと後になって、この地球の上に、はじめて人間が発生し、そしてその人間の頭脳へ地球や日月星辰やが反映して、それが人間の意識となり観念となるのである。これは極めて理解しやすいことだ。

 著者河上肇はマルクスとエンゲルスにそれこそ逆に宗教的とすらいえるほどに帰依し、徹底して弁証法的唯物論の正しさを唱え、形而上学を排撃している。そんな著者による上の一文には、本書の過半が代表されているように思う。著者の弁証法的唯物論は、デカルトの「我思う故に我あり」など吹き飛ばさんばかりの勢いで、堂々とその対極にある。

言葉
六合(りくごう)括嚢(かつのう)する

 「括」には「(くく)る」、「嚢」には「(おさ)める」との()み方がある。一方、「六合(りくごう)」とは上下と左右前後を合せた6方向のすべてをいい、世界や宇宙のことを言うものと思ってよい。そうすると「六合を括嚢する」とは、「世界をすべてひとまとめにする」という意味となる。

下線太字は佐藤俊夫による。p.247より
(引用者注 以下は著者河上肇による江戸時代の書『混同秘策』(佐藤信淵(のぶひろ)著)の引用である。)

()深く()(いく)の大恩に感じ、ひそかに六合を括嚢するの意あり、しかれどもいかんせん家貧にして年の老いたることを、ここにおいてこの書を筆記し、題して混同秘策と名づけ、いささか以って晩遠の鬱憤を写し、固封して児孫に遺す、云々」

喣育

 上の「六合を括嚢する」の引用文中、「()(いく)の大恩に感じ」という句が出て来る。この「喣育」の「喣」には「色を出す、あらわし、しめす」という意味がある。そうすると「喣育」とは、「形になるよう育てる」という意味となる。

老残羸弱

 「老残(ろうざん)(るい)(じゃく)」と読む。「羸」は疲れ弱ることで、「羸弱」で著しく疲れ衰えることを言う。

p.366より

 今まではだいたい気持ちのうえだけで嵐のなかに立っていたが、今年からはいよいよ奮発して、老残(るい)(じゃく)のこの身を現実に嵐にさらすつもりだ。

 さて、第15巻を読み終わった。さながら「共産主義まつり」のおもむきすらあり、辟易したりウンザリしたりこそしなかったものの、論の数々は右翼の私には腹の底から(うべな)えるものではなかった。

 次は第16巻。収載作品は「人間の歴史」(M.イリーン著・八住利雄訳)「世界文化小史」(H.G.ウェルズ著・藤本良造訳)「歴史とは何か」(G.チャイルド著・ねず まさし訳)だ。今度は人間そのものの歴史を俯瞰するものとなる。