井上靖の「おろしや国酔夢譚」、読み終わる。
高田屋嘉兵衛の伝記小説「菜の花の沖」(司馬遼太郎)を読んだことから興味を持ち、これまでに吉村昭の「大黒屋光太夫」と、江戸時代に桂川甫周により記録された「北槎聞略」を読んだ。
「北槎聞略」は一種の学術書であり、相当読みごたえがあった。なによりも新鮮だったのは、江戸時代の一介の雇われ船頭に過ぎない大黒屋光太夫が、驚くほど精密な情報を持ち帰っていることだ。
後世に至って、北槎聞略にはソ連側から学術的な検証が加えられ、少なくない誤りが指摘されているのは岩波文庫版の注釈からも窺える通りであるが、全体のボリュームとそれらの誤りの比から言って、むしろ光太夫の体験談は、鎖国下の江戸時代としては逆に正確であることが裏付けられていると言ってよいと思う。
さておき、「おろしや国酔夢譚」は大黒屋光太夫の伝記小説としては最も知られたものだ。
井上靖は明治生まれの、いわば「昔の人」だし、出版も少し古いので、登場人物の心の動かし方などがどうも昔風だ。「何でここで怒るかな」というようなところで怒ったり、「何でここで泣くかな」というようなところで泣いたりする。かなづかいは現代かなづかいではあるものの、「
そうはいうものの、吉村昭の「大黒屋光太夫」にも「北槎聞略」にも書かれていないエピソード、例えば光太夫を送還してきたラクスマン一行への歓待饗応時の料理メニューが取り上げられるなどしていて、面白い作品だった。
言葉
逍遙 と称揚 と慫慂
「おろしや国酔夢譚」の中に「
私は「
〇 しょうよう【逍遥】
( 名 ) スル
気ままにぶらぶら歩くこと。そぞろ歩き。 「河畔を-する」 「此庭上を-して、其感を楽み/薄命のすず子 お室」(三省堂「大辞林」)〇 しょう‐よう〔シヨウヤウ|シヤウヤウ〕【称揚/賞揚】
[名](スル)ほめたたえること。称賛。「善行を―する」(デジタル大辞泉)〇 しょう‐よう【×慫×慂】
[名](スル)そうするように誘って、しきりに勧めること。
「今日牧師が来て、突然僕に転居を―した」〈有島・宣言〉(デジタル大辞泉)
「おろしや国酔夢譚」の中では、次のように使われていた。
光太夫はまた大学の近くのネワ川の岸に建てられてあるクンストカーメラに出向いて行って、火箸、象牙の箸、椀、扇子、硯箱、鈴、そうしたこまごましたものを寄附した。いずれも日常使用していたもので、こんなものを寄附して何になるかと思うような品ばかりであったが、ラックスマンの
慫慂 に依ってのことであった。
遣日使節御馳走づめ
六日にロシア使節の主だった者はこの地の高名な豪商であるという人物の案内で、小舟で埠頭に運ばれ、街を一通り見物させられたあとで、“露西亜屋敷”と真新しく書かれた立札のある家に入れられた。この時は光太夫も一行の中に加えられていた。そしてそこで、風呂の接待を受け、入浴後大きな庭園に面した広間で、幕吏、藩吏、代官、土地の有力者と思われる人たちの饗応を受けた。卓の上には山海の珍味が並べられた。塩味の焼魚や煮魚、そのほかにえび類が大きな皿の上に並び、パンの替りに米飯が出された。
この時の献立は、『江戸旧事考』に「寛政年中魯西亜使節饗応の献立」として記録されている。
――
熨斗鮑 (三宝)、たばこぼん。
――茶。
――(御座付)、吸物(味噌小魚吸口)、小皿(打焼小串魚青山椒 、猪口 (花鰹寄鰊子 )。
――(膳)、白か 大こん、青海苔、ふく の魚、岩たけ、たんさ く玉子、蜜柑酢。
――(汁)、みそ、青菜、竹輪かまほ こ、小しいたけ。
――(香物)、干さんしょう、ならつ け、花輪。
――(壺)、すり山葵 。銀杏 、煎海鼠 、砂糖仕立。以上が一の膳で、二の膳は、
――(地紙形)、草花かいらき、ちりめん大根、
も魚子 つ け、鱒平造り、海そうめん、とつがさ。
――(汁)、針午房 、くじら、ねぎ。
――(猪口)、いり酒、おろし大根、衣きせ鱒、掛しょうか 、油揚たら。三の膳になると、やたらに小皿が並んだ。
――(汁)、うしお仕立、
鱸 こせし。
――(大猪口)、た るま午房、ことしからし。
――(向大皿)、焼物。
――(平)、煮さ まし、かまほ こ、大竹のこ、結ゆは 、わらひ 。
――(銀置露)、枝山升 、こんふ 、玉子、鴨、松たけ。
――(台引)、塩鯛、花鮑 、揚昆布造物。
――(引盃)、吸物、ちりめんざ こ、松露 。以上のあと、銚子が運ばれては、その間に、猪口、小皿、口取、硯ふた、丼、鉢、小皿、雑煮(花かつお、わら
ひ 、串貝、こんふ 、磯とうふ)、平、猪口と、いつ尽きるともなく並んでいる。
……いやもう、呑めるクチには、読んでいるだけで唾が湧きますなァ(笑)。
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