俳句のこと備忘

投稿日:

 この春頃であったか、「じたばた句会」というネットを利用した即吟句会の仲間に入れて貰った。前から相互フォローだった羽沖さんや、主宰しておられる関屋さんに誘われたからである。

 毎週土曜の夜、だいたい22時丁度から15分間で5句以内を詠み、翌日に選評が披講されるというネット独特の句会だ。「青空システム」という個人の方(野良古さんという方)が開発された優れた句会システムを使って運営されている。

 おっかなびっくり、初めて投句してみたところ、その週の出題者だった池之端モルトさんという方が拙吟を天選に採って下さった。この句会のルールは、出題者が作品を「天」に採ると、採られた人が次回の題を出すことになっている。それで、次の週の題を私が出すことになった。一生懸命考えて出した。

 それですっかり楽しくなり、それから毎週、「じたばた句会」に投句するようになった。

 (さかのぼ)れば、私はもともと、子供の頃から俳句が好きで、折に触れ俳句はたくさん作ってきた。それは、私の母が若い頃、京都の「京鹿子」という結社の同人で、俳句を詠むのが上手だったということも影響している。昭和30~40年(1955~1965)頃、母は若手女流として少し知られ、京鹿子編の歳時記にも多くの例句が採用されていたが、中年頃に作句はやめていた。思うに、俳句というのは多分に精神的なもので、これは散文詩にせよ、はたまた絵画や音楽でも同じことが言えると思うが、悩みや苦しみが多いと、それだけ創作に繋がる感受性も強く、その感受性が俳句にも反映され、鋭い作品ができるのだ。だがしかし、逆にその感受性が仇となり、創作自体が懊悩によって難しくなってしまう。天稟の輝きを努力によって磨きもした母であったが反面悩みも多く、その悩みのために俳句はやめてしまった。

 さておき、子供時代から大人になるまでにかけて、発表手段など持たなかった私の俳句など、散逸してしまって残っていないのは当然である。

 平成21年(2009)頃からTwitterを楽しむようになった。しばらくして、Twitterの字数制限をうまく生かし、Twitter上で俳句を楽しむ人が多くいることを知った。それで私も()んだ俳句をTwitterに書き留めておくようになった。

 そのうちに、HAYASHI Yoshioさんという大学の教員を定年で辞められた方が、「#kigo」というハッシュタグで、毎朝()まず(たゆ)まず当季の季語をツイートしておられるのを知り、それを詠むようになった。ほどなく、これも面白くなってきて、熱心に詠むようになった。平成23年(2011)頃はより熱中し、一日に二十も三十も詠んだので、一年に2千~3千句ほどにもなった。

 それと前後してだったか、「さえずり派」というTwitterの(ゆる)い仲間に入れて貰うようになった。俳人の青山酔鳴さんが中心となり、#saezurihaというハッシュタグで、毎週交代で季題を出して楽しんでいる。このハッシュタグはそれほどキツくなく、大したルールもなくのんびりとやっているので永続きし、もうかれこれ10年以上続いている。

 この頃、私はNHK俳句に熱心に投句していたが、勿論それは無謀と言うもので、放送にかかったことなど一度もない。

 洒落(シャレ)で、電子出版を使って自分の句集を出してみたこともある。「俺用句帳β」という題で、「パブー」から出した。このブログにもリンクが貼ってある。洒落は洒落なのだが、洒落の中にも大真面目でもあり、今思うとなんだか恥ずかしいと思う。冗談で55円と言う値段をつけたが、無料でもよかったし、そもそも全部のページが無料レビュー可能なので買う必要は全くないにもかかわらず、知らない人が4人ほど買って下さっており、思いがけないことであった。4冊の印税を合計140円貰ったが、これは今も笑い話の種にして楽しんでいる。

 このあたりからの作品は、大抵ネットのどこかには書いてあるから、だいたい残っている。この頃詠んだものは、4千~5千句を超える程度には達していると思う。

 その後しばらくして、「今日の季語」で詠むのをやめてしまった。それは、肝心の中心人物、HAYASHI Yoshioさんのツイートに、政治的に偏向したものが増えてきて、見ていて辟易し、フォローを外したからである。

 私も、まるで矢数吟のように毎日毎日二十も三十も詠み散らかすのは、やめにした。毎週、さえずり派の一つの季題を、大切に大切に詠むようになり、週に1句、多くて2句を詠むようになった。NHK俳句への投句も、いつの頃からかやめてしまった。

 ブログやツイッターに俳句を詠み続けるのは、牛乳瓶に手紙を入れて幾つも幾つも海に流し続けるようなものである。それがつまらないとは思わない。けっこう楽しいのである。俳句の「俳」という字は「わざおぎ」と()み、これは「俳優」という単語からも分かる通り、人を楽しくさせるという意味がある。勿論第一義としてそれはそうなのだが、その一方、「人に非ず」と書いて「俳」となるとの解字もあり、また「俳人」は「廃人」にも通ずるところが否めず、つまりものに(こだわ)らぬ枯淡の境地もまた尊ばれなければならない筈である。政治などとは相容れぬ。浮世の雑想から離れ、花鳥諷詠(ふうえい)飄々(ひょうひょう)と吟じるようなありかた、それが大切だとも思うのだ。だから私も、どこかの同人になろうというような気が全然ない。なにより、高名な先生について、師匠と弟子の礼を丁寧にとって付き合っていくというようなことも面倒臭いと思う。それは「俳」とあまり関係がないようにも思う。

 さはさりながら。しかし、先日来、「じたばた句会」に参加してみていると、これはこれで楽しいのである。

 この「じたばた句会」に参加している人の多くが、Twitterで「いつき組」を標榜しておられることを知った。たいていの人が俳人・夏井いつき氏の「俳句ポスト365」や「一句一遊」といった発表先に、積極的に投句していることもわかった。夏井いつき氏と言えば、最近テレビで芸能人などが俳句の腕を競う番組が俄かに増えてきたが、こうした番組にはなくてはならぬ人として引っ張り凧の状況である。私も10年くらい前だったか、NHK俳句のゲスト選者に出ておられたのを見たことがあり、大変な力のある先生だ、という印象を受けたものだ。たしか、その時は「雲の峰」「山笑ふ」の季語を紹介しておられたと思う。その後、今までの俳句界興隆への夏井氏の貢献たるや、誰知らぬものもあるまい。

 それで、私も今日、夏井氏が中心のサイトと、日本伝統俳句協会のサイトに何句か投句してみた。

 無論、私如きが素人臭い独りよがりなものをいくら発表したところで見向きもされまいが、ちょっと試してみたくもなるではないか。なにより楽しそうである。

秋思(しゅうし)

投稿日:

 さえずり季題の当番が回ってきた。以前2回続けて出したこともあったが、二人置いてすぐ、というのもめったにない。

 去年の今頃も「月」にかかわるもの(真夜中の月)を出したことがあったが、今回は秋思(しゅうし)にしてみた。