探されない

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 「死にたい」などと書くと物騒だし人様の迷惑でもあるから言いたくも書きたくもないし、思いたくもない。だが、「消えたい」とは思う。誰の迷惑にもならずスッと消えるのだ。

 そんなふうに消えられないものかと思うが、もし消えたら、私の妻は私を探さざるを得ない。たとえ本人が探したいと思っていなくても、社会的責任は私を探せと妻に命じるだろう。これは妻にとっては負担以外の何物でもない。

 だから、消えたい死にたいと願うのならば、探されることなく、妻をはじめ、両親兄弟、友人知己の記憶から完全に消えなければならない。

 そんなことは不可能だとわかっているから、死ぬわけにも消えるわけにもいかない。

 親不孝という見方がある。親は自分の勝手で子を作ったのであるから、子が死んだり行方不明になったりすれば、そりゃあ、葬式を出すなり探すなりしなくちゃならんだろう。だが、それが悲しく慟哭の極みであって、そんなことを親にさせるのは不孝である、親に損失を負わせることだという。いや、損失、て……。つまり我が子の痛み苦しみを悲しむのではなく、親の損失であるからそれはよせ、というのである。

 なんか、ねえ。

 キリスト教は自殺を禁じるが、そこには「人間は放っておいたらどんどん自殺する、だから死なないように脅しておかないと」という宗教的歯止めのあざとさが透けて見える。そりゃあ、教団にゼニカネを持ってくるのは死人ではなくて生きている人なんであるから、できるだけ多くの人に生きていてもらわないと坊さんも困るだろう。

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