古川緑波昭和日記 昭和13年

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以下引用

(昭和13年)十月十六日(日曜)

 晴れなら近郊ロケの筈だが、雨、で今日は撮影はお流れ。ひどく寒くなった。三時近く家を出る、歌舞伎座へ。三円以上の芝居は一軒もないのに此処は六円半で、満員補助出切りだから面白い。道子僕他堀井夫妻と柳。羽左と菊五郎でいゝ役は一手になっちまふので他の役者はほんの一寸宛。幕間に支那定食を食ひ、放送局へ。七時半から二十五分、物語「大番頭小番頭」、たゞ読むのだから、楽だが、面白くもなからう(60)。又歌舞伎へ引返す。菊五郎の女形は何か大きな間違ひをしてゐるやうな気がする。すべて六代目はジミすぎたので羽左の印象が強い。帰りに千成へ寄りすしをつまみ、屋台のホットドッグを食って帰る。

 三時から十時まで、七時間といふもの、兎に角見てゐられるといふ「忠臣蔵」ってものゝ偉大さ、こればかりは洋楽のない物足りなさも忘れて、面白く見終った。結局「忠臣蔵」の作者と、そしてショウマンシップの勝利である。判官と勘平の切腹に泣いてゐる女客が大分あった。それはお婆さんか、若くても花柳界の女らしかった。モダン娘は、ちっとも悲しがってゐないのだ。こゝんとこが面白い。



古川緑波

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 古川緑波(ロッパ)と言えば、戦前から戦後にかけて活躍したお笑い芸人である。

 20年ほど前のお笑い界勢力図で例えて、「今のビートたけしがエノケンこと榎本健一なら、さしずめタモリが古川ロッパと言えようか」ということを聞いたことがある。

 さてその古川緑波、もともとは映画評論などを書いていた編集者で、ために文筆をよくし、随筆などが多く残っているということをつい先週知った。日記書きであることもよく知られ、その膨大な量の日記は第一級の庶民史資料でもあるという。今でいう「ブロガー」にあたろうか。

 食いしん坊で、食べ物のことをよく書いており、雑誌の連載にそれが残る。

 昭和36年に亡くなっているので、既に死後54年ほど経ち、日本法では著作権消滅のため、青空文庫等でその文筆の多くを読むことができる。

 平易かついきいきとした文体で、読みやすい。


罪のロシアンルーレット

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 インフルエンザで出勤禁止、居間に出ようとすると家族への感染も心配だ。いきおい寝間から一歩も出ずに引きこもるが、寝間の無聊を慰めるものと言ってはタブレットぐらいである。

 いい時代で、こんな外出もできない折でも、Kindle/Amazon、とりわけ青空文庫の成果物はよりどりみどりの読み放題である。愛用のタブレットにKindleアプリをダウンロードしておけば、家から一歩も出ずに図書館にいるようなものだ。

 先ほどまで読んでいた坂口安吾の「白痴」は、4月の東京大空襲の2夜目が主たる舞台だ。作品は大空襲を絶好の環境として使った、「生きる」ということに対する内省と自問であり、おそらく坂口安吾にしてみれば、他に適切な舞台があれば別段東京大空襲でなくてもよかったのだろう。だから、この本を読んだからといって東京大空襲について筆のすさびを始めるのは当たってはいない。

 しかしそれはそうでも、読後の思いは乱れるのであった。

 ゲルニカや東京・大阪がもし欧米白人の手によってなされなかったとしたら、この「一般市民が現住する都市への無差別爆撃」という人類史上最も憎むべきことに位置づけられなければならないはずの大犯罪に最初に手を染めるのは、一体誰であったろうかと考えてしまう。

 もし我が国であったら、と想像すると暗鬱な気持ちになるが、明治維新から終戦までの帝国にはそれだけの力はなかった。大陸に対しては幾分その程度の軍事的実力はあったが、いわゆる渡洋爆撃など、その後米国によって我が国に向けられた蛮行に比べれば、まことにもって礼儀正しいものであった。

 だが、実行は別として、単にそれを選ぼうとするだけなら誰にでもどの国家にでもできる。帝国がそれを選ぼうとしたかどうかである。「最初に選んだ者負け」だ。そして、その永久の罪の汚名は、さながらロシアンルーレットのように、欧米白人が先に引き当てた。

 運悪く引き当ててしまったのか、彼らが自らの手で握りとったのか、それはわからない。強いて言えばおそらく両方だろう。歴史の流れは必然として彼らにその籤をあてさせたし、かれらは能動的にその籤を引き当ようとして引き当てた。

 そうしてでも、彼らは生存したかった。そういうことだろう。

 文字のない太古、アフリカあたりの熱帯で生まれた人類は、弱いものを辺境へ辺境へ差別・排除しつつ、繁栄を謳歌してきた。

 遠く北の寒冷飢餓の土地へ追いやられた生白い一団は、数千年にわたって臥薪嘗胆、牙を研ぎ、500年ほど前から断固復讐を開始した。ローマ法王からスペインとポルトガルに対して発せられた大デマルカシオンがそれである。

 いくつかの紆余曲折を経ながらも、1494年にポルトガルとスペインがトリデシリャス条約を結んだ後、かれらがアジアと米大陸を総なめにしたことは歴史上の事実だ。ことに南米においてスペインのしたことなど、悪鬼をしてその顔色をさえなからしむる、酸鼻の地獄絵、鬼畜の所業である。

 しかし、いかに鬼畜スペイン、ポルトガルといえども、当時は強大なイスラム圏の処理は簡単には済まなかった。欧米白人にとっての歴史的やり残し、それがイスラム圏の処理なのだ。

 近代に至って、その後英国、あるいは米国へとバトンタッチしながら、白人がその人類全体に対する復讐の魔手をついに悲願のイスラム圏へ向けているまさにその時が、今なのだと言える。

 500年もの期間を費やして太平洋を押し渡るために向けられた復讐の前縁が、東京や大阪や広島や長崎であったのだ。彼らが犯罪人の汚名を着ながらも決してやめようとはしない、今の中東への憎悪もそこにつながっている。やっと手に入れた日本を手放さない意義もそこにあるが、邪魔になれば見殺しにするだろう。